前回、受容についてお話しましたが、それではなぜ私が兄さんの障害を受け入れることができないのでしょうか。その答えのひとつは兄さんの障害が自分の問題点として理解できていないからではないでしょうか。つまり、最終的にどうしようも無くなったときには、自分が兄さんから逃げることができると心の奥で考えているからではないでしょうか。自分と他の人の問題点を真に共有すること、つまり共感するということは、リハビリを行うにあたっても大切なことであると考えられています。 共感という言葉の意味は広辞苑によると「他人の体験する感情や主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること」と書かれてあります。本当にそんなことは可能なのでしょうか。リハビリの実習の際に私たちは患者さんから「君たちにこの辛さやこの痛みはわからない」とよく言われました。この言葉を聞くたびに、確かに患者さんの辛さを理解できないという思いと、痛みなら経験したことがあるので理解できるのにという思いがありました。この実習の経験からは残念ながら共感ということを感じ取れず、自分に無力感が残っただけでした。自分が膠原病になって、ひとつわかったことがあります。それは他の人にはわからない痛みがあるということです。私も色々な怪我をしてきて痛みならわかると思っていました。だから患者さんの「君たちにこの痛みはわからない」という言葉に反発すら覚えていたのです。しかし膠原病の関節の痛みは、今まで感じたことのなかった痛みでした。ただ痛みが強いだけではなく、本当に気持ちが悪いのです。ただ痛いだけなら動けると思うのですが、この痛みを感じるくらいなら動きたくないのです。そのとき痛みには強弱だけではなくて、色々な種類があるのだということが分かりました。 それでは私が膠原病になってみて患者さんの辛さや痛みを理解できるようになったのでしょうか。それは違うと思います。私が痛みを通して学んだことは、患者さんの痛みの種類には様々なものがあって、本当には私たちは理解することができないということです。たとえ同じ膠原病であったとしても、同じ痛みを感じているのかどうかは残念ながらわかりません。私が学んだのは"他の人の痛みはわからない"ということを理解できたことです。しかし、これは大きな進歩だと思うのです。患者さんの辛さや痛みに対して、さもわかったような知ったかぶりをするよりも、患者さんのことがわからないから知ろうとするほうが、はるかに大事だと思うのです。 私たち医療者にとって必要な共感というのは「他人の体験する感情や主張などを、自分も全く同じように感じたり理解したりすること」ではなく、実際はお互いがわかりえないから一歩ずつでも歩み寄ろうとする姿勢を言うのではないでしょうか。元々人には他人には入り込んでもらいたくない部分や自分の主張を譲れない部分があります。その部分をお互いが尊重しながらも、問題を解決するためには人を受け入れなければならない場合もあると思うのです。患者さんのリハビリの目標と人生の目標は非常に緊密な関係にあります。患者さんの人生に全く共感することができないのならば、患者さんとリハビリの目標はずれていってしまいます。患者さんは"どうせ自分の辛さはわからない"とは考えず、医療者は"どうせ結局は他人の痛み"とは考えず、互いに正面を向いて一歩前に足を踏み出して、問題を共有化し、その解決法をお互いが考えていく。それが共感であり、リハビリだと思うのです。 結局、我が家もそうなのです。いくら兄さんのことを事実として受け取ることができなくても、それでも家族全員が一歩だけでも歩み寄ろうとしなければ、問題点を共有することができず、いつまでたっても受容も共感も覚悟もできないと思うのです。残念ながら私自身も問題点を横目で見ながら、後ずさりしている現状が今日もあるのです。 |