旅立ち

(この文章は、朝比奈氏の随筆や、朝比奈氏についての各種出版物から知りえたエピソード、 あるいは筆者が経験したエピソードを元にして、筆者が再構成したものです。史実に基づくようにしていますが、 一部創作もありますのでご了承ください)


 2001年10月24日、名古屋での壮絶な演奏会を終えた朝比奈は、千足らが介添えをしてやっとの思いで新幹線に乗り込んだ。それでも朝比奈は、たまたま乗り合わせた桂小米朝に、「いつまでもこんな年寄りを相手にしていてはいけない」などと話して気力を保っていたが、神戸に帰った朝比奈は、次の日には甲南病院に入院した。

 朝比奈は極度の体力の消耗で、病床で一日過ごす日が多く、 11月に予定されていた大阪フィルの定期演奏会をはじめ、ブルックナーの交響曲第3番を予定していた演奏会をキャンセルし、 続いて、毎年年末恒例のベートーヴェン交響曲第9番の指揮もキャンセルした。 静養した結果、朝比奈の体調は少し回復し、病床でスコアを眺め、復帰の日を信じてリハビリを続け、11月下旬には数日間自宅に帰ったものの、 体力はもはや戻らなかった。そのうち朝比奈は自力でベッドから起きるのも難しくなり、食道がんが進行して物を食べるのも不自由になったが、千足の手を握って起こすよう促し、 気力を保ちつづけようとした。千足は朝比奈が永年にわたって築き上げてきたダンディーなイメージを崩さないよう、 見舞い客は受け付けず、マスコミへもやや楽観的な発表を行ってきた。

 12月29日、本来は朝比奈が指揮するはずだった恒例の第九演奏会の当日。病室で町子は朝比奈に思い出話をしていた。

  「今年は最後になって入院しちゃって大変な年だったね」

そう話す町子に、朝比奈は、

 「そろそろ、若杉君に代理を頼んだ第九演奏会が始まるな」

と独り言のようにつぶやき、そして、

 「おれは引退するにはまだ早すぎる」

とはっきり言った。

 しばらくの団欒のあと、町子が病室を留守にした。朝比奈は、

 (もう8時か……。第九のコラールがフェスティバルホールで鳴っているころだろうな。 あの演奏会も長いこと続けたのに今年は出られなかったか……。合唱アンコールの「蛍の光」も今年は聴けないのか。)

と一人で思いをめぐらせはじめた。すると急に息苦しさを覚えめまいがしてきた。 ナースコールのボタンを手探りで探すが、だんだん意識が薄れボタンが押せない。 呼吸ができない。町子が病室に帰ってきて異変に気付いた。 すぐ医師がかけつけ点滴と酸素吸入を開始するが、朝比奈の意識は混濁していた。 頭の中で「蛍の光」の合唱が響く中、少年時代、サッカー選手時代、阪急時代、ハルビン時代、 そして家族や歴代の大阪フィルメンバー、ともに演奏した数々のコンサート、そして援助を惜しまなかった多くの後援者たちの顔が目の前に浮かんだ。もう最期かもしれない、そう思った朝比奈はそばにいるであろう町子にむかって礼の言葉を発した。町子ははっきり聞こえなかったが、きっと「ありがとう」と言ったのだろう、と後々まで信じている。その直後、

 (そうだ、この呼吸の苦しさは子供の頃の喘息と同じだ。久しぶりに発作がおきたみたいだな。)

朝比奈は最後にそう思うと、意識を失った。家族が病室に集まったなか、午後10時36分、 朝比奈の心臓は93年と半年の長い鼓動を終えた。生涯現役を貫いた日本の指揮者のパイオニアだった朝比奈は、 こうして21世紀最初の年の暮れに旅立ってしまった。

 次の日、大阪フィルの第九演奏会の2日目、開演前にオーケストラメンバーと代演指揮の若杉弘が白リボンを胸にして そろって舞台に立ち、鐘を合図に、聴衆とともに亡き音楽監督のために黙祷をささげた。 若杉はこの日、朝比奈の使用していたパート譜を用い、自らの意図を入れずに朝比奈の第九として演奏させた。 若杉の指揮でありながら朝比奈サウンドの第九がフェスティバルホールに鳴り響き、 聴衆は朝比奈が客席のどこかに座って聴いている錯覚にさえ陥った。 アンコールに予定されていた蛍の光はこの日はついに歌われなかったが、ホールを埋めた聴衆や楽員たちはみな、 心の中で朝比奈を送る歌を歌っていたことだろう。