◎PT(理学療法士)としてpt(患者)として

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4)誕生 

 

私は1965年(昭和40年)5月29日に大阪府住吉区の大阪府立病院にて生を受けました。父は電化製品の小売・修理および電気工事を行い、折しも東京オリンピックの直後にあたり、テレビなどは特によく売れた時代でした。また母は結婚を機に看護師をやめ、電器屋さんを手伝うことになりました。現在でも母は元看護師らしく強い意志と正義漢いっぱいの人で、もし母がこの性格でなければ、おそらく私は生まれてこられなかったと思います。

私は体重1700グラムの未熟児、妊娠7カ月目で帝王切開により生まれてきました。これより3年前兄貴を出産した際に医師から「もう子供はできませんよ。もしできても出産はしない方が良いです。」と言われたそうです。そのため医師から妊娠は"奇跡的"と言われましたし、妊娠7カ月目での出産は医師と両親のギリギリの選択だったに違いありません。なぜこのようになったのかは兄貴の出産に大きく関連していますが、この話はまた次回にさせていただきます。

 
 

未熟児で生まれた私は身体が弱く、熱性ケイレンや発作をよく起こしていたそうです。しかし稼業が忙しく両親だけでは目が行き届かないため、祖母たちや隣のおじさんやおばさん(後に仲人さんになっていただいた方々です)がいっしょになって私達兄弟を見守ってくれました。やはり店の都合で幼稚園は3年保育、送り迎えが難しいためバスで送ってもらえる少し遠いところまで通っていました。上の写真で赤色バッチが1年目の年少組、黄色バッチが2年目の年中組のときのものです。3年目の年長組の写真が無いのは腎炎で府立病院に入院していたためです。このときも病院に祖母がいっしょに住み込むように居てくれました。結局私は小学校に入学するまでに約1年間入院することになってしまいました。この一年間のほとんどを個室の病室で過ごしました。病院側が大部屋に移って欲しいと言っても、母と祖母は泣いて個室を頼んだそうです。一年間というと部屋代も相当必要だったはずです。このときの病院生活と大阪万博のことは今でもよく覚えています。この病院生活のことを思い出すと、両親や祖母たちがどれだけ私のことを可愛がってくれたかがわかり、本当にありがたく思います。

その後、みんなのおかげで私はすくすくと成長しすぎ、現在体重は80キロを越えてしまいました。当時の私を知っている方は、生まれた体重の約50倍にも成長し、また病院で働くことになろうとは予想がつかなかったと思います。

(第4話:2003年12月7日公開)