そろそろブレイク間近と思われる著者の初の本格推理短編集、のはずだが。えらく奇妙な小説集になっている。著者についての予備知識があってよかった。さもなければ途中で怒って放り出すことにもなりかねない。
基本的には、引退した判事である関根多佳雄の周辺で起こった事件を拾い集めたという構成。様々な視点から語られ飽きさせない。
この中で正統的な本格推理短編と言えるのも何本かはある。その最左翼が「待合室の冒険」だろう。多佳雄と息子の春が電車の事故で駅で足留めを食ったときの出来事。春はたまたま漏れ聞いた一言からケメルマン「九マイルは遠すぎる」並の推理を働かす。
一方で最右翼は、「新・D坂の殺人事件」。これも乱歩小説なのだろうか。大正のD坂が本郷団子坂なら、現代のD坂は渋谷の道玄坂。そこで起こった奇妙な死について行きずりの二人は考察を凝らす。乱歩の本編を引用し人間の認識能力の不確かさが語られ、目前の事件について一応の仮説が立てられる。だが、それはどうにも納得しがたく、結局真相は明らかにはならない。
この二作品の両極の間に全ての作品が入る。そしてこの短編集のどの作品が好きかで、その読者の嗜好の傾向をはかるPH試験紙代わりにも使えそうだ。傾向は見事にばらばらだが、どの作品も質はよい。
私のベストは「ニューメキシコの月」。九人の男女を人知れず殺してその死体を自宅に埋めていた男は、評判のいい医師であった。彼が何故そんな行為に及んだかを検討して行くうちに、黒々とした闇が浮かび上がる。
「誰かに聞いた話」は、小品でありながら切れ味鋭く印象深い。
掉尾を飾る「魔術師」は書下ろし。冒頭の初売りの描写の段階から舞台はあのS市ではないかと思ったが、大当たりだった。合併、政令指定都市、歌謡曲に歌われたH川、ときたらもう間違えようがない。とどめは観音像である。急激に変化していく都市の奥底にうごめくものを感じ取ろうとする姿勢は、一度はそこに住んでいた者にとってはなおさら感慨深い。果たして「彼」は実在しているのだろうか。