私が取材した中で、無名ながらも尊敬すべき、そして愛すべき人々について書いてみました

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 全国どこでも映写機を持ち込んで映画上映する鈴木文夫さん

鈴木文夫さんは、映画館以外のホールや特設会場で上映する映画の映写技師の草分けにして第一人者である。東京国際映画祭はじめ各地で催される映画祭などの上映でも引っぱりだこの、知る人ぞ知る映写技師の大ベテラン。最近では、椎名誠監督が全国各地を講演と自らの映画を上映する「コンバットツアー」の映写なども担当している。
「映画の上映はやはりフィルムでなくっちゃ」と語る鈴木さんに、映画とそれを愛してくれる人々への愛情をしみじみと感じた。



映写技師 鈴木文夫さん

●夏の夜の星空の下での映画会

東京の西のベッドタウン多摩ニュータウンの駅を降りて、デパートやホテルが建ち並ぶ山側に伸びる大通りを行くと、突き当たりにまさにパルテノン神殿を連想させるような多摩市の文化施設「パルテノン多摩」の階段がある。まだその強烈さを失わない真夏の日差しを背中に受け、大汗をかきながらその階段を登り切ると、その向こうに人工湖と多摩丘陵を切り開いたと思われる広大な公園の芝が広がっていた。はるかかなたに鉄骨で組んだ巨大な櫓がみえる。近づいてみるとそこには白い巨大なカンバス地のスクリーンが設営されていた。
今回の取材は、移動映写の草分けで、首都圏を中心に各地で催される映画イベント、上映会の映写を引き受ける鈴木映画の代表者である鈴木文夫さん。
夏の映写イベントとして多摩市とパルテノン多摩が市民のために行っている入場無料の野外映画会の会場に、鈴木さんを追っかけてやってきたのだ。夏の夜、星空の下で映画を観るというのは、年輩者ならば、かつて少年の頃に学校の校庭などで行われた映画「鞍馬天狗」などのことを懐かしく思い出される人もいるだろう。
鈴木映画の映写スタッフである藤田さんと高橋さんが、30度を超える炎天下に2台の35ミリ映写機と特大スクリーン、スピーカーなどをきびきびとセッティングしていく。私たちが到着したときには、すでに一通りのセッティングが終了し、音や画面の細かな調整のためのテストが行われていた。やがて、太陽が西に傾き、ようやく吹く風の熱気がさめた頃、ぽつりぽつりとお客さんが下に敷くビニールシートなどを持参して場所取りを始める。3日連続の野外映画会で今日が最終日。昨日は人気のCGアニメ「モンスターズインク」だったこともあり、3000人余りの観客が集まったというからすごい。

●映画上映は映写技師の力量と


映写技師とは、文字通り映画を映す技術者である。しかし、映画を観るのが好きな人でも、映写技師の存在に気がつく人は少ない。映画はフィルムに記録された映像を映写機から放出される光を通して巨大なスクリーンに投影するものだが、鈴木映画が得意とする移動映写では、映写する技術者の技量によって微妙に変わってくるというのが鈴木さんの持論である。
2時間程度の35ミリ映画場合、ロールといって15分から20分程度で一巻きとなったフィルムで7巻とか8巻に分けられている。かつてはそれを2台の映写機に交互に掛けて映写するのが普通だった。巻替わりの繋ぎ部分には映写機をチェンジするタイミングの印がつけられており、その目印を合図に2台目の映写機を始動させ、絶妙のタイミングで映写機を切り替えるという作業が繰り返される。が、現在映画館などで映画を上映する場合には、その大部分が自動化されているため、特別な技術を要しなくなってきている。巨大なリールに一巻きにしてしまい、映写機の切り替えの作業はなくなり、映画館によっては初日にセットした状態のまま、興行の最終日までそのままにしておけば良いというようなオートマチックな劇場もあるという。
鈴木さんの手がける移動映写では、映画館や劇場のような決まった場所・条件での上映ではなく、ある時は公民館や市民会館などのホールであったり、野外に特設の巨大スクリーンを設営しての上映だったりする。そのつど場所も条件も変わるために、映写機の設営から映写条件を整えるところから始まる。
鈴木映画は、昭和51年に、鈴木文夫さんが映写専門の会社として創業。以来様々の作品を様々の場所に出張して映写してきた。

● フィルム倉庫のフィルムの匂いと映画製作を夢見た少年時代

そんな鈴木さんの映画人生のスタートは、母方の実家が戦前から35ミリの移動映写機のメーカーだったことから始まる。
「オールキネマという会社を叔父がやっていて、私は小さい頃からその会社にあった試写室に出入りしていたんです。そんな時代からフィルムの臭いを強烈に感じながら育ったわけです。それが一番最初の映画との出会いだった。当時は可燃性のフィルムだったけれど、フィルム倉庫を兼ねた試写室に漂う独特の臭いを今でもよく覚えていますね。そんな環境で育ったせいもあって中学・高校時代にはかなり映画を数多くみていて、映画製作の道に進みたいと思っていたんです。ところがその頃、戦後オールキネマは叔父と私の父親とが二人で経営していたので、私は高校卒業後すぐにその会社の仕事を手伝うようになっていったんです。そこでは移動映写機を使って出張映写の仕事をしていました」
その後、映画製作の現場への夢があり、ドキュメンタリー映画監督の斉藤茂夫さんのもとで製作助手も経験した。
「ベトナム反戦の運動が盛り上がった時代でもあり、ベトナムのフィルムを日本で編集して『南ベトナム民族解放戦線』という映画を作ったりしていましたね。そんななかで、自分には映画を作る方の才能がないということも分かったということもあったけれど(笑)、平行してやっていた映写技師の方で、当時のそういう映画の映写があまりにも下手な映写でひどい上映ばかりだったから、これは自分で映すしかないと、映写技師に専念する決意をしたんです」
映写条件の悪い状態で上映される映画を観るのは、鈴木さんにとって耐え難いものだったからこそ、自分自身で納得できる映写を実現したいという思いが、映写専門の会社として鈴木映画を立ち上げるきっかけになったのだ。映画の最終出口、上映という観客にいちばん近い場所で、映画を最終的に映画たらしめ完結させる、重要な仕事であるという自覚と自負があった。
「映画というのは、映写されて始めて映画になる、成立するものです。だから映写するには、技術はもちろん、自分の仕事に対する思いだとか、映写に対する哲学がなければいけないといつも思っていて、若い人にはいつも言っているんです。映写というのは、労働を伴って行うものですが、映画の製作者や監督がさまざまのテーマを入れ込んで作ったものを一番いい状態でお客さんに見てもらうというのが我々の仕事です。それを常に心がけるわけですが、映画を作った人の思いに、自分の映写する気持ちを乗っけて、映写そのものをひとつの表現として仕事をしていく気持ちがなければいけないと考えているんです。それは精神的な部分で、一番大切なところだけれど、与えられた条件の中で最大限に表現できる技術も身につける必要がある。移動映写の場合には、いろんな会場の条件があるので、手抜きしようと思えばいくらでも手抜きができちゃうし、逆に手をかけてやろうと思えばきりがない。
初期の頃には、音の問題などでも、今のようにドルビーなどのシステムもなかったので、機材も手作りで作ったりしていましたね。たとえば後楽園球場で24メートルの大スクリーンを設営してやったりしたこともありますが、移動の映写機では光源の問題、パワー不足で映らない、いかに明るく映すかというテーマがあった。映写機に改良を加え、光源を明るくしたり、いろいろな工夫をして、その困難を可能にしていったという歴史ですね。それが積み重なって現在に至っているんです。だからこれでおしまいというのではなくて、毎回毎回、工夫と改良の努力をしていかないといけないんです」
 
(次ページにつづく)(写真撮影は、大館貴浩さん)



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