山田風太郎『同日同刻』

山田風太郎『同日同刻』

太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日

 もう一つ山田風太郎。今の時期にふさわしい書である。
 元版は1979年8月、立風書房より。タイトルとサブタイトルどおり、 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日を多くの資料をつなぎ合わせて世界的に時々刻々を追ったドキュメンタリーである。

 1941年12月8日の開戦の一日は時間単位で追う。宣戦布告の手続きがトラブルによって遅れて、結果的に真珠湾攻撃が通告なしの全くの奇襲になってしまった経緯がよくわかる。 一方で暗号情報もだだ漏れであり、ハワイ奇襲でない限りアメリカの方が日本が手をふり上げるのを待ち望んでいたという。そしてまたハワイ奇襲は一見大成功だが、空母は出航して不在であって、また工廠や油槽は無傷で残されて、後の太平洋艦隊の再建は可能だったという。
 日米開戦の報には随喜の涙を流す作家たちの手記が続く。当時の民衆の気持ちの代弁には違いはないのだろうが。

 そしてより問題なのは戦争終結直前の十五日間である。
 1945年8月1日、マッカーサー初めて原爆を知る。
 8月2日、原爆の攻撃目標が広島、小倉、長崎と決まる。
 8月6日、広島に原爆投下。多くの人の手記を引用して語られる被爆下の広島はまさにこの世の地獄であった。
 8月7日、広島に原爆投下の大統領声明。
 8月8日、ソ連より対日宣戦布告を通告。
 8月9日、日本時間午前零時よりソ連が満州と朝鮮に侵攻開始。長崎に原爆投下。
 8月10日、御前会議で戦争終結の聖断下る。東京よりポツダム宣言受諾文を放送する。国内より先に世界各地に日本敗戦の報が広まる。
 8月11日、連合国の協議で日本の降伏が天皇の国家統治の大権を変更せずという条件を含んで無条件でないことが問題になる。日本最初のジェット機「橘花」がテスト飛行中に海に飛び込む。
 8月12日、連合国側からの回答を受信。閣議が大揉めに揉める。 満州の新京では関東軍から先に逃げ出して、残された人々が大混乱を起こす。
 8月13日、日本から回答がないために空襲が継続される。最高戦争指導者会議で深刻な対立。陸軍ではクーデターの兆候あり。
 8月14日、B29が東京に飛来して降伏交渉についてのビラをまく。御前会議にて最後の聖断。 陸軍報道部の将校が戦争継続の偽の大本営発表をしようとするが取り消される。 外務省が正式にポツダム宣言受諾の通告電報を送る。 宮城にて天皇が終戦の詔勅を朗読して録音。
 8月15日、陸軍将校らが近衛師団長を殺害して近衛連隊出動を命令、宮内庁に乱入し天皇の録音盤を探すが発見できず(宮城事件)。阿南惟幾陸軍大臣自決。勤労動員中の生徒が主体の自称「国民神風隊」四十人が首相官邸などを襲撃する。 正午より天皇の終戦の詔書の朗読のラジオ放送。 宇垣纏中将、日本降伏後に大分の基地から九機の爆撃機で沖縄に特攻する。
 玉音放送についての感想はまた多くの作家の手記が引用されるが、風太郎の
『戦中派不戦日記』からのものもある。

 世田谷文学館の山田風太郎展で本書のための資料ノートの膨大さに圧倒された覚えがある。 混乱の新京に森繁久弥や中央観象台職員時代の新田次郎がいたり、奄美群島の海軍特攻の震洋隊の隊長が島尾敏雄だったり、意外な人物が意外なところに居合わせるのは明治ものや時代ものでの風太郎得意の手法のようである。
 8月10日の時点で降伏を世界に発表しながらも、終戦派と戦争継続派の抗争によって最終的な降伏が8月14日までずれこんでしまっている。クーデターが成功したらまだまだかかったかもしれない。 戦争継続派はあくまで本土決戦と一億玉砕を主張するが、東郷茂徳外相は”たとえ二千万の日本人を殺したところで、それは砲火と機械の餌食となるに過ぎない。頑張り甲斐があるならばどんな苦難も忍んでさしつかえないが、竹槍や弓ではしかたがない。軍人が近代戦とはいかなるものか知っていないのは、どういうことか。”と痛憤を漏らす。 フィリピンのレイテ島の捕虜収容所にいた大岡昇平は、”俘虜の生物学的感情から推せば、八月十一日から十四日まで四日間に、無意味に死んだ人達の霊にかけても、天皇の存在は有害である。”と述べる。
 この滑稽でもあり悲惨でもある愚行の有様はまさに山田風太郎の小説そっくりではないか。



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