ミステリー文学資料館編『「探偵趣味」傑作選』の項でも述べたが、<探偵趣味の会>は日本最初の探偵小説アンソロジーを刊行した。その四冊全部が春陽堂から復刻され現在容易に手に取れるようになっている。
その第一巻目が本書。二巻目以降は年間傑作選となるが、大正15年に発行された本書は、それまでの探偵小説短編の集大成で当時活躍していた作家ほぼ全員が一堂に会した。
先陣を務めるのは江戸川乱歩。「心理試験」は乱歩がこの一編で専業作家として筆一本で立つことを決意した入魂の作である。
苦学生の蕗家清一郎が企てたのは『罪と罰』のラスコーリニコフと同じ金貸しの老婆殺し。綿密極まる殺人を実行した彼は、ポルフィーリイ予審判事よりもなお恐ろしい明智小五郎を相手に回す破目になる。虚々実々の心理戦の行き着く先は今読んでも鮮烈である。
大下宇陀児「金口の巻煙草」は、作者の処女作。同じ職場に勤めていた甲賀三郎に触発されたもの。銅山の重労働から逃げ出してきたという少年に同情した一高生の冒険談。初読。筋立ては習作の域を脱していないが、旧制一高の寮生活の描写など瑞々しい。
川田功「偽刑事」では、美しい婦人をつけ回した男がデパートで彼女が万引きしたのを見つけて付け入ろうとしたが、思わぬ逆転を食らう。小品。<幻影城>で既読。作者のものはこの復刻であと一編読める(→作品目録)。
川田功は海軍の退役軍人。小説家としての業績は残っていないが、<新青年>編集部に出入りしたことによりデビュー前の夢野久作と文通するようになり、『ドグラ・マグラ』の成立に重大な影響を与えたことが近年の研究で知られている。
国枝史郎は、言わずと知れた伝奇作家で既にこの頃代表三作を平行して執筆している(『蔦葛木曽桟』1922.09-1926.05,『八ヶ嶽の魔神』1924.09-1926.07,『神州纐纈城』1925.01-1926.10)。代表長編の多くが憑かれたような筆致で突き進むもののかなりが未完で終っている。なんと初期には探偵小説も書いていたんだそうだ。「アラスカの恋」はカナダはフェアバンクスの元鉱山師の富豪の令嬢と、酒場のベールの踊り子の両方に色目を使う男の陥った罠。初読。ちゃんと探偵小説になっていたので返って驚いた。
甲賀三郎「琥珀のパイプ」は、作者の出世作。本書中で乱歩の「心理試験」に辛うじて匹敵するのはこの作品のみであろう。
小酒井不木「呪はれの家」は、先に少年もの通俗ものはあるが作者自らが認定する探偵小説第一作。三等訊問法を遥かに超える特等訊問法を駆使する霧原庄三郎警部の事件簿という体裁なのだが。作中の科学捜査の緻密さに対する事件の異様さと結末の下世話さが調和せず、なんだか奇妙なものになってしまった。怪作。
白井喬二は『富士に立つ影』『新撰組』など時代物の作家。「唐草兄弟」は儒者の三人息子の各々が生理医学、犯罪学、発明の才に秀でていたのに、つまらないことからそれを失う話。初読。探偵小説じゃない。
城昌幸「シャンプオオル氏事件の顛末」は、作者の初期代表短編の一つ。南洋旅行中に起こった事件は、解き明かされない謎のために不気味である。
平林初之輔「予審調書」では、息子が殺人で逮捕された老教授が予審判事に食い下がる。たった二人の人物の対話のみの密室劇。緊迫したやりとりの末に明かされた真実は感動を呼ぶ。
作者はプロレタリア文学の理論家だが、探偵小説の評論も実作も著し(→作品目録)、本作は小説の第一作である。
本田緒生「美の誘惑」は、作者の第二作で、探偵秋月が婚約者に送る書簡で構成される。三年後に乱歩も使ったある趣向が先駆けて用いられている。作者のものでは秋月を主人公とするものはそこそこ面白く、さらに続編の「蒔かれし種」もアンソロジーで読める(→作品目録)。
牧逸馬「上海された男」では、船員宿で相部屋の男を殺したと疑われた男は、どうにか警察の手をのがれて外国籍の貨物船に逃げ込んだ。一安心も束の間、不測の事態で日本の港に入り男は船底深く隠れる。そこで彼が見たものは。
作者としても最初期のもので(→作品目録)、特殊な世界を扱いながらもその広い見聞に裏打ちされたリアルさを感じさせる。夢野久作の「難船小僧」「焦点を合わせる」などの先駆的作品である。
正木不如丘「漆黒のレツテル」は、院長夫人の変死事件。脳髄の出血と診断されたもののあまりにも突然な死。塵埃箱からモルヒネのレッテルを発見した刑事は殺人とにらんで意気込む。
この著者のものは始めて読んだ。本業の医者の方でより有名で、本作もいかにも医者の書いた話だがこれだけでは何とも言えない。
松本泰「三つの指紋」は、作者得意の英国もの。留学した画学生が道を踏み外し生活苦に喘いでいたところを曲馬団の親方に救われる。ところが親方が殺され疑いは主人公にかかる。初読。題名通り指紋で犯人が割れてしまいひねりも何もない。そこがまあ作者らしいとも言える
(→作品目録)。
水谷準「孤児」では、孤児院でいっしょに育って成人しても兄弟のように暮らしていた片割れに突如遺産が舞い込んだことを聞かされた男が嫉妬心を爆発させる。やはりごく初期の作品で(→作品目録)、一応工夫は凝らしてあるがまだ水谷らしいセンチメンタリズムの欠片もなく感銘が薄い。
山下利三郎「頭の悪い男」では、町中で見覚えのない男に呼び止められて料亭に連れ込まれた男は悪党に刑事と間違えられたと慄く。小心にもその場から逃げ出したがとある行動に追い込まれる。説得力に欠ける凡作。
乱歩の処女作「二銭銅貨」が掲載された<新青年>に先輩作家松本泰の「詐欺師」、ルパンの訳者保篠竜緒の「山又山」とともに掲載された短編で、利三郎にとっても<新青年>初登場作
(→作品目録)。
山下利三郎にしても松本泰にしても、日本探偵小説成立の上で乱歩の栄光の前にかき消された陰の作家であり、私には興味深い。
横溝正史「丘の三軒家」は、丘の上に並んだ三軒の真中の家の主人が掘りかけの井戸に落ちて死んだ事件。初読。デビューこそ乱歩よりも二年早い正史だが、このころは大したものはまだ全然書いていなかったんだなあ。
全16編中既読が10編。そのうち乱歩を除いた9編全てが<幻影城>と<別冊幻影城>で初読だった。島崎博編集長は本書の元版を種本にしていたに違いない。それだけ質が高いアンソロジーだったとも言えるだろう。
初読のものでは、国枝史郎が珍しくて嬉しかった。