(うつぼ)・天満(てんま) 大阪の問屋街 

 

靱公園(うつぼ公園)という公園が大阪市西区の靱本町にあります。
緑の少ない大阪市のなかで10ヘクタールほどの靱公園はバラ園や噴水があり、ちょっとした憩いの場となっています。



靱公園のうつぼという名前の発祥は太閤豊臣秀吉の時代に遡ります。

豊臣秀吉が大坂市中の巡視をしたとき魚売り商人が市売りで「やすー、やすー」「やすい、やすい」と叫んでいるのに巡り合いました。
このとき秀吉は、魚の入れたビク(魚篭)を見て、「やすー、やすー」のという呼び声を、矢を盛って背中に背負う用具である「靱」を「矢の素」として売っているのだと思ってしまいます。
そこで秀吉は、「矢の巣とは靱のことだろう」と言ったところ、商人らがこれを上意と受けとめてしまい、一帯を靱町と名付けたのでした。


魚売りがいたことからも分かるように、現在の靱公園の一帯は、江戸時代以来、海産物を取扱う問屋・仲買が集中していました

それから昭和6年(1931)までの310年間に渡り、靱には塩干魚、鰹節、昆布、干鰯(ほしか)の問屋が何百も軒を連ねた問屋街となっていました

問屋街の中央に、寛永元年(1624)から海部堀が通じ、永代浜(えいたいはま)と呼ばれた舟着場がありました。

いまの靱本町には、もと海部堀川がありました。
元和8年(1622)に靱の塩干魚商人らが、荷物陸揚げの便をよくするため、寛永元年(1624)開削したものです。
阿波堀川から起こり、北進してもとの海部町東端で直角に屈折し、西流して京町堀川に流入していました。阿波堀川から屈折点までの約72.4メートルを永代堀といい、屈折点のあたりを永代浜と称しました。

永代浜は海産物問屋の荷揚場、および塩干魚・鰹節などの専門市場として、靱の中心でもありました。


なかでも干鰯市(ほしかいち)は有名で、『摂津名所図会大成』にも、「此浜辺数多の土蔵ありて、諸国より積上る干鰯をおさむ。斯くて問丸市を立てて交易し、又是を諸国へ商ふ」とあります。



干鰯(ほしか)とは脂をしぼった鰯(いわし)・鰊(にしん)を乾燥させた肥料です。
江戸時代から明治時代にかけ、油粕とともに一般的に用いられた金肥で速効性があります。
化学肥料普及以前の農業用有機肥料で、江戸時代の田んぼ活性化になくてはならず、農業生産力の上昇に大きな影響を与えました。

天満(てんま)では青物市場が賑わい、靱では雑魚場に塩干魚の市がにぎわいました。
天満にも昆布問屋がありましたが、靱のほうが主であり、魚問屋と同じく靱は昆布同業者の全国最大の集散地となりました

「永代浜跡」の碑は、昭和28年6月に建てられたもので、「うつぼ 辻善之助山中政七」と刻まれています。

付近に楠永神社があり、境内に「御霊宮旧蹟」「楠永大神碑」が建てられています。

もとの海部堀川には、門樋橋・永代橋・上之橋・中之橋・海部橋・下之橋の6橋が架かっていましたが、昭和26年海部の堀川埋立てにより姿を消しました。 



天満市場の起源明応5年(1496)に蓮如上人が石山本願寺(のちにこの場所に大坂城が建てられる)を設け、その後、城下町として発展するにつれ、京橋あたりに自然発生的に出来た野市がはじまりだとされています。

承応(じょうおう)2年(1653)に、通行の邪魔になるため天神橋北詰から、竜田町に至る大川沿いに野市が場所を移され、天満青物市場が発生していきました。

寝屋川に架かる京橋は、淀川の舟運に適し、河内の農民が野菜を持ち込むのにも適していました。

その青物市場を囲むように乾物問屋が集まり、昆布問屋もありました


そのころに魚類商のほとんどは(うつぼ)(今の大阪市中央区伏見町)に移されましたが、船着場に遠く、鮮魚は腐敗の恐れがありました。

貞享(ぎょうきょう)元年(1684)川端瑞賢によって安治川(あじかわ)が開削されます。そして水運の便が良くなった百件堀川(今は埋立てられています)の鷺島に、季節的に出店(でみせ)ができるようになっていきました。

流通の便が良かったことから自然的に全ての取引が集中するようになり、生魚の市場は、近海の雑魚も扱ったことから、雑魚場と言われ、雑喉場(ざこば)と呼ばれるようになりました。(左写真2つ)


そして、塩干魚の市場は海部掘川(今は埋立てられています)の永代浜に集まるようになりました。

いずれも冥加金を幕府に納めることによって保護されており、株仲間を組織して繁盛しました。


第一次大戦のあと、大都市の発展が著しくなり中央卸売市場の建設が必要になり、今の大阪市福島区に大正14年3月、政府の認可を受けて36,700坪の建設がはじまりました。
そして天満青物市場、雑喉場魚市場などが吸収され、昭和6年11月中央卸売市場が開場しました。

当時は入荷商品のほぼ2割が船舶によって運ばれ、延長630mの岸壁には荷揚げ設備も整えられました。
入荷の7割が鉄道により、当時の西成線野田駅から分岐する延長4,744mの線路も敷設され、貨物専用の大坂市場駅が設けられました。
そして残りの1割がトラック便によっていました。

戦後、国鉄の城東線と西成線とを連結させて国鉄環状線の建設の要望が高まりだしました。

西九条駅と今宮駅の間で、大型船が頻繁に航行する安治川に架橋する必要があり、当初は桁下高さ7.8mの予定でしたが、中央卸市場や業者の陳情により、300トン級船舶が航行できるように桁下12.5mに改められました。

そして昭和36年に待望の国鉄環状線が完成しますが、皮肉なことに南港が建設されたことにより、安治川の舟運は激減してしまいました。

そして流通事情が一変し、昭和52年以降は船舶による入荷は皆無になり、鉄道輸送も漸減していき、昭和60年3月に鉄道引込線が撤去されました。
トラック輸送の増大と取扱商品増加への対応ため、平成4年に業務管理棟を、そして本場の整備を次々と行い、現在にいたっています。


靱の一体は、昭和6年11月、問屋・仲買が大阪市中央卸売市場ができて吸収統合されてからも、盛栄を極めていました。


詳しくは大阪市中央卸売市場のHPへどうぞ。
http://www.shijou.city.osaka.jp/




話が前後しますが、昭和20年3月に太平洋戦争の大阪大空襲(参考HPに遭い、靱のあたりは焼け野原となってしまいました。

さらに連合国軍が進駐してきて、小型軍用機を発着させるための飛行機を建設しました。

当時の進駐軍による接収施設についてはここ

昭和27年6月に接収解除された頃は、掘割の埋め立てが進行しており大阪市内の緑地帯の不足が起こっていました。市街地区画整理が始まったこともあり、元地主さんの土地提供という涙ぐましい努力によって公園が創設されました。戦災復興区画整理事業の公園として着工し、9万2千m2の大公園昭和30年10月21日完成しました。
公園内には「靱公園の由来」を示した石碑のほか、昭和40年4月に「緑化第二年植樹」、昭和43年4月に彫像「勇者に栄えあれ」およびその解説の石碑が、大阪市によって建立されました。
このようないきさつがあり、一番上の地図のように靱公園は道路を挟んで東西に長い公園となったのでした。



問屋街がなくなってしまったこともあり、大阪の戦後の復興が遅れることとなりました。
靱にあった老舗の昆布問屋は焼け出されたこともありどんどん衰退していってしまいました。
しかし焼け出された方々は天満へと移っていき、戦後に裸一貫で新しい昆布問屋さんとしてがんばっていきました

靱の復興が遅れたことと対比して、食糧統制時代に天満の菅原町に統制会社(日本昆布)があったことも関係してか、とくに天満の昆布問屋の復興は早かったと聞いています。



天満には大阪天満宮があり、地元では天神さんと親しまれています。

天満宮界隈にはいくつもの昆布問屋が並んでいて、にぎわっていました。

残念ながら戦後しばらくして経済が復興するに従い、昆布の流通が変わってしまい、現在では数えるほどしか昆布問屋は残っていません。

それでも大阪の食文化である昆布を守るために、天満の地で昆布屋の店を構えておられ、乾物業さんたちどうしでも何とか大阪の文化を残そうと勉強会も開いたりしているようですね。

大阪の昆布屋で最も古いとされているのが、大阪昆布販売株式会社です。
初代は蝦夷に海産物問屋を開いたと聞いています。しかし9代目のときに後継者に恵まれず、また問屋業の衰退を見越して昭和50年代に自主廃業されました。

江戸時代の大阪の各町の様子をうかがい知ることができる資料に、錦絵があります。
錦絵にみる大阪の風景 
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/meisho.php



靱の名前の発祥のように、大阪は洒落っ気が多く、地名に面白いエピソードがあるのが多くあります。

たとえば立売堀(いたちぼり)という地名があります。当然素直には全くそうは読めません。

これも大坂冬の陣・夏の陣の時代に遡ります。

『摂津名所図会大成』に、「慶元戦争(大坂冬の陣・夏の陣)の時、伊達家の陣所の地にして、要害の堀切なりし跡を穿足して川とせし故に、始は伊達堀とよべり。後に字音のままに伊達ぼりと言ひしを、俗に訛りていたちぼりと言ひならわせり。其後にはじめて材木の立売を御免なりし故に、立売堀とあらためしとぞ」とあります。

つまり、伊達家が陣所を設けた要害の堀だったのを、さらに掘り進み開発したとき、当初は伊達堀(だてぼり)と呼んでいましたが、その後 伊達(だて) というのを (いだち) と読み、そして (いたち) に転訛します。

その後、この地で材木の立ち売りが許可されると、立売堀 と書いてそのまま 「いたち堀」 と 読むようになったのです。

堀の開削は元和6年(1620)に着手しましたが、途中一時工事を中止、寛永3年(1626)惣年寄の突喰屋次郎右衛門が工事を継続再開して完成しました。
当初は長さ11町36間半(約1270m)、幅10間(約18.1m)の川でしたが、明和4年(1767)には幅10間(約15.5m)に改修されます。
昭和31年に埋め立てられる前までは立売堀川には新一橋・阿古屋橋・槌橋・明治橋・阿波橋・立売橋・突喰屋橋・西二橋・高橋の9橋が架かっていました。
その堀であった川(堀川)である立売堀川は西横堀川から分かれて西に流れ、木津川と百間堀川の合流点に入ってましたが、昭和31年1月に埋め立てられて姿を消してしまいました。

現在は「立売堀川跡」の碑が当時を偲ばせています。
売堀川の両岸だった町々は、いま機械工具の町としての発展を続けています。


さらに大阪の中心地である梅田(うめだ)ですが、
淀川河口部であるその土地は、もとは泥田であったのを埋め立てて土地を造成したことから、埋田(うめだ)と呼び、のちに「梅田」に転訛したものです。

とまぁこのように洒落っ気が多いのが大阪気質でしょうか。

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