![]() |
日々のいろいろな出来事を気ままに綴った「本と本との間」の
バックナンバーのページです。 Candanaの古い友人であるNaoの「The Days of Wine and Roses」 画家の山手くんの「もう一つの内なる森 〜現代絵画を楽しもう〜 山手政男の世界」 素敵なアクセサリーを創っている高橋桂子さんをご紹介する「K's きれいな色」 そしてCandanaのサッカールポ「プレスルームからの風景」 などがあります。 |
| HOME|平家物語を旅する(工事中)|バックナンバー|プロフィール|日記ブログ「本と本とのあいだに」|本と書店巡りブログ「本を旅する」|Amazon.co.jp |
![]() |
"The Days of Wine and Roses" もう開かない扉 〜アレキサンダー〜 2004.5.15 |
![]() |
はじめまして、Naoと申します。 Candanaとは古い友人ですが、この度、ここでひとつのコーナーを用意していただき、 エッセイ...いや散文というか雑文を...書かせていただくことになりました。 僕ももちろん本は好きですが、それはみなさんにお任せして こちらでは自分が長くかかわって来た音楽とお酒をテーマの中心に、 いろいろ書き綴ってみようと思います。 ふと立ち寄って一杯のお酒と音楽を楽しむBarのようなページになれたら、と思います。 コーナーのタイトルを何にしようかあれこれ考えていたのですが、有名なスタンダード曲から「The Days of Wine and Roses」にしました。邦題は「酒とバラの日々」です。 実際は切ない曲なのですが、バラ=女の子と捉え、酒池肉林なHappy Daysの歌と解釈する 人もいるようですが...僕の場合そちら方面は人に語るほどのエピソードはさしてないのでRoseを音楽と置き換え、「酒と音楽の日々」というテーマだ、と思ってください。 ではでは、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。 ◆◆◆ このコーナーのタイトルにした「The Days and Wine and Roses」は、ヘンリー・マンシーニ作曲の1962年の同名の映画の主題曲で、Jazzでは定番的なスタンダードのひとつとなっており、名演名唱を挙げればきりがないほど多くのミュージシャンがこの曲を取り上げている。 僕は若い頃はこの曲、なんだか凡庸に感じてあまり好きではなかった。考えてみれば最初の出会いは中学生の頃のギター教則本の課題曲として、だった。そういうことのせいだろうと思う。 だいだい中学生向きではないよなぁ... 今はそれからずっと歳を重ねたせいか、「酒とバラの日々は遊んでいる子供のように笑いながら走り去っていく」「もう二度と開かない閉まってしまった扉」というような歌詞が胸にしみたりする。多分、得られるものより失ったものの方が多くなった時に分かる曲なのかもしれない。 ジャック・レモン主演の映画は夫婦してアルコールに溺れて行く話だが僕自身は昔に見たきりでほとんど内容を思い出せないのだけど、有名なエピソードとして酒の飲めない妻にアレキサンダーというカクテルを飲みやすいからとすすめるシーンがあり、カクテルブックのアレキサンダーの項にはたいていこのことが書かれていたりする。 アレキサンダーは元々はデンマークのアレキサンドラ王女に捧げられて名付けられた、と言われている。ところが何故かいつの間にかアレキサンダーという男性名に変わってしまっている。このカクテルはブランディーとカカオリキュールと生クリームをシェイクして作る。しかしベースはブランディーなのでかなり度は強い。飲みやすいからといってぐいぐい飲んでいたら、そりゃあアル中にもなるよなぁ、と飲んでみると納得すると思う。 とはいえ、スタンダードカクテルのひとつとして今もBarのメニューには、必ず載っている素晴らしいカクテルのひとつには違いない。甘く香り高く口当たりがよく、しかも気品のあるカクテルである。 シェーカーさえあれば家でも作れるので試してみてはいかが? スタンダードレシピとしては【ブランディー30ml/カカオリキュール15ml、フレッシュクリーム15ml】を氷と共にシェイカーに入れ、クリームが入っているので氷が溶けすぎて水っぽくならない程度によくシェイキングして、カクテルグラスに満たす。カクテルグラスがなければ小さめのワイングラスなんかでも良いと思う。 アレキサンダーを飲むBGMとしては、ネルソン・リドル・オーケストラをバックに歌うシナトラか、あるいはトゥーツ・シールマンスのハーモニカが切ないビル・エヴァンスのアルバム「アフィニティ」の中の「酒とバラの日々」などはどうだろう。 ....そうして僕は自分のとっての「もう開かない扉」を思うのです。 |
![]() |
"The Days of Wine and Roses" 過ぎ去った夜、消え行く音 2004.7.23 |
![]() |
When you hear music After It’s over It’s gone in the air You can never capture it again 「音楽は終わると 空中に消え去ってしまう 二度とそれを手にすることはできない」 前衛的なアプローチでその才を発揮しながらも、先鋭的過ぎたためか存命中には応分の評価を得られたとはいえない管楽器奏者のエリック・ドルフィーは、志半ばで楽旅中に倒れた。最後のアルバム「LAST DATE」の曲の終わりに自身の声でこの言葉を残している。 それは残り時間の少ないことを察したためのものなのか、演奏者としての実感だったのか。遠い日、16歳の時に聞いた「LAST Date」のこの言葉は、僕の胸の奥底に響いた。 ◆◆◆ チャーリー・パーカーは「バード」と呼ばれた。チキンが好きだったからとも、鳥が飛翔するが如くの演奏だったから、とも言われている。バードは天才だったが音楽以外の生活に関しては自堕落で、しかも麻薬に溺れて次第に破滅的になり、仲間たちも彼から離れて行くようになった。ディジー・ギレスピーは盟友だったが、彼でさえもバードの破天荒で無責任で自滅的な行動に業を煮やしていた。 そんなある日の明け方近く、バードはディジーのアパートのドアを叩いた。1940年代頃にはまだまだ人種差別が激しく、黒人がアパートを確保することすら難しかったという。 深夜のアパート。あたりは寝静まっている。バードはどんどん叩きながら「入れてくれディズ。今、頭の中に音が鳴っているんだ。譜面に書き取ってくれ!」大声でディジーに呼びかけた。バードは楽譜に書くということは苦手だった。いつもディジーに頼っていたのだった。 「何時だと思ってるの?そのろくでなしを追い返しなさい」妻は奥の部屋から怒鳴っている。 「頼むバード、帰ってくれ。他の住民に迷惑がかかる。採譜なら明日してやるから」ディジーはドア越しにバードに懇願した。 「だめだ、ディズ。今しかないんだ。明日になれば今鳴っている音は消えてしまう」ドアの向こうでバードは啜り泣いていた。ディジーは困惑して立ち尽くしていた。突然バードはアルトを取り出して吹き出した。その音は寝静まった深夜のアパートの廊下に朗々と響いた。住民が起き出して苦情を言ってくるかもしれない。そうなればアパートを追い出されてしまうかもしれない。妻の怒鳴り声が背中に突き刺さる。 だがそれは素晴らしい旋律だった。今まで誰も聴いたことがない奔放な展開。廊下に響く奇跡のメロディ……ディジーは急いで五線譜とペンを持って来ると、ドアのこちら側で一音ももらさないように、必死で書きとめた。 ◆◆◆ 1961年6月25日、ニューヨークのジャズクラブ、ヴィレッジヴァンガード。飲食や歓談でざわつく客の前で、ビル・エヴァンスと彼のトリオは演奏していた。ビル・エヴァンス(piano)、スコット・ラファロ(bass)、ポール・モチアン(drums)という、最高の布陣である。スコット・ラファロはピアノをベースとドラムスが伴奏するというそれまでのピアノトリオのスタイルを一変させ、エヴァンスが理想とする、トリオが対等に絡み合うスタイルを実現させた、若き天才ベーシストである。エヴァンスは彼を得たことを、ことのほか喜んだという。 ざわめきを切り裂くように「My Foolish Heart」が始まると、まるで静寂が広がっていくように聴こえる。見えないガラスの糸が張り巡らされたかのような、頬が切れそうな緊張感。その奥底に迸る情念がうごめいているのだろうか、それを抑制するかのように淡々とメロディを紡ぐだけの静謐なバラッドなのに、それはあたりを圧倒する。 稀代の名演である。エヴァンスをして以後この曲についてはこの時の演奏を超えるものはない。この日の11日後、スコット・ラファロは交通事故によってその若き命を散らした。エヴァンスは激しく悲嘆に暮れたという。 この日の演奏は幸いにも録音され、リバーサイドレーベルに残されている。このことに感謝したい。僕たちは時を越えてそれを聴くことができる。 そして僕は思いはせる。ディジーのアパートの廊下で吹いたバードの音はどんなだったのか、1961年6月25日のヴィレッジヴァンガードの夜はどんなだったのだろうか、と。それらの夜の音は、どのように響いていたのだろうかと。 ポップスターがスタジアムを満杯にして大歓声に包まれている時、そうではない多くのミュージシャンは、小さなクラブやあるいはどこかの街角で演奏していただろう。夜が更けた頃、きっと多くの音が空中に消え去っていったことだろう。 僕は消えて行った夜々を思う。僕の知らない数々の夜。50年代の夜、60年代の夜……時は過ぎて行き、すべては消え去ってしまう。エリック・ドルフィーはそう思ったのだろうか。 When you hear music After It’s over It’s gone in the air You can never capture it again 「だから友よ」 ドルフィーはこう言っているように聴こえる。 「友よ、その一瞬を大切に生きなさい。 次の瞬間には消えてしまう音のように 私たちもまた、そうした刹那い存在なのだから」 ◆◆◆ P.S. 1961年6月25日に、空中に消え去ろうとする音を留めたレコードをターンテーブルに乗せて、この11日後には世を去ってしまうラファロのベースと、エヴァンス、モチアンが紡ぐ音を聴きながらボウモアを小さなグラスに注いで飲んでいる。 遠い記憶が静かに甦るような懐かしい味がする。 ボウモアはスコットランドの西の端の小さな島、アイラ島のシングルモルトウィスキーだ。そこの蒸留所の人たちが精魂込めて作り、樽に詰め、海辺に面した倉庫で潮風を呼吸しながら長い長い年月を眠って来た。その時を生きた人は、今はもういないかもしれない。だが、その人たちの魂が時を越えて芳醇な香りの中に息づいている。ビル・エヴァンスやエリック・ドルフィ、チャーリー・パーカーの音楽のように。 |
![]() |
もう一つの内なる森 〜現代絵画を楽しもう〜 山手政男の世界 |
●森を探して 文/Candana 2003年秋、山手政男くんから次の個展のプレスリリースを考えて欲しいと頼まれ、彼の絵についての考えをいろいろと聞く機会がありました。だいたいが電話を通じてのやりとりだったのですが、彼は言葉を選びながらも熱心に、“自分がなぜ絵を描くのか、絵を通して何を表現したいのか、自分はどう生きたいのか”を語ってくれました。 もともと絵という表現手段を持っている彼に、言葉を使ってもらうのは申し訳なかったのですが、そうせざるを得なかったのは、私が現代絵画――いわゆる抽象画について、どうもよく分からないからなのです。山手くんの絵について感想を求められても、いつも「この絵が“好き”」とか「この色が“きれい”」など、好みでしか感想を伝えることが出来ませんでした。 そんな出来の悪いライターに対し、淡々と自分の絵について語る声を聞きながら、そういえば、いい本だからとわざわざ探してくれた鈴木大拙の『東洋の心』も、読んだ方が良いよと薦めてくれた司馬遼太郎の『微光のなかの宇宙』や『空海の風景』も、まだ読んでいなかった……と、反省しきりの私だったのですが、心なしか山手くんの言葉が、語り始めた頃より、どんどん抽象的にシュールになっているような気が……。 「もうちょっと、分かりやすく話してくれる? 難しくてよく分かんないんだけど」 「無理。だって酔っぱらってるんだモン」 「……!」 一見まじめそうな山手くんですが、なーんだいい加減なヤツと思っていると、でもやっぱり、本当のところはとてもまじめな人だったりします。翌日、個展のコンセプトについて、丁寧にまとめたメールが届きました(「山手政男展」の巻頭に書かれています)。 初めて山手くんの絵を見たのは、彼が高校1年生の15歳の時。薄紫や水色の美しい色遣いが印象的な油彩の紫陽花でした。男子高校生がこんなに繊細な花の絵を描くのかと驚いたことを、今でもよく覚えています。あれから歳月を経て、抽象画という表現手段を掴んで大きく成長した彼は、私の高校の自慢の同級生です。 ●「森」をテーマに制作を続けています。 文/山手政男 私が「森」に出会ったのは、15、6年前、小さな娘と一緒に北軽井沢を散策したときのこと。それまで「森」は、私の生活感の中に全く踏み込んだ事のない領域でした。私はひたすら車のボンネットの中などメカニックで人工的な世界を描くことに没頭していました。 そんな時にふと足を踏み入れた、北軽井沢の小さな森。足下に積もる落ち葉の感触、その下の土、そこを流れる水、吹き抜ける風、降り注ぐ光と影、その中で命を紡ぐ小さな生き物たち。私も娘も、小さな生き物の一つとなって、森の中に佇んでいました。それは優しく穏やかなだけの「森」ではなく、その中に潜む自然の力、宇宙の不思議が、今までに感じたことのないような圧倒的な力となって、私を魅了した瞬間でした。 あの時、私は自分の中に「森」を……「命」を感じました。それまで気づかなかった「森」へ通じるドアが静かに開き、長い間探し求めていたものへの道が見えてきました。 2004年2月16日から22日まで、東京銀座の Oギャラリーで開催した個展のテーマは「もう一つの内なる森」です。平面的なキャンバスの中に、色と形だけで私の「森」をいかに生み出すか、それに挑みました。 作家略歴 1980 創形美術学校 卒業 1983 春陽会 新人賞 受賞 1984 文化庁現代美術選抜展 選抜 1985 文化庁芸術家国内研修員合格 受講 1991 個展「プレパッラスィオン」 ギャラリー三番館(東京) 1992 個展「湿の採集」 ギャラリー三番館(東京) 1994 個展「湿のかたりべ」 Oギャラリー(東京) 1996 個展「湿の再生」 Oギャラリー(東京) 1997 個展「湿の再生?」 メタルアートミュージアム(千葉) 1997 個展「湿のいとなみ」 Gallery KISYUNDO(京都) 1998 個展「湿のいとなみ」 Oギャラリー(東京) 1998 個展「湿のいとなみ」 CTIウインドゥギャラリー(東京) 1999 T・BOX MIX 展 T・BOX (東京) 2000 個展「湿のいとなみ」 Oギャラリー(東京) 2001 T・BOX MIX 展 T・BOX (東京) 2002 T・BOX MIX 展 T・BOX (東京) 2003 T・BOX MIX 展 T・BOX (東京) *グループ展「さまざまな氣」3.4.5.6回展参加 日本美術家連盟会員 収蔵 グランドアーク半蔵門 |
![]() |
![]() |
K's きれいな色 |
![]() |
アクセサリーデザイナーの高橋桂子さんのお店は、自由が丘の美容院「Hair Guiche(ヘアーギッシュ)」の店頭。美容院のスタッフが丹精して作っている四季の花が咲くミニガーデンの横に、桂子さんのオリジナル作品や、海外から買い付けてきたアクセサリーが並べられています。私が桂子さんのアクセサリーに出会ったのも、この美容院に出かけた時のこと。広げられたシート一杯に並べられた1点物の手作りアクセサリーはどれも個性的で、特にトンボ玉のペンダントトップやアンティークビーズ、アジア、南米などの民族色の濃いアクセサリーは見ているだけでも飽きません。 そしてアクセサリー以上に惹きつけられるのが、桂子さんのお話。ああ、この人は本当にアクセサリーやきれいな物が大好きなんだなと伝わってくるほど、いつも熱心に丁寧に一つひとつのアクセサリーについて説明してくれます。そんな桂子さんなのでアクセサリーに関する相談もお願いしやすく、私はリフォームも何点かお願いしました。 母から貰った古い指輪。縦爪型の大きめのヘマタイトや珊瑚の指輪は、そのまま使うにはさすがに古くさく野暮ったい。桂子さんのセンスとアイディアで、普段使いのカジュアルなアクセサリーに大変身! 特に黒のヘマタイトにホワイトゴールドの指輪は一見地味だけれど、きれいなカットを活かして石を縦から横に置き換えただけで輝きが映え、どんな服装にも合うので、いつも身に付けています。他にも鼈甲のペンダントや、ガーネットのピアスなど、わざわざ宝飾店に持っていくほど高価なものではないけれど、気に入っていて捨てるには惜しいなと思っていた壊れたアクセサリーを気軽に修理してもらったりしています。 勿論、新作のアクセサリーも素敵で、つい最近一目惚れしたのは、インディアンジュエリーの熊の形をしたペンダントトップ。熊のアクセサリーが大好きなんだけれど、ちょっと幼すぎるデザインが多く、大人っぽくて可愛い熊物はなかなか少ない。このペンダントトップは熊の体形を活かしてきれいな色の石のカットがはめ込まれていて、その細やかな細工に惚れました。熊の顔形も大人顔でGood! 裏もシルバーに細工がしてあり、リバーシブルで使えます。 お店は東急東横線・自由が丘駅からカトレア通りを目黒通りの方まで上がっていく途中左側。アンナミラーズの先の美容院「Hair Guiche」前。水曜日〜日曜日のお昼過ぎから夕方まで。強風、雨天はお休みなのでご注意ください。 |
![]() |
プレスルームからの風景 |
![]() |
中日新聞社が発行しているサッカー雑誌、月刊『グラン』に2001年3月から2002年12月まで連載された、ノンフィクション作家・木村元彦(ゆきひこ)さんの「職業はゴールキーパー」を書籍化する企画を立ち上げてから、3年。雑誌の連載は名古屋グランパスエイトのゴールキーパー・楢崎正剛選手が主人公でしたが、書籍では他に、日本や世界を代表するゴールキーパーについて取り上げ、ゴールキーパーという特殊なポジションについて、その精神世界を探ろうという、渋い企画です。 取り上げるキーパーは日本や世界の有名選手の他に、国際情勢や大災害、人種差別など、様々な困難の中にあるキーパーを取り上げたのですが、イラク代表の来日を機に、イラク戦争の中でサッカーを続けたゴールキーパーのサード・ジャミール選手の取材が、急遽加わることになりました。 試合は2月12日午後7時20分に国立競技場でキックオフ。私にとっては、生まれて初めて報道という立場でプレス席からの観戦となりました。その前日、取材申請をした日本サッカー協会からのファックスで、当日はテロ対策で警備が厳しいぞとのお達しがあったのですが、報道の入り口でしっかり荷物の中身をチェックされ、金属探知器のゲートをくぐりました。長年、サッカーの取材をしている木村さんも、こんなことは初めてとか。報道受付で取材名簿にサインし、進行スケジュールや注意事項の書かれたプリントと本日のパンフレット、そしてピンクのプレスパスを貰います。 受付からプレスルームやインタビュールームの脇を通り、記者席階段からスタンドへ。いつもだったら浮かれ気分でスタンドへ入るのですが、今日はちょっと緊張。記者席は3つに別れていて、プレスシート1は、東京運動記者クラブ専用席。記者クラブと新聞、テレビ、それにサッカー専門誌の机付きの指定席。ここに座っている記者はみなパソコンと携帯電話と手帳を並べ、メディアらしい雰囲気が漂う場所。女性記者の姿が思ったより多く、意外でした。私の座ったプレスシート2は出版社やフリーランス記者の席。ここは自由席なので適当に座りますが、試合終了後の記者会見に早く行けるよう、なるべく移動が楽な通路側の席を確保。プレスシート3はイラクのプレスやAFPやAPなどの海外通信社の指定席になっています。 今日は仕事で来ているんだから、ミーハー観戦は厳禁。記者席で浮かないよう、静かにクールにと心がけていたのですが、考えてみると、この記者席はサッカーが大好きな人たちの集まりでもあるわけで、ペンを走らせたり、キーボードを叩きながらも、結構、皆さん熱い。さすがに得点しても立ち上がったり拍手したりする人はいませんでしたが、それでも歓声やため息がこあちこちで上がり、ちょっと驚きました。ハーフタイムはいったんプレスルームに戻りましたが、ここではセルフサービスの飲み物のサービスがあり、冷たい缶ジュース類は勿論、キリン。 試合の方は、すでに報道されているとおり日本はイラクに押されっぱなしで、2-0でやっと逃げ切った感じ。翌週のワールドカップ一次予選を前に、不安が過ぎる結果でした。日本は楢崎選手が大忙しで、安定したセービングで代表の完封記録を更新しましたが、2失点したイラクのジャミール選手の方が仕事が少なかった印象。ロスタイムになると、記者席の人たちの民族大移動が始まり、試合終了前に、皆、インタビュールームに我先へと急ぎます。我らが木村さんも素早くセンターの前の席を確保していて、さすが。記者の数は約10O名、テレビカメラは7台ほど。 監督の記者会見の前に、MCから今日は試合に関する質問のみと念押し。政治的な質問はノーということです。外国人記者の数も多く、やはりイラク戦ということで、海外メディアからも注目されていたようです。 最初にイラクのシュタンゲ監督から。彼はドイツ人なので、日本人女性のドイツ語通訳がつきます。MCが記者の方に向かって、質問のある方は挙手をしてどうぞと言ったのですが、シーン。あれま、学校の授業参観みたいだなと思っていると、外国人の記者が日本語で、ます今日の試合の感想を質問。それにつづいて日本人記者からも質問が出て、20分弱程度で終了。木村さんはインタビュールームを出たシュタンゲ監督を追ったのですが間に合わず、残念。 続いてジーコ監督の記者会見とオマーン戦の選手発表があったのですが、木村さんは日本代表には興味がないのできっぱりと「帰りましょう」。この監督記者会見の間、ミックスゾーンでは選手のインタビューが行われているので、監督記者会見との両方との取材は無理でした。 翌日のスポーツ新聞全紙とその後にイラク戦を報道したサッカー雑誌に目を通しましたが、大部分をジーコ監督の記者会見が占め、シュタンゲ監督の言葉はほとんど報道されていません。あのインタビュールームで発した彼の誇り高い言葉を思い出しながら、なんのためのイラク戦だったのだろうと、しばし思いを巡らせました。私のメモ帳に記された、シュタンゲ監督の言葉に耳を傾けていただければと思います。 ◆ 「2-0という結果に終わり、当然と言えば当然かもしれないが、日本側もラッキーだった。日本とイラクで大きな実力の差があるとは思わない。日本が大変強いわけでもなく、イラクが大変弱いわけでもない。ただ、日本は2回のチャンスを確実にものにした。日本の選手では10番(藤田)、15番(福西)が積極に攻めてきて、25番(中村)の選手も印象的だ。 日本もトップメンバーではなく、イラクも4、5人のトップの選手が抜けているのでトップチームを組めなかった。ファンが見守る本番となると、準備してきたことができないということもある。特にイラクはそうだ。だから、今日は選手の批判は控える。イラクでは、昨日も今日も100 人以上の死傷者が出るテロがあり、選手はそのたびに影響を受けている。だが、私は選手たちに良いプレーをしてアピールのチャンスにしろ、頑張れと言った。今日、イラクが勝っていたら、バグダッドでは花火があがっただろう。日本はチームとしてのまとまりが優れていたが、相手にチャンスを与える弱さがあった。もしイラクにファンニステルロイがいたら、今日は2-1で勝っていただろう。 イラクには何もない。日中は50度を超える時期もあり、エアコンはなく、シャワーもなく、ナイターもできない。薬さえない。(戦争が終わったあとの親善試合でも)試合の1時間前にイラク国旗やユニフォームがやっと届くということさえあった。私はドイツ人だが、アメリカのブッシュ大統領やイギリスのブレア首相にも手紙を書き、ナショナルチームへの支援をお願いしたが、未だに返答はない。サッカーやスポーツにも援助が欲しいと各国に伝え、これ以上できないほど、あらゆる努力した。今、やっとトンネルのむこうに光が見えて、ドイツ、オーストラリア、日本、イギリスに招かれ、練習や試合が出来るようになってきている。イラク国外でトレーニングさせていただければありがたいので、日本側はこれからも交流試合を続けたいとのことだが、トレーニングの機会があればと思う。 ジーコ監督とは、試合終了後に一言二言、言葉を交わし、2006年ドイツで会う約束をした。我々もウズベキスタン戦を控えているが、(ワールドカップの)予選を勝ち抜くのは大変だ。我々には大きなハンディキャップがあるが、いつかイラクのホームでファンに囲まれて試合をしたい。」 文と写真/Candana 2004.2.13 |
![]() |
リンク集 |
スポーツナビの梶原弘樹氏のコラム |
ネット上で印象的だったイラク戦へのコメント、その1。 |
NIKKEI NET SOCCER@Expressの大住良之氏のコラム |
ネット上で印象的だったイラク戦へのコメント、その2。 |
K's WEB SITE |
アクセサリーデザイナーの高橋桂子さんのホームページ。桂子さんのオリジナル作品を見ることができます。 |
K's アクセサリー |
高橋桂子さんの新作をブログで見ることができます。 |
sakoのバー |
このページの素材をお借りしました。お酒に関する素敵なフリー素材もたくさんありますが、お酒にまつわるコラム「お酒な話」も読み応えがあります。 |
![]() |
| HOME|平家物語を旅する(工事中)|バックナンバー|プロフィール|日記ブログ「本と本とのあいだに」|本と書店巡りブログ「本を旅する」|Amazon.co.jp |
|