渡辺淳一『冬の花火』

渡辺淳一『冬の花火』


 元版は1975年、角川書店より。
 この著者のものは朝日新聞に連載された『麻酔』しか読んだことがなかった。
 本書は
中井英夫が見出した夭折した歌人中城ふみ子の評伝。古本屋で手に取りどんなものだろうかと解説を見ようとして間違えて終章を開いてしまったところ、そこがちょうど札幌を訪れた中井英夫が病室に入る場面だった。思わずそのまま買ってしまった。
 中城ふみ子が札幌医大病院で亡くなったとき、著者はちょうどその大学の医学部の一年生であり、彼女が入院していた放射線科の病棟とそこで死を待つ人々を見たことがあったという。
 中城ふみ子の評伝ではあるが、小説形式であるのでどこまで正確かはわからない。書かれた当時は関係者も多数存命なので、差し障りのあるところは仮名を使っているようだ。少なくとも時事新報社の記者若月彰は時事新聞の高木章次と名前を変えられている。
 ふみ子自身による歌は満載であり、短い人生を恋に燃えて走り去った女性の姿を垣間見ることができる。

 中城ふみ子は1922年11月25日生まれ。実家は帯広の呉服店の野江家。女学校時代は派手で早熟な娘だったという。女学校卒業後は東京の家政学園に進学するが、二年して卒業後直ぐ両親に帯広に連れ戻される。
 戦争の真っ只中の1942年、ふみ子は中城弘一と見合い結婚した。弘一は北大工学部出身で札幌鉄道施設部に務めるエリートだったが、収賄で失脚する。いったん躓いた弘一はブローカーのような仕事を始めて荒んだ生活になる。一家は札幌、四国の高松と転々としたが、結局ふみ子の実家の援助を受けることで帯広に戻ってくる。その間で二男一女をなしたが、1950年、結局は別居となった。

 三人の子供を抱えた出戻りとなったふみ子だが、友人の誘いで気分転換として歌会に出かけるようになる。それまでの苦労や鬱屈した思いがふみ子の歌に深みを増し、それと同時に歌会のリーダーの男性に対して恋の炎を燃やすようになった。 その男性とは彼の女癖が原因で仲違いし、未練を残したまま彼は胸を病んで逝ってしまった。
 その後、自分より五つ下の青年と恋仲となるが、やがて乳癌が発覚。左乳房を切断する。生死をさ迷う病気を経て、ふみ子はさらに恋に貪欲になった。 付き合っていた青年とは、周囲の反対を押し切って結婚までこぎつけられそうになるが、今度は癌は右胸に転移していた。
 右乳房も切断したふみ子は、札幌医大病院に入院する。ふみ子は残された命をつなぐためかのように、札幌の歌人のリーダーや病院の若い医師を愛人にする。 そんなときに<短歌研究>への投稿が一位入選。1954年4月号に掲載され、中城ふみ子は中央歌壇に衝撃的なデビューを果たす。彼女を選んだのが当時<短歌研究>の編集者であった中井英夫であった。

 本書の表題の「冬の花火」は<短歌研究>に投稿したときの原題。太宰治の短編から採ったものである。中井英夫はこれを勝手に「乳房喪失」に変えた。中井英夫に関するところは『黒衣の短歌史』から情報を得たようでそこからの引用もある。
 中城ふみ子の第一歌集も中井英夫の尽力により作品社から出た。そのタイトルはやはり『乳房喪失』。本書ではふみ子が最後までそのタイトルを嫌がっていたように書いてある。これが書かれた時期では中井英夫・中城ふみ子往復書簡が表沙汰になっていないからやむを得ない。7月20日付けのふみ子の書簡にはこうある。”「乳房喪失」の題名のよさがやうやくわかりました。”

 東京の新聞記者がふみ子の取材に来て、ほだされてしまい同じ病室に寝起きしながら7月5日から7月25日まで一ヶ月近くも留まるという一幕。
 そしてついに中井英夫がやってきた。7月29日の朝、中城ふみ子は病室の前まで来た中井英夫を念入りに化粧して迎え入れるために十数分待たせたという。
 直後の容態の悪化。8月1日の中井の帰京。
 1954年8月3日、中城ふみ子逝去。享年三十一歳。

 恋多き女性。そして、こう生きるしかなかった女性。その肖像は残された歌とともに今なお鮮烈な印象を残す。
 だが、中井英夫・中城ふみ子往復書簡を読んでいれば、本書にも書き落とされた別の面があることを知るだろう。


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