貫井徳郎『神のふたつの貌』

貫井徳郎『神のふたつの貌』



 この作者のものは雑誌で読んだ短編以外はデビュー作の『慟哭』(1993)以来初めてである。シリーズものが多い作家はそのシリーズに乗り遅れるとどうしても読みにくくなってしまう。この作品はシリーズ外の単発作品で評判もそこそこいいので読んでみた。

 早乙女は田舎町の教会の牧師の息子である。厳格な父は小さいながらも由緒ある教会を模範的な宗教者として運営していたが、牧師の妻になりきれない母には鬱屈が溜まっていた。無痛覚症で痛みというものを知らない早乙女は小学生には似合わない態度で父と母を見つめていた。そんなときヤクザに追われているという青年が礼拝のさなかに現れ、教会の居候として居ついてしまう。決して悪い人物ではなかったが青年の存在は牧師一家に辛うじて保たれていたバランスを崩していく。(第一部)
 大学生となった早乙女はクラスメートの女性と付き合うようになった。彼女もクリスチャンで片足に障害があった。素直に神を信じる彼女を早乙女は羨ましがる。足の障害という苦行が彼女に神を近しいものにさせたのではないか。一方、早乙女のアルバイト先のコンビニで突然帰って来た経営者の息子によりトラブルが引き起こされようとしていた。(第二部)。
 郁代は結婚に失敗して心を病んでその町に帰って来たが実母との折り合いが悪く、彼女の居場所は早乙女が牧師を勤める教会だけだった。早乙女は郁代が自分に惹かれていることがわかるが、妻を亡くした身であってもどうしてやることもできなかった。そんなとき郁代の前に余所者の男が現れる。さらに早乙女は息子が何かに頻りに悩んでいるのに気づく。(第三部)

 久々に読んだ作品なのに、サイコ・サスペンスであることや宗教がテーマであることなど『慟哭』とかなり共通点が多いのに驚いた。
 三部を通じて繰り返されるのは、なぜ神は人間を不完全に創り、人間に不幸を与えるのかという問い掛け。その回答として示されるのは、人間の霊は生まれる前に神と契約してきたというもの。 現世で不幸な人は敢えて我が身に不幸を与えて欲しいと望んで契約して生まれてきたことになる。
 敬虔な信仰であったもの。それがいつしか静かに歪み出す。神とは何か。罪とは何か。そして救いとは何か。

 小説としてはさすがにうまい。重いテーマを扱おうとした試みにより力作感がある。 ひとりも根からの悪人といえる者はいないのに数々の悲劇が起き、自ら殺人を選び取る人物も出てくる。
 だが、キリスト教をある程度知っているとどうしても違和感が強い。問題の教会についてはプロテスタントとあるだけだが、特にプロテスタントはカトリック以外の全部がそれだから宗派によって全然違う。基本的に聖書の中に全てがあるというのがプロテスタントの立場だが、宗派によって解釈は異なる。 作中の解釈はどこのものなのだろうか。 どれか宗派を特定するか、差し障りがあるなら架空の宗派名をつけるかして欲しかった。そうすればもう少し受け入れやすかった。
 日本でキリスト教というとどうしても誤解されがちなのだが、それに輪をかけそうなのがちょっと心配。例えば
渡辺啓助「聖悪魔」に対してならそんな心配もしないのだけれど。


→冒頭
→貫井徳郎目次
→読書日記
→表紙