先頃亡くなった最後の探偵作家、薔薇と悪魔の詩人こと渡辺啓助の初期短編集。桃源社版『地獄横丁』(1975)をベースに四編を加えたもの。桃源社版を読んでいる私には初読作は三編しかなかったが、追悼の意味も込めて全編読んでみた。アンソロジーや国書刊行会『聖悪魔』(1992)に収録の作品を除けば十五年ぶりの再読となる(→作品目録)。
渡辺啓助というと、乱歩や久作といったビッグネームに比しては知名度や実力が劣るマイナー作家というイメージがどうしてもある。長編の代表作を残せなかったことが影響しているだろう。
だが、今回の再読で思ったが、短編の質は驚くほど高い。
薔薇と悪魔の詩人という異名を取ったのは、一つにはタイトルに悪魔が多いから。本書中の「聖悪魔」「悪魔の指」の他にも「聖ジョン学院の悪魔」(1952)、「悪魔島を見てやろう」(1961)など。
だが、そんな表面的なことよりも作風にいかにも悪魔的なイメージがある。
耽美的で絵画的、流血の沙汰、残虐美、倫理観を欠く、といったところ。
ガジェットも薔薇の他に偽眼、アルコール漬けの人体の一部、刺青、埃及(エジプト)のミイラ。
登場人物の職業なら牧師に画家、詩人、旅芸人、そして売笑婦。いかにも探偵小説的である。
だが、「聖悪魔」が典型的だが、多くの主人公は別に悪魔的ではない。どちらかというと卑小な人物である。
日常にどっぷりつかった小市民があるきっかけで思いもよらぬ事件に巻き込まれる。
「聖悪魔」の牧師はただ日記に妄想を書き連ねていただけ。
「悪魔の指」の主人公の父親はしでかしたことを一本だけ生やしていた悪魔の指をドイツに捨ててきたと韜晦した。
またある者は空想に空想を重ねて奇妙な犯罪ともつかぬことを実行する。
処女作「偽眼のマドンナ」の詩人Qがそもそもそんな暇人。
「擬似放蕩症」の主人公は新婚の細君に架空の愛人の存在を見せつけいたぶる。悪魔派の無名詩人Rは一冊のアルバムを完成させる。
さらにその悪戯の度を過ごした者は初心とは裏腹のあまりにも重大過ぎる事態を引き起こす。
「タンタラスの呪い皿」にて、殺された男は軽はずみな実験によりある男の心をもてあそんでその悪魔性を呼び覚ましてしまった。
「吸血花」の犯人なんてなぜ殺人を犯したのか自分ですらわからない。
このように悪魔的といっても渡辺啓助の作品世界は高尚な犯罪哲学とは無縁である。
作者がこだわる悪の美しさはずっと卑近な肉体のレベルである。
人間なら誰でも持つ善と悪の両面、これは精神と肉体の二重性でもある。
人間が精神と肉体に分離され、肉体のレベルでの快不快感が暴走したときに悪魔は訪れる。
啓助の作品が脚や耳などに対するフェティシズムが顕著だと指摘もされるのはその肉体への鋭敏さの現れであろう。
だがそれでいて作品は決して泥臭くない。
詩人としての美意識により寓話のレベルまで昇華されている。
無残な光景ではあってもどこかしら美しい。
悪が完璧に勝利することはなく必ず滅びが伴う。
肉体から逃れ得ない我々人間の悲しみ愚かさをしみじみ感じさせてくれる。
渡辺啓助の作品はその活躍した全年代の代表作くらいは読めるようになっている。
その生涯の殆どを現役の探偵作家として活動し、過去の作品も通じて読まれる状態にあった啓助は幸運な存在だったかもしれない。
本書の刊行が呼び水になりまた新しい読者が増えてくれることを切に願う。