論創ミステリ叢書の一冊。
今回はシャーロック・ホームズの翻訳で名高い翻訳家の延原謙の創作と評論・随筆を集成したもの。
延原謙は本名は字は同じだが「ゆずる」と読む。1892年に岡山に生まれる。早稲田大学理工学科卒業。通信省電気試験場勤務の傍ら外国雑誌に載った探偵小説を翻訳し、それが森下雨村に見出される。電気通信試験場では海野十三の先輩に当たる。
やがて職を辞して翻訳業に専念。博文館に入社して<新青年>の第三代編集長を務めた他、<探偵小説>等の編集にも携わる。雨村が博文館を退社したときに殉じて辞職。
博文館退社後に<新青年>で連続短編を執筆する。これは江戸川乱歩以来、有力な新人作家に腕試しさせるための恒例かと思っていたが、リストをつくってみると延原の他に雨村もいるし、渡辺啓助はデビューよりずっと後年だし、一概ではない。
戦前戦後を通して翻訳を続け、ホームズ・シリーズの初の個人全訳を達成。1977年、死去。
あくまで翻訳家であり、創作は余技に過ぎない。初期の作品には理化学トリックを使ったものがあったが、乱歩の「日本の探偵小説」(1935)では情操派に分類された。
「心霊写真」では、素人写真家が撮った写真に三年前に死んだ女の姿がはっきり写っていた。超自然現象を信じられない彼はいろいろ実験を重ね、その写真を撮った写真機を使ったときに限って印画紙にぼんやりした映像が写ることだけは確かめた。思案に暮れる彼に本職のカメラマンの友人がある提案をする。
小品ではあるが、こんなこともありうるかとそこそこ面白い。
「幸蔵叔父さん」からはもう情操派になっている。中国地方の医者の一族に生まれた語り手は、大好きだった幸蔵叔父が突然いなくなって、両親からそのことをもう聞くなと戒められたことに長年疑問を持っていた。東京で大学生活を送る語り手がY先生から借りた本は元は叔父の蔵書であって、語り手は血相を変えてY先生に叔父のことを問いただす。
語り手の回想から不遇だった叔父の人柄が浮かび上がってしみじみする。
<新青年>の七ヶ月連続短編の最初の四編は、本業大工だがこっそり泥棒もする幾野鉄太郎と、警視庁の五十嵐刑事を登場人物とするシリーズだが、どれも今一つである。
「氷を砕く」では、鉄太郎が忍び込んだ先で押入れの死体を発見する。出だしはいいのだが、これでは市井の事件で探偵小説にならない。
「レビウガール殺し」は、鉄太郎がタクシー強盗の被害者らしい運転手を助けるが隙を見て逃げ出される。前夜タクシーが盗まれた場所の近くで殺人があった。
随分無理な筋立ての上に容疑者らしい男を見かけて逮捕するだけで解決するのはいかがなものか。
「悪運を背負ふ男」では、酔って井戸へ落ちた鉄太郎が死体を見つける。それは出所したばかりの十万円拐帯事件の犯人の死体だった。今回はトリックらしきものを仕掛けたが枚数内で収め切れなかったようで、地の文での語りが暴走してしまう。
「N崎の殺人」は、海水浴場に来た鉄太郎と五十嵐刑事が殺人事件に遭遇する。岬で顔馴染みの青年の弟が刺殺されていたのだ。五十嵐刑事が犯人を捕らえるが、犯人特定の手がかりが提示されなかった。
連続短編の残りのうち、「三ケ月の日記」「ドンドの淵事件」はまあまあの出来。
「三ケ月の日記」は、大会社の出納係の老人を襲って給料五万円を奪おうとした男の題名通り三ヶ月間の日記。綿密な計画と大胆な実行。事後は事件が表沙汰にされぬことに却って怯える日々。日記の書き手の揺れ動く心が伝わって面白い。
「ドンドの淵事件」で、満洲から一旦帰国し海辺の保養地で旧友二人と再会しようとした語り手は、そのうち一人がつい最近殺されたことを聞いて愕然とする。友人が死んだのはドントの淵という場所で、そこは「うなで様」という蛇神がいると迷信深い村人に信じられていた。友人の死の現場を確認にいった語り手は新たな死体を見つけてしまう。
謎の解明自体はストレートなのだが、遺書を残して死んだ人物の悲しみが伝わってくる。
「ものいふ死体」は冒険もの。満洲国で食い詰めた不破軍太郎は、総領事書記官の橋本に容貌が瓜二つのことから身代わりとなっての東京行きを十万円で依頼される。
連れとなるのは軍太郎を吉本と呼ぶダンサーのヒトミと、相棒の鉱山師木谷良平。
汽車で大連まで、そして連絡船で神戸まで。さらに急行燕号で東京へ向かう。
細かいところに筆が及んでいないのでもどかしくはあるが、それでもハードボイルド・冒険ものとしての味わいはある。
「腐屍」は、恋敵を殺して空き家に放置してきた男の手記。いつまでも事件の報道がないのでやきもきする一方、彼が馴染みのある女が殺されて自分には身の覚えない事件で当局の手が迫っているのを感じる。
犯人が追い詰められていくさまに迫力がある。犯人が作者と同じ電気技師であってその職場の描写が興味深い。
延原の創作はあまり感心しない。妙に勘所をはずした作品がやたらに多い。
本業の翻訳としては、贋作ホームズの「求むる男」が収録されている。再読になるがこれは面白い。
評論・随筆の方は流石によい。<新青年>初期の翻訳事情がよくわかる。ドイルやクリスティに対する評価も的確である。