塩昆布 今昔物語(2)
さあ、いよいよ昆布の佃煮が形作られます。
近代に入り塩昆布が確立し、戦前・前後の混乱を塩昆布はきりぬけていきます。
◎江戸時代〜近代へ
太平の世の江戸時代になると、耐久性の強い昆布、アラメ、ワカメ、ヒジキなどの海藻類は軍兵糧から備荒非常食料として貯蔵されるようになります。
かつて徳川家康が、摂津国の神崎川上流にある多田神社へ参詣の途次に、漁船を出して便宜を図ってくれた摂津・佃(つくだ)の漁民を、後年江戸開府に際し江戸に迎えて移住させ、漁業をさせました。
その水揚げした小魚・貝類を加工して売り出したのが、佃煮の始まりと伝えられていますが、摂津・佃漁民の間には備荒食料として塩昆布の加工技術が伝承されていて、佃煮加工のベースになったのかもしれません。
関西地方では各家庭や商家などで、出し昆布の再利用の一つとして、保存のきくような炊き方で塩昆布が活用されていました。
松茸、山椒、小魚など季節の素材を炊き合わせるようになった家庭人の知恵も見られます。塩昆布は茶漬け、酒肴という関西独自の食習慣とも適合して、根強い需要を広げていきました。
◎そして戦乱の世に
戦前の塩昆布は、保存性が重視された製法であったようです。
適宜な角形に切り刻んだ昆布に、若干の酢を加えた醤油にみりん、酒などを調合した調味液で気長に炊き上げ、塩や焼き塩などを振り掛けたものが主流で、色合いも黒く光沢が
あり、形状の整った塩味のきいたものでした。
戦時統制中に塩昆布がクローズアップされたのは、原藻、副資材の配給を巡り、佃煮類とは製法が全く別個のものであることが強調され、別途の配給機構が認められたからです。
戦前の塩昆布は、通人の間で賞味されてきたもので、使用される原藻も道南地区の天然産真昆布(元揃い)という、天恵の素材が材料とされていたので、量的にも必ずしも多くなかったようです。
戦後経済統制が解かれ、再び自由経済へと移行しましたが、昆布業界ではいち早く
全国業者の連絡機関として日本昆布協会が結成され、定例商談会など活発な活動が見られるようになりました。
ようやく混乱から立ち直りつつあった昭和27年から30年頃にかけて、各地に地域業者らの親睦交流団体が次々と結成されました。
地域団体として、大阪昆友会、兵庫昆親会、東京昆布同志会、北陸昆布協会、中国昆親会、京都昆親会、東海地方昆布問屋組合などが組織され、それぞれ定例会を開き、情報交換や入札商談会を開催するようになったが、何よりも戦後の荒廃から立ち直り、統制の撤廃による流通の変革に即応しようとしました。
古い歴史と伝統を誇る大阪では、半世紀近い歴史を持ち180名の会員を擁する大阪昆布商工同業会が再出発し、また大阪市内の43公設市場の昆布小売業者で組織される公藻会も活動を再開しました。
いずれも戦時統制によってすっかり低下してしまった昆布製品の品質を一刻も早く向上させ、業界の信用挽回を図ることが急務とされていました。
公藻会では昭和28年に塩昆布祭り、同29年には全国に先駆けて「昆布まつり」を開催、各店舗に飾り提灯やポスターを掲げて消費宣伝に乗り出し、PR効果の実を上げるという画期的な企画が注目されました。
当時、大阪の昆布加工業者の間では、昆布加工に科学的な技術を導入し、新分野を開発しようとする風潮が高まり、塩昆布の調味、おぼろ加工の機械化などの研究が盛んに行われました。