山田風太郎『戦中派不戦日記』・中井英夫『彼方より』『黒鳥館戦後日記』

山田風太郎『戦中派不戦日記』・中井英夫『彼方より』『黒鳥館戦後日記』


 山田風太郎と中井英夫。私にとって戦後探偵小説界に出現した二大妖星である。両者とも探偵小説から出発して遥かな高みに到達した。
 山田は1922年1月4日生まれ、中井は1922年9月17日生まれ。1945(昭和20)年には二十三歳で同世代の青年は殆どが死地に赴いたが、山田は東京医専(東京医科大学)に通い徴兵免除、中井は東京府立高校より学徒出陣したものの市ヶ谷の参謀本部に配属され一種の真空状態に置かれた。 両者の作風への戦争体験の呪縛ともいうべき強い影響はしばしば指摘されるところであるが、ともに戦中の日記を残している。 山田風太郎『戦中派不戦日記』を初めて読むにあたり、中井の1945年の日記と読み較べてみた。
 山田は後から書き加えたものも含めて毎日丹念に日記をつけている。中井は戦中は時々しかつけない上に紛失した分があったらしく1945年は3月22日よりで、8月までに月平均三、四回しかつけていない。山田の日記の方は波乱万丈だが、中井の方は日々日記に書けることが何もない決まりきった日常だったのかもしれない。

 1月1日、山田は記す。「運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ。」
 空襲に脅かされながらも目黒の下宿から新宿の医学校に通う。銭湯の混雑に愚痴をもらし、ときには浅草の喜劇や映画も見に行く。

 2月4日、フィリピン戦の報。山田、日本の敗北を感じつつ、それを国民に正直に知らしめようとしない新聞と政府に怒る。
 2月21日、米軍が硫黄島上陸。山田記す、「われらは死なん。死は怖れず。しかも日本の滅ぶるは耐え難し。」

 3月4日、空襲。山田、数学の試験が流れ無試験で合格となる。「みな「万歳だ」と両手をあげて見せる。頗る上機嫌なり。余も大東亜戦争は余のこの日のために勃発したるにあらずやと感涙にむせぶ。」 この件は「紋次郎の職業」の一挿話となる。
 3月10日、大空襲。焼け跡を級友を尋ねていった山田は悲惨な光景を見つつも、とある女が漏らした「ねえ……また、きっといいこともあるよ。……」という一言に衝撃を受ける。人間なるものの「人間の賛歌」。この場面は「潜艦呂号99浮上せず」に組み入れられる。

 4月1日、山田、家主にエイプリル・フールの悪戯を仕掛けて顰蹙を買う。
 4月4日、新宿のあたりが空襲にあう。中井、そのさなか防空壕の中で年若い通信兵を抱きしめ、その感動を散文詩形式で記す。
 4月14日と16日に大空襲。山田の母校も焼けて、鉄筋の本館とあと一棟のみ残る。中井、田端の家の焼け跡を彷徨して誓う。「なるほど幾多の美しい物語は焼け失せた。それだからこそ私の手で、自分自身で美しい物語を創ることが出来るのではないか。もちろんいくねんいくかげつ先のことか、それは知らない。」

 5月7日に山田、5月12日に中井、市村羽左衛門の死を記す。この名優は山田の明治ものにも登場したはずだ。ドイツが敗北し欧州戦が終わる時分である。
 山田の5月24日以降の日記は6月5日になって記された。
 5月24日、またもや大空襲。山田の目黒の下宿も全焼し焼け出される。
 5月25日、山田が頼った白金台がまたしても空襲に。大家のつてで山形県大山に疎開することに。
 初めて行った北国。大家の奥さんの連れ子の娘さんに淡い恋心を抱く。幸福な家庭を見て胸の中で何者かが薄暗く首を垂れるのを感じたりも。

 6月2日、山田、焦土と化した東京に戻る。
 6月3日、無一物ではいかしかたなく郷里、兵庫県関宮に向かう。その途中の列車での浅ましきありさま。
 山田の両親はとうに亡くなり、帰郷したのは叔父の家。そこで半月分の日記を記す。
 6月10日、沖縄戦が最悪の事態となり、本土決戦前に上京を決意する。
 6月14日、久々に登校すると学校が信州飯田に疎開するとの告示があり驚く。
 6月17日、山田、母校への訣別の辞を草し、哀感が胸に満ちてくるが、嘘をついている気にもなる。「何が人間の真相かわからない。自分のいっていることは陳腐なる弱音に過ぎない。が、少なくとも或る瞬間、胸の中を恐ろしく鋭い閃めきで照らして過ぎた一つの想念である。また明日から、自分は芝居をして――無意識な芝居をして、それを疑わない生活をくり返してゆくであろう。神はない。少なくとも弱者に神はない。従って神は決して存在しない。」
 6月22日、中井、自動車で柏まで往復しおそらく南千住の焼け跡を見る。「ふるさと。焼のつぱらのふるさと。ここで死ねるのは本望だ。あれほど焦がれてきたふるさとだもの。星よ樹よ風よと涙した冬の日からおもへば、私はひざまづいて毎日の生活を感謝せねばならないだらう。「生きてゆく日の限りはたのしくあらうよ」」
 6月25日、山田を含む医学生一同が飯田へと向かう。美しい田舎の風景。そして行進させられる支那兵の捕虜。月蝕とともにまた警報が。
 合宿所は天理教協会の別館。荷物を運んだり下宿を探したり。

 7月2日、沖縄戦が終焉し山田は記す。「日本をこの大危局に追いこんだのは青白き理屈屋にあらず、理屈を頭から食わず嫌いにする車屋的人夫的連中なり。日本人はもう少し理屈っぽくならねばならず、全体としてその理屈の量と質とがレベルをあげて、物事の解剖、総合、批判などがお互いに理屈とは感じられなくなるまでにならねばならぬと痛感しきりなり。」
 同日の中井の日記は遺書めいたこと。「愛するひといつさいを失ひ、長い間養ひ育んだ書物をも一片の灰に帰して、いまの自分はいひやうもない安らかなあけくれを迎えてゐる。このひとつの死は、小さい乍ら満足の笑をたたへ、人間のさいごの、いはば老い朽ちて風に化すべきほどの平和な死であつた。――さう自分が今死んだにしても考えてゐられる、待つてゐられる。もはや己なしで生きられぬ人はゐない、いはばそれだけの自負を失つたさびしさがかういふ気持ちにさせるのだらうか。」
 7月20日、山田、出征兵士を送る児童の行列に出会いその唄を聞く。「これをじっときいているうちに、次第に疼いてくる胸、浮かんでくる涙は何だろう?センチメンタルであろうか、教育の習慣であろうか。否、否、それでは世に美しいものは一つもない。自分は日本を愛する。しかし――迷信は絶対に信じない。戦争がニ、三年であったら、こういう疑いは心に起こらなかったであろう。暴風のような熱狂の中に終わったであろう。戦争も九年目くらいになると、いかなる人間も心胸一編の戦争哲学が心に編まれざるを得ない。」
 7月24日、山田、飯田での授業がようやく開講する。
 7月27日、中井、風邪を引いて体調の悪いという熱に浮かされたような記述。

 8月6日、中井、腸チフスと診断されて世田谷の陸軍病院に入院となる。
 8月9日、ソ連参戦。山田の周辺でも中井の周辺でも、運命が訪れたとき人々は静かに笑っている。
 山田、「たしかに日本は打撃された。大きな鈍器に打たれたような感じだ。しかし、鈍い。一般には十二月八日のような昂奮は認められない。予期せぬことではなかったこと。どんな激情的な事実にも馴れっこになっていること。疲れはてていること。――そのためか、みなほとんど動揺しないようだ。「とうとう、やりやがったなあ」と鈍い微笑の顔を見合わせるだけである。例の「運命を笑う」笑いにちょっと似ている。」
 中井、「はじめきいたのは、一看護婦の口からだつた。みんな妙に――明日朝刊で報道されるやうに――「来るべきものがきた」といふ顔だつた。「これやで――」両手をあげて見せ乍ら、関西弁のきれいな一等兵が入つてき、みんなわらつた。」
 8月11日、山田、原子爆弾についての噂を記す。 この日、中井の『彼方より』収録の戦前の日記が終わりになる。その後病状の悪化により昏睡に陥り、意識を回復するのは9月に入ってである。
 8月14日、山田の日記は正に血の滲むような思いの吐露。日本を救うためには不撓不屈の意思の力であと三年戦うしかない、無際限の殺戮にも耐え抜いたときのみにこそ日本人の誇りは守られる。そう考え、戦争継続のために友人と運動を起こそうとするが敢え無く挫折する。
 8月15日、山田、「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみ記す。
 8月16日、二日間のできごとを記した長文。正午にあるという重大発表をソ連への宣戦布告と信じ、待ち望みながら授業を受ける。寮の食堂でラジオを聞いて全身の毛穴がそそけ立つ。御放送、内閣告諭、ポツダム宣言成文、すべて新聞より歯軋りしながら書き写す。夜更けにもの思い、最大の敗因はやはり「科学」だと結論する。「ここに於いて僕は、大きな深い悲しみに打たれずにはいられない。今のところその目的は、ただ敵に対する報復の念のみであるからである。が――日本再興は、もういちど行なうべき「悪戦」の後であるにしてもこの一念以外に、いまは何も考えられない。甘い、感傷的な、理想的な思考はみずから抑えよう。そしてこの一念のみを深く沈殿させよう。敵が日本に対し苛烈な政策をとることをむしろ歓迎する。敵が寛大に日本を遇し、平和的に腐敗させかかって来る政策を何よりも怖れる。戦いは終わった。が、この一日の思いを永遠に銘記せよ!」
 8月18日、山田、知人の町工場の親父と話す。庶民の素朴な憤り。敵に頭を下げといてしこたまふんだくろうというしたたかさ。「必要悪」で語られたRAAそのままの案も出ている。
 世情は騒然としている。夜もよく眠れない。友人たちとの激論も続く。そんな中で月や林などの風景が身に染みる。

 9月2日、山田、帰省の途につく。駅へ向かう途中ラジオからミズリー号で調印された降伏文書の内容が流れる。貨車で牛並に運ばれる惨憺たる旅路。
 帰った家での叔父の落胆した姿。
 9月8日、山田、「十二月八日、アメリカに対する日本帝国の怒りは荘厳を極めた。八月十五日以来、日本政府が命がけでマッカーサーに米つきばったのごとくお辞儀している姿は、ただ滑稽の一語につきる。」
 9月10日、「戦争中の日本は、偏していたかも知れないが、少なくともまじめであった。敗戦後の日本はこの最後の徳さえ失ってしまった。この数日、十数日、日本に乱舞しているのは――僕は言論のことをいうのだがただ軽薄の一語につきる。いい大人が汗水たらして軽薄のかぎりをつくしている。」
 9月13日、山田、飯田に戻る。
 9月16日、中井の戦後日記『黒鳥館戦後日記』が始まる。9月に昏睡から目覚めたときは、いつの間にやら戦争は終わり敗戦の余韻も薄れかけていた。あとはひたすら予後の体を養うのみ。
 9月17日、中井の誕生日。去年亡くした母の命日が11日、誕生日が14日。「死ぬのならば九月に死にたい。それも八日か二十日か、いちばんねがはしいのは母と同じ十一日であるけれども。」一人残った肉親の次姉が見舞いに来ないのも心配の種。
 9月19日、山田、鈴木大将や東条大将の言動に怒る。「「生きて虜囚の恥しめを受けることなかれ」と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。」
 9月24日、中井、いったん退院するがその帰りに卒倒。気にしていたように姉も寝込んでいたのでやむを得ず再入院となる。

 10月6日、学生が飯田市民を招待する素人芝居音楽会を開くが、娯楽に飢えていたからか凄まじき満員。山田は舞台裏で大忙し。
 10月13日、中井、今度は本当に退院。西荻窪の姉のアパートに転がり込む。「グンタイに別れは告げました が、それからは?」
 10月16日、学生の大半、帰京する。
 10月18日、山田、東京に帰る。新宿駅の青梅口は一面の露店。茨城県石岡の友人宅を仮の宿にする。
 10月19日、中井、「田端にかへれたならばといふ追想は、己をきちがひにしさうだ。あの文反故の中に昔の夢を整理し、少年の日から望んできた今日の日への憧れを見直してやること。己の書棚を整理して新しい出発をすること。あれ丈の辞書、あれ丈の本。祖父の代からうけついだ洋書、母から贈られたシュラポフ夫人の洋書。少年の日の夢のかずかず。かきかけのノート。一切合財夢だといふのか!」ひたすら失ったものを慈しむ。無為徒食、女中のような飯炊き、配給、間食という生活。
 10月27日、山田、三軒茶屋に移った元の大家のところに身を寄せる。

 11月1日より新生医学校の講義始まる。山田は飯田から送った布団等の荷物がまだ着かず大弱り。
 11月19日、中井、記す。「扨、ここに私は再登場する。安アパートの古ぼけた畳の上にねそべつて、私は真理をよびあつめる。文章をとり戻した私、同時に生活をとり戻したのだ。身にまとふものは日本軍国主義時代の遺産たるカーキ色の軍服、それも夏服しかないけれど、財布の中は、先日姉が着物をうつてこしらへた金のうちの百円しかないけれども、又さうしたものより、本当の私の衣服である本さへ、見るべきは白秋の「桐の花」一冊にすぎぬとはいへ、わづかな紙とうすいインクとぎしぎしするペンは、いまわたしの頭の中にふつとうする再生のよろこびをかくはつたへる、新生の鐘の音をかくはひゞかせる。もはや誰をもおそれぬ、誰も私をさへぎることは出来ない。」失った田端の家を懐かしむことはしばしばだが再び筆をとっていく。
 11月28日、山田の学校の解剖実習室に上野駅頭の餓死者二十体ばかり来る。

 12月5日、山田、逮捕令状を出された皇族の陸軍元帥の口上に幻滅する。「天皇制に対する、深い、冷たい、沈痛な懐疑の第一歩、それを導いたのが皇族のお一人であったとは痛烈な皮肉だ。」それでも翌日そのお方の逮捕猶予請願の街頭署名運動に出会えば、「アレはアレ、コレはコレなり」と署名してしまう。
 12月9日、山田が乗った省線電車の中で戦災孤児が食べ物をねだるが誰も応えず。「助けてやろうにもみな自分のことに追われているのだ。(中略)こういう経験をしながら、黙って傍観していなければならぬという記憶は、重なるにつれて人々の心を、ほんとに冷酷なものにしてしまうであろう。」「黒衣の聖母」に挿入された場面。
 12月16日、山田、帰郷する。
 山田の叔父は恐るべき悲観論を漏らす。アメリカ兵が麻薬調査のために薬局の検分に来る騒ぎも。
 12月31日、山田、「運命の年暮るる。日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず。」
 中井、「一九四五年の冬。人類史上未曾有の餓死と凍死が予想されたこの冬、その一人としてほろびてゆくのか、たつたこれ丈の生活苦の中でほろんでしまふほど弱い己なのか。」

 山田風太郎の原点は8月15日にあると言われ、また中井英夫は8月15日の喪失に生涯こだわり続けたとも言われる。いずれも戦争に対しては傍観者の視座にあった。
 もちろん1945年を体験した誰もが山田風太郎や中井英夫になったわけではない。だが、これらの内省の記録が訴えてくるものは大きい。また直接的に小説の素材になったものもある。山田については気づいたものを記したが、中井ももっと後になれば「炎色反応」に採り入れられたくだりなどが出てくる。
 今になって読んでいる自分が言うのもなんであるが、あれだけ圧倒的に屹立した物語を産み出した人たちがどんな青春を送っていたのか、若い人たちにこそ読んでもらいたい書である。


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