ブルックナーを極める

(この文章は、朝比奈氏の随筆や、朝比奈氏についての各種出版物から知りえたエピソード、あるいは筆者が経験したエピソードを元にして、筆者が再構成したものです。史実に基づくようにしていますが、一部創作もありますのでご了承ください)



 1973年7月、朝比奈は東京文化会館でブルックナーの交響曲第5番を大阪フィルとともに演奏した。朝比奈は 1954年の関西交響楽団時代にブルックナーの第9番を指揮して以来、フルトヴェングラーから言われた「やるのなら原典版」 という言葉を信じて何回もブルックナーの交響曲をとりあげたが、なかなか満足できる演奏にはならなかった。 ところがこの日の第5番は朝比奈にとっても初めての名演となった。

 「今日ははじめてブルックナーらしい演奏ができた」

そう朝比奈は思って最後のタクトを下ろした。その瞬間、聴衆は大興奮して沸き、 怒涛のような拍手がホールを渦巻いた。朝比奈がブルックナーを継続して取り上げ始めて約10年。 まだ大阪フィルでしかブルックナーを演奏することはできなかった時代であったが、 指揮者、演奏者、そして聴衆がブルックナーを理解し感動する時代がやってきたのである。

 この日の客席に高嶋進がいた。彼は大の朝比奈ファンでブルックナー愛好家であり、 ディスク・ジァンジァンというレコード会社の社長であったが、彼自身大いに感動したこの日の公演が終わると、 東京文化会館を真っ先に出て、駅までの長い坂を聴衆たちに混じって下った。 聴衆たちは口々に今日の演奏を興奮気味にふりかえっている。高嶋は走って会館の前まで坂を再び登り、 また聴衆たちに混じって駅へ向かい、聴衆たちの演奏会評に耳をそばだてた。これを数回繰り返した高嶋は、

 「よし、朝比奈隆・大阪フィルでブルックナーの交響曲全集を録音するぞ」

と決心した。これは前々から高嶋が密かにあたためていた企画だった。

 ジァンジァンのブルックナー全集は、1976年から1978年にかけて録音された。高嶋は録音のときには必ず客席に姿を見せ、 2階正面にひとり座ってブランデーを片手に、「いいもんですねえ」と聴いていることもあれば、 感動の余り涙を流しながら聴いていたこともあった。予定の録音がほとんど終わり、 レコードのプレスが始まろうとするころ、高嶋は朝比奈に言った。

 「先生、第8番ですが、あの演奏で発売してよろしいでしょうか」

朝比奈は、

 「まあ、完全とはとてもいえないが、今の私とオーケストラの実力ではベストに近い演奏だと思いますが」

と応えたが、高嶋は、

 「第8番の録音は是非やり直したいと思っています。先生と大阪フィルにはご面倒をおかけしますが、 もう一度最高の演奏をお願いします。お金ですか?これはお金の問題じゃないんです。」

と言い切り、朝比奈でさえ気に入っていた演奏であったにもかかわらず、第8番を全部録音しなおした。 高嶋の熱意と採算度外視の企画により製作されたこれらの録音は、レコードになって千組限定で発売された。その後、 1996年まで約20年間再プレスをしなかったため、ファンから幻のブルックナー全集といわれるまでになったが、 そのような希少価値はともかく、日本の指揮者とオーケストラで録音された初のブルックナー交響曲全集であり、 演奏者や製作者がみな精魂込めて、当時の最高のものを作ったレコードであった。

 そのころから朝比奈は、演奏会でも数々のブルックナーの名演を残した。 1975年のヨーロッパ演奏旅行で朝比奈はブルックナーの第7番を各地で指揮した。 最初の演奏会場で朝比奈が本番前に休憩をとっていたところ、控え室を聴衆の一人が訪れた。

 「本番前に恐縮ですが、今宵の演奏にブルックナーを選ばれたわけをお聞かせいただけませんでしょうか」

朝比奈は、
 「特に大きな理由はなく、レパートリーの中から主催者のご希望に添って選んだのですが」

と答えたが、来客は、

 「ブルックナーはカトリックの思想に深く根ざしており、信仰心を持つものにしか理解できないと考えます。 先生はカトリック教徒でしょうか。」

と重ねて問いかけた。朝比奈はこう話した。

 「それは違うと思います。イエス・キリストが人として尊敬されるのと同じく、 ブルックナーの音楽も宗教や信仰を超えたものであると私は考えます。まずは、私の演奏をお聴きください。 そしてその上でなおお考えが変わらないようでしたら、終演後にお越しいただいて、充分にご意見を交換しましょう。」

朝比奈は全身全霊を音楽に埋めるように指揮した。終演後その客はついに現れなかったという。

 この欧州演奏旅行のある日、オーストリアのリンツ郊外にある聖フロリアン修道院の残響豊かなホールで開いた 大阪フィルとの第7番演奏会。朝比奈は礼拝堂のパイプオルガンの真下にあるブルックナーの棺を訪れ、演奏会前に礼拝した。 このときの演奏会では第2楽章終了後に修道院の鐘楼の鐘が期せずして響き、修道院地下に眠るブルックナーその人が 感動の声をあげたかに思えた名演だった。この日の終演後、朝比奈の控え室に一人の初老の紳士が訪ねてきた。 ブルックナーの原典版を研究しているノヴァーク氏その人であった。

 「今日の素晴らしいブルックナー演奏を聴くことができて大変光栄です」

とノヴァーク氏は朝比奈を称えた。朝比奈は今日の演奏がハース版のスコアで行われたことを思い出し、

 「ノヴァーク先生の版での演奏でなくて大変失礼しました。」

と詫びたが、ノヴァーク氏は、

 「このような素晴らしい演奏を前にして、版などは問題ではありません。」

と改めて朝比奈と大フィルの演奏を賞賛した。

 日本で行われたブルックナー演奏会でも名演と呼ばれる演奏会がいくつも生まれた。 1980年に東京のカテドラル聖マリア大聖堂で行われた第8番の演奏会。フィナーレでは涙を流す聴衆たちが続出した。 演奏が終わると聴衆は泣きながら拍手を送った。そして終演後オーケストラが去り、 朝比奈も引き上げて着替えを終えると、マネージャーが言った。

 「お客さまがみなさままだお帰りになりません」

平服の朝比奈が再度ステージに出た。聴衆の割れるような歓声と拍手が再度ホールを埋めた。 朝比奈も大いに感激し、自信をもった一夜だった。

 さらに1994年に大阪と東京で相次いで行われた第8番の演奏会も同様であり、大阪のザ・シンフォニーホールでは、 朝比奈が会場をあとにしても聴衆の拍手がやまず、ホール係員が制止するという騒ぎになった。1994年の演奏はCDとして記録されており、 朝比奈の代表的録音となった。そしてついに1995年、シカゴ交響楽団に二度にわたって初めて客演し、 第5番と第9番を指揮するという快挙を成し遂げた。
 シカゴ交響楽団の支配人フォーゲルは、東京に滞在していたときに、かねてうわさにきいていた朝比奈の演奏会を聴きたいと思い、「マエストロ・アサヒナのコンサートはないか?」と調べたところ、偶然にも滞在中に朝比奈の指揮でアルプス交響曲を聴くことができた。そしてフォーゲルは、 朝比奈サウンドに惚れ込んでしまった。その後1994年のブルックナーの第8番を再び聴く機会を持ち、朝比奈を訪ねた。

 「先生はなぜいままでシカゴで演奏会をなさらなかったのですか?」

 「そりゃ、呼んでくれなかったからだよ」

 この後、シカゴ交響楽団から正式な招聘があり、朝比奈は1995年にシカゴに飛んだ。練習前に控え室で、楽団のマネージャーから

 「練習のときはイスをお使いになりますか?」

と訊かれた朝比奈は、

 「ノー。立っていることは私の仕事だから(No, thank you. Standing is my profession.)」

と断り、練習をずっと立って英語で行った。公演の初日はNHKのカメラが入り、騒然とした雰囲気であったが、 すばらしい響きの第5番をシカゴ交響楽団は演奏した。聴衆は、はるか太平洋の向こうから88歳の指揮者が本当に来るのか、 どのような演奏をするのか、という思いで演奏会に臨んでいた。ある老夫婦は「なんて美しい白髪なんだ……」とその風貌 にも目を奪われていた。聴衆の期待に応えた朝比奈の公演は、2日目、3日目とすべて客席総立ちとなる大喝采に終わった。 フォーゲルは楽屋の朝比奈の前にひざをついて、

 「マエストロ、大成功です。どうもありがとう」

と感謝の言葉を捧げたのだった。現地の新聞報道はさまざまであったが、 朝比奈のブルックナーが世界にあらためて認められたコンサートであった。