本名栄次郎。幼時は神童だった。中学卒業後、印刷所経営に失敗。売り喰い生活を続けながら探偵小説を書き始める。あの超人的知識は殆ど独学で身につけたものである。
さて、三人の異端作家のうち、私は、久作には心酔しているけれど、虫太郎、十蘭にはさほどではありません。せいぜい教養文庫の傑作選を読んだ程度です。十蘭はまだいいのですが、虫太郎にはどこか馴染めないところがあって……。この大物二人についてはざっと流すことにします。
虫太郎は、結核で倒れた横溝正史の後を受け、*「完全犯罪」で彗星のように出現しました。
舞台は支那辺境の異人館。マーラーの調べにのった密室内での怪死。大胆なトリック、そして鮮烈な動機。
虫太郎のトリックは、その作品世界を離れては到底成立し得ません。溢れるペダントリーが読者の目を眩ますのです。虫太郎作品が衒学と超論理で書かれた散文詩といわれる所以です。
その世界で探偵役−乃至案内役を務めるのは、刑事弁護士法水麟太郎。錬金術師が化けたファイロ・ヴァンスの異名をとる彼は、支倉検事と熊城捜査局長を従え、*「後光殺人事件」*「聖アレキセイ寺院の惨劇」「夢殿殺人事件」「失楽園殺人事件」といった迷宮を闊歩しました。どの事件もその途方もなさには唖然とさせられます。−陶然、まで行かないところが悲しい。
とは言え、そんな私でも*『黒死館殺人事件』には感嘆せざるを得ません。今回で三回目の読了だけど、何度読んでもよくわからない。それでも無性に面白い。
左右の入れ替わった甲冑の旌旗は虐殺(マッサカー)の宣言であり、犯行現場にはファウスト博士の呪文が残される。鐘鳴器(カリルロン)は不可能な倍音を鳴らし、至る所に死者の影がさす。詩文の引用合戦の裏には心理試験の罠が密み、三百年前の殺人に犯人の名を求める。目眩めく装飾の数々よ!
でも、単純に犯人探しの興味だけで読めば、案外中身が薄く思われます。ヴァン・ダインの一番悪い部分の模倣に過ぎないという見方もあります。
だが、この作品で最も重要なのは犯人の動機です。非人間的な実験に対する怒りがこの壮麗な犯行を完遂させたのです。そして、それは降矢木家とともに何者かを崩壊させました……。
なお、この巻は、挿画松野一夫、解説塔晶夫(『虚無への供物』発表時の中井英夫の筆名。念のため。)という豪華版でした。
その後も*「オフィリア殺し」『潜航艇「鷹の城」』「人魚謎お岩殺し」と法水物は続きますが、『黒死館』以前の作品とともにそれこそ『黒死館』の脚注ぐらいにしかなりません。初期の作品で『黒死館』の光輝に打ち消されなかったのは*「完全犯罪」の他は「白蟻」があるだけです。
官憲に追われた教主一家は上信の秘境に土着した。生きながら朽ち果てていく一族の中、長男の嫁滝人だけは、ある疑惑を糧として理性を保っていた。五年前の事故で顔貌も人格も一変した夫は、実は別人ではないのか。今の夫を厭い、以前の夫の幻を慈しむ彼女は、それに生写しの義妹へと惹かれていくが……。お家芸のペダントリーはいつもより抑え目ながら効果的で、文学的香気さえ漂う文章でこの悲劇は語られていきます。−悲しい話だった。
虫太郎の作品は初期の理知的なものから次第に伝奇的なものに移っていきましたが、その頃の佳作に「紅毛傾城」があります。千島列島に黄金郷(エルドラードー)を求めるという破天荒な設定で、また、虫太郎のレズビアニズム趣味が最も美しく結晶しています。
その延長線上に彼の提唱するところの新伝奇小説『二十世紀鉄仮面』があるわけですが……。なんというか、私にはこの長編はギャグとしか読めませんでした。虫太郎と法水に対する拒否反応がこれで一気に噴出したらしく始めから終わりまで大笑いでした。ははははは。
『人外魔境』全十三編。探検家にして軍事探偵、折竹孫七を主な主人公とするこのシリーズは、雄大且つ奇想天外、SF前史的にも重要です。でもこれは、単に秘境小説を楽しむつもりで読むとちっとも面白くありません。片輪の獣のみが棲息する畸獣楽園(デーザ・バリモー)とか、エキスモーの死体がそこを目指して橇を駆る冥路の国(セル・ミク・シュア)とか、前宣伝は大いに魅力的です。しかし結局辿り着けなかったとか、行き着いても虚構だったとか、実在してもそこの描写がなくて話が終るとか、そんなのばっかりなのです(「『太平洋漏水孔(ダブックウ)』漂流記」は例外的傑作)。小栗が書こうとしていたのは、魔境そのものではなく、それに相対する人間の方だったのかもしれません。彼の魔境は”失われざる世界(アンチ・ロスト・ワールド)”だという評もありました。
虫太郎は社会主義探偵小説と称する長編+『悪霊』の冒頭二十枚を残して脳溢血で仆れました。膚に合わないところもあるけど、虫太郎の創始するはずだった社会派の方が清張の社会派よりもきっと好きになれた、そんな気がします。