『ドグラ・マグラ』映画評

『ドグラ・マグラ』映画評


 なんといっても桂枝雀がよかった。眼鏡とヒゲだけで完全に正木教授になりきっていた。ただ惜しむらくはこの映画は枝雀の独演会になっていなかった。そうなることを期待して見に行ったのに。
 正木教授の論文・遺書等は千二百枚という膨大な原作の六割強を占める。かつ、日本語のあらゆる文体が用いられる。これを忠実に映画化しようとすれば、正木の独演会(あるいは、スクリーンに延々と原稿用紙を映し出すか)にしかなりようがないと思っていた。
 ところがこの映画では、原作の言葉の洪水を断片映像の奔流で置き換えるという手をとった。あちこちに挿入される回想・幻想シーン。絵巻物の縁起は人形劇の幻灯で説明し、正木の遺書の一部はモノクロ映画となった。これはある程度まで成功したと言えよう。
 狂人でいっぱいの階段教室でアンポンタン・ポカンこと呉一郎の松田洋治が講義をしている。そこへ、袈裟を着た桂枝雀演ずる正木教授が”キチガイ地獄外道祭文”を唱えながら乱入してくる。このシーンでは、あまりのとんでもなさに脳味噌がどっかへ行ってしまいそうになった。この場面があっただけでも今回の映画化は十二分の意味があったと断言できる。スカラカ、チャカポコ、チャカポコ、チャカポコ。でも、祭文歌はもっとじっくり聞かせてもらいたかったな。あれ大好きなんだ。
 だが、時間上の制約はどうしようもない。正木の遺書がたった一枚になってしまったことに象徴されるよう、随分と刈り込まれた分かりやすいものになってしまった。これでは、過度の情報が読者を混乱に突き落とす『ドグラ・マグラ』の『ドグラ・マグラ』たる所以が激減してしまう。
 ラスト近くで呉一郎がケタケタ笑い出したのにもがっかりした。究極の一人称小説である『ドグラ・マグラ』の映画化である以上、主人公がケタケタ笑うときには、観客も一緒にケタケタ笑わなければならない。あの時点で映画は原作と似て非なるものと化した。原作を読んで狂う者はいても、この映画で発狂するものはいまい。たとえ教授室がポルターガイストの嵐に襲われようとも。
 まあ、いろいろと不満はあるが、こうした暴挙は心から歓迎したい。今の夢もロマンも毒気もない屑が大量生産される状況に一矢報いる意味でも。
 それにしても、こういう映画をアベックや女性だけ三人連れで見に来る人たちはいったい何だったんだろう。
 どうやらこの映画、ヒットしているらしいが、四十年代の『犬神家の一族』みたいになってしまったらどうしよう。沸き起こる空前の夢野久作ブーム。毎晩のようにTVで「瓶詰の地獄」やら「いなか、の、じけん」やらがドラマ化されて……。大丈夫、”キチガイ”という言葉がひっかかるからTVではできません。良かった、良かった。



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