ヲタに説法。
その9:バカにつける薬
「バカにつける薬はない」と言いますが、態度の悪い客とかクレーマーにつける薬もないですわね。(かく言う自分もクレーマーで、散々クレームつけたので保険会社に「あんたとは契約できんわ」と切り捨てられた経歴を持っております(苦笑))
しかし、態度の悪い客とかクレーマーに接しなければならない状況に置かれると、自分なんかは優しい人間ではないので(自分のことを棚に上げて)腹が立っちまいます。「てめー何様のつもりだ」って言ってやりたくなります。(それで相手が殴ってくれば「正当防衛」で地べたに叩きつけてやりますが(爆))
でも、それを言っちゃぁおしまいなわけで。
ときに、こんな話があります。うろ覚えですが。
修行僧が二人、道を歩いておりました。彼らは戒律を守っているので女性に接触することは禁じられております。
そんな二人が、橋のかかってない川のほとりで、川を渡れずに難儀している女性を見かけました。
ひとりの僧(仮に「A」とします)は、そそくさと川を渡っていきました。もうひとりの僧(「B」とします)は、その女性をおぶって川を渡り、川の向こう岸でその女性を下ろして別れました。
しばらくの間、AはBの行動に腹を立てていました。
そして後になって、AはBに問いただしました。「我々は女性と接することが禁じられているというのに、なぜお前はその戒律を破って女性を背負い、川を渡ったんだ」
Bはさらりと答えました。
「Aさんはまだその女性を背負ってるのかい?」
このお話のポイントは、「女性に接触してはならない」という戒律の解釈にあるかと思われます。
Bは川を渡る際に確かに女性を背負っていた。しかし、川向こうまで行ってその女性を下ろした時点で、女性に触れたということを捨て去っている。
一方、Aは川を渡る際に女性を背負っていたBのことをずっと「こいつは戒律を破りやがった」と思っている。つまりAの心の中にはBが背負っていた女性がずっと存在し続けている。
「こいつは戒律を破って女性を背負いやがった」という思いを持ち続けていることこそ、実は女性に接触してはならないという戒律を破っていることになるんじゃないのか、ということです。
「こいつ気にいらねぇ、むかつく」という感情を自分が持ち続ける限り、その相手は自分にとって気にいらない存在であり続けるわけです。
相手の気にいらない態度や言動を「あっ、そう。」とさらりとスルーして事にあたれば、「気にいらない」という感情は風のように自分の心を通り抜けてあとには何も残らない。
相手がたとえ(自分にとって)バカ野郎であっても、バカ野郎の言動はバカ野郎本人が責任を取ればいいだけの話であって、バカ野郎の言動ごときに自分の感情を左右されるなんて、それこそバカバカしい話ですよね。
山名哲史著『声に出して読む般若心経』(明日香出版社)の記述によれば、
「怒りというのは相手が悪いから起こるのではなく、こちらに怒りの[因]があるときだけ存在するんだなということがよくわかります」
「(前略)我々は自分でも気が付かないうちに煩悩の固まりのような行動を繰り返してしまいます。そういうとき、自分の怒りは正当で、相手が悪いとしか考えられません。自分の中に怒りや執着の種子があって、それが開花していくのだとはなかなか考えることができません」
とのことだそうです。
冷静になって客観的に考えると、確かに山名さんのおっしゃるとおりなんですよね。
でも頭でわかっていても心ではそれがわかってない。だからバカ野郎の言動をスルーできない自分がここにいるわけで。
そこら辺は日々の精進が大切なんでしょう。
ちなみに今日(この文章をアップロードした日)はクリスマスイブですが、街中ではいろいろ騒いだりして楽しんでいることと思いますけど、自分には「そう。それで?」という感情しか浮かんできません。怒りとか気にいらないとかいう感情はありません。
態度のなってないバカ野郎に接するときにも、そいつは自分にとってのクリスマスイブのような存在でしかない、相手がつっけんどんな態度できても「あっ、そう。」とスルーできるよう、考えというか心を切り替えられることができると、今よりもっと幸せな気持ちで日々を過ごせると思いますね。
[BACK][INDEX][NEXT]