山田風太郎は死んだ。そして作品は残った。
だが、量的にもジャンル的にもあまりにも膨大な業績のためにどこから手を付けたらいいか迷う人も多いだろう。
折りしも先年度の日本ミステリー文学大賞受賞に伴って本年より光文社文庫からミステリーの分野に限っての傑作選が発刊されている。
私はまず社会思想社現代教養文庫のミステリー傑作選を読んで風太郎に取り憑かれた。その後、明治もの、時代小説、忍法帖と読み進めてきたが、風太郎の本質は出発点の現代ミステリーから全く変わっていないと思った。奇想も虚無感も圧倒的な物語性も、全てミステリーを書いていた時点から風太郎作品の特性である。
光文社文庫の傑作選はどうしても既読の作品が多く、例えばこの巻なぞ全編既読なので、訃報の前にはどう扱おうか少々悩んでいた。だが、風太郎の一ファンとして、風太郎ミステリーの愛読者として、今後読んでいこうという方々の指針に少しでもなれればと思い、重点的に書評していくことにする。
本巻は本格編ということで荊木歓喜ものを除いた本格味の強い短編を集成してある。だが、読んでみればオーソドックスな本格短編など一つもなく、どれも相当ひねくれているのがわかる。
表題作「眼中の悪魔」は、第三作であるが、第二作「みささぎ盗賊」の前に書かれた実質的な第二作。あまりにも普通の本格ミステリーであったデビュー作「達磨峠の事件」と比して格段の進展が感じられ、風太郎はこのときからもう風太郎であった。
主人公は、自分の恋人を奪った年長者の家に出入りしながらも釈然としない思いを払拭できない医学生。彼は元恋人の医学的な障害に気づき、その夫をあおり立てて嫉妬の地獄に追いやる。夫は自らが妻の恋人と誤認した男を事故に見せかけて殺す。だが良心の呵責のためにそれだけでは済まず自滅するが、その結果が主人公に対しても致命的な打撃を与える。
風太郎作品に頻出するあやつりというテーマがかくも早く出現している。あやつりがどんなに見事であっても、その人形つかいまでも人形に引きずられるように破滅する点も共通している。
「虚像淫楽」で、夜の病院に運び込まれてきたのは、元はそこで看護婦として働いていた弓子だった。付き添ってきた義弟によると、弓子は夫に毒を飲ませられたという。千明医学士や塙博士は、元同僚の事件に驚き、弓子、夫、義弟の三者の関係に着目するが、沈黙を守る弓子をよそに次から次へと彼らを驚かす事実が出てくる。
弓子の肌に印されたみみず脹れは間違いなく江戸川乱歩『陰獣』の影響である。幾重にも渡る異常心理が登場人物と読者を惑わせる。そして謎をあばく探偵という行為自体がある種の凶器となって跳ね返ってきて探偵役自身も無傷では済まされない。
「眼中の悪魔」とともに第二回探偵クラブ賞短編部門賞を受けた初期代表作。このたった二編に盛りこまれた趣向を数え立てるだけでも空恐ろしくなってくる。
「厨子家の悪霊」では、山形の旧家厨子家の崩壊が語られる。厨子家には片目の犬猫が祟るといわれ恐れられていた。果たして馨子夫人の刺殺死体の発見現場には狂人の長男弘吉とともに片目の野犬がいた。
弘吉は前妻との子であり、前妻は発狂し夫の顔に硫酸を浴びせかけ自殺しており、当主荘四郎はそれ以来焼け爛れた顔を恥じて仮面をかぶって屋敷に引きこもっていた。馨夫人の連れ子芳絵は天使のような存在だったが、夫人の恋人伊集院医学士が魔手を伸ばす。
錯綜した人間関係の中、轟警部補は足跡の謎を解いて容疑者を逮捕したが、
それを嘲笑うかのように何者かの手記が警察に送られてくる。
何重ものどんでん返しを仕込んだ意欲作。どんでん返しのたびに読者もぶん回されて悲鳴を上げる。枚数と〆切の関係上骨組みのみと作者は弁明しているが、だからこそ異様な迫力を感じる。
「笛を吹く犯罪」は、四人の人物の手記で構成されている。死神と仇名される無名氏は硫酸で自殺を図る。同じアパートに棲む弦巻医師は婚約者の旗江を同僚の茨に奪われそうになっていた。一方、茨は旗江の心が自分にあると思いつつも確信が持てず苦悩していた。こんな一触即発の状況下で果たして事件は起こった。
枚数は短めで簡潔にまとまっていながら、叙述トリック的な手法まで使われ驚かされる。
角田喜久雄「笛吹けば人が死ぬ」(1957)とタイトルが酷似しているが、両者とも同じあやつりテーマ。読み比べてみるのもいいだろう。
「死者の呼び声」は、三層構造の探偵小説。女子大生の旗江は八興産業社長の育英会の事務をアルバイトで行っていたが、ある日突然社長からプロポーズを受ける。そんな彼女に送られてきた手紙。その手紙を彼女は社長に読ませるが、それは探偵小説仕立てでとある犯罪を告発していた。
これもまたあやつりテーマだが、その形が極めて美しい。犯罪のレベルでも、テキストのレベルでも、同じものの繰り返しが激しい眩暈を呼び起こす。これだけコンパクトにまとまった短編の中にどれだけ多くのものが封印されていることか。
「笛を吹く犯罪」と「死者の呼び声」を続けて読んでみれば、誰しもが風太郎の才気に戦慄するであろう。
「墓掘人」では、同僚の家に往診に呼ばれた医師が惨劇の場に直面させられる。同僚は言う。自分の妻が姦通をしていたのを目撃し、姦通相手を殺して自分も自殺を図った。自分の命が消える前に見極めてほしい。妻の胎内にいるのは自分の子か否か。
主人公の医師はあまりのことに苦悶しながらもこの無理難題を解きほぐしていく。そして彼は死にゆく男の心理を解剖することで驚くべき推論に行き当たるが……。奇想的な極限情況、限られた登場人物、異常心理の分析、二転三転する展開など風太郎ミステリーの教科書通りとも言うべき作品。
「恋罪」は、医科大学の旧友新納悠吉から山田風太郎のもとに送られてきた手紙。新納は風太郎も知っている初恋の女性黎子と再会したが、彼女はモヒ中の夫に激しく折檻されていた。やがて黎子の夫は彼女が犯人としか思われない情況で殺され、疑いが彼女にかかる。新納は、風太郎に彼女の無実を示してくれと懇願するが……。
風太郎が一向に解決に乗り出さないことに新納は不満を漏らすが、事件は二転三転して風太郎の出番もなく終わる。書簡形式・手記形式は著者がよく使う手だが、こんなのは珍しい。
異国を舞台にしたものが二つ。
「黄色い下宿人」は、シャーロック・ホームズのパスティーシュ。蝙蝠傘一本だけを持ったきり姿を消したジェームズ・フィリモア氏の事件。ホームズはその謎を解くが、ある人物にその推理のミスを指摘され手痛いしっぺ返しを食らう。
これは意外な人物同士がぶつかりあう後の明治ものの手法を先取りした話である。
「司祭館の殺人」で、聾のサフラック師とその甥の唖のマルタンは二人で補いながら司祭館に暮らしていた。だが、その平和は川で溺れた娘エレーヌを助けたことで破られる。盲目のエレーヌは恋人ジャンに川に突き落とされて死にかけた。マルタンの懇願で甥に代わりエレーヌに愛の言葉をささやくサフラック師。不自然な行為にきしむ関係。そんな司祭館にジャンがやってくることになったが……。
主要登場人物三人に三つの不具を振るなど、一体他の誰が考えつくことだろう。そして、突如現れ探偵役を務めるのが実に意外な人物。
ルコック探偵が明治ものの「巴里に雪のふるごとく」(1979)で端役ながら登場したように、風太郎には先人の名探偵を実在人物として扱う癖があるようだ。
巻末に控えたのは『誰にも出来る殺人』。どうやらこの傑作選は巻末に長編なり連作短編集なりを一つ持ってくる構成にするらしい。私にとってこの連作短編は、風太郎ミステリーに心底まいる最初のきっかけなのでとりわけ思い入れが深い。
人間荘というアパートの十二号室の押入れに隠された一冊のノート。そこに代々の住人が記してきたのはそこで見聞きした犯罪の記録。新しい住人が十二号室に越してきて、今ノートを読み進める。多少の変わり者はいても凡人ばかりと思われていた人間荘の住人たちが数々の事件にあたって、意外な秘密を晒したり破滅したりしていく。
そんな中いつも印象的なのは十一号室に棲む聖女のような女性。
連作短編で一つ一つが独立して読めるが、最後まで通して読んだときに全く別の構図が現れる。風太郎の得意とする手法だが、これで初めて体験して唖然とした。
伏流として描かれているのは、人間の本性は善か悪か、そしてそれは遺伝によるものか環境で変えられるものか、といった大命題。これが最後の最後まで来て炸裂する。その迫力の物凄さ。ラストシーンは風太郎全作品中でもとりわけ悪魔的な名場面である。
余談になるが、笠井潔は洞爺丸事件が契機になった作品として中井英夫『虚無への供物』(1964)と水上勉『飢餓海峡』(1962)を比較している。この『誰にも出来る殺人』は、第三の洞爺丸事件ミステリーでもある。
この巻だけでもぜひ読んでみてほしい。解題にもある通り、本書は日本探偵小説史上屈指の超高密度の作品集となった。そしてこれを読んで少しでも感銘を受けたのなら、あなたは私の同志である。