ポオの生涯

ポオの生涯


 ポオの生涯について記します。参考文献はJ・シモンズ『告げ口心臓 − E・A・ポオの生涯と作品』(東京創元社)。

 まず、生年月日等基礎的事実の食い違いはポオ当人の責任です。自分の経歴に脚色をほどこし、よりドラマチックなものに書き換えていました。

 ポオの父デイヴィドはボルティモアの出、職業は俳優。母エリザベス・アーノルドはイギリス生まれのやはり女優。ポオ夫妻はボストン座の有力メンバーだった。長男ウィリアム・ヘンリー1807年1月誕生。そして次男エドガー1809年1月19日誕生。その後一家はニューヨークに移り1810年長女ロザリー誕生。1909年以降の父親の消息は手がかりがなく、母親も1811年リッチモンドで死亡。
 幼い頃なくなった両親ですが、エドガーには彼らと同じ役者の血が流れていたのでしょう。ボストンの生地の住所はあいにくわかりません(^_^;)

 その後エドガーはリッチモンドの商人ジョン・アランに引き取られる。養母が死んでから養父アラン氏はエドガーにつらくあたるようになってきた。エルマイラ・ロイスターに求愛するが、彼女の父親の反対とエドガーの大学進学のため、別れ別れになる。
 1826年2月17才でヴァージニア大学に入学したが、賭博の借金のため養父の激怒をかい退校。1827年3月、家を飛び出しボストンへ向かう。
 ボストンにて陸軍入隊とともに処女詩集『チムール大帝、その他』を出版。その後、ウエストポイント陸軍士官学校に入学。1831年、ついに養父と決裂、士官学校退校。

 それ以後はボルティモアで叔母のマリア・クレムの一家と暮らす。1833年、「壜の中の手記」が週間雑誌の賞金獲得。
 1835年、リッチモンドの《サザン・リテラリ・メッセンジャー》誌の編集助手となる。それと同時にマリアの娘、従妹のヴァージニアと結婚。彼女は当時13才だった。
 《メッセンジャー》誌では辛辣な批評でならし、さらにアメリカ文学を向上させるための理想の雑誌を発刊しようとの夢を膨らませていった。
 飲酒で《メッセンジャー》誌を首になり、ニューヨーク、フィラデルフィアと移り住み、雇われ編集者と寄稿家として生活を続ける。

 1847年、愛妻ヴァージニアを結核で失う。おそるべき衝撃から立ち上がろうと新雑誌《スタイラス》発行への想いはいよいよ募る。この当時の作品としては独自の宇宙論にして散文詩の『ユリイカ』がある。
 プロヴィデンスのセアラ・ヘレン・ホイットマン夫人と知り合い求婚する。一時期婚約もしたが彼女はとうとう結婚に踏み切れなかった。ポオの死後、ヘレンはそれを後悔し、ポオについて書くことが彼女の主要な仕事となった。
 新雑誌の発行の準備のためリッチモンドに向かい、そこで初恋の人、未亡人となったエルマイラ・ロイスター・シェルトンに再会、婚約する。
 1849年9月27日リッチモンドからボルティモア行きの汽船に乗り、消息を絶つ。10月3日ボルティモアのライアン区第4投票所で昏睡状態で発見される。10月7日死去。享年40才。

 自己の才能を認められず彷徨した天才の肖像には鬼気迫るものがあります。そしてまた、あくまで理想の雑誌の発行を追求した姿に魂をゆすぶられます。



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