番外編 佃煮の歴史
塩昆布と佃煮の違いについての話題が出たところで、佃煮の歴史について述べたいと思います。
まず佃煮や他の煮物の定義を簡単に説明しますと以下のようになります。
| 佃煮 | 小魚、貝、海藻などを主に醤油、砂糖、みりんで味濃く煮しめたもの。肉や野菜のものもいう。 |
| 甘露煮 | 主に小魚(アユ、ハゼ、フナ)や、栗、キンカンなどの果物を砂糖、みりん、水飴などで甘味を強くして煮たもの。 |
| しぐれ煮 | 貝類(ハマグリやカキ)のむき身に、しょうがや山椒などを加えて香味をつけてたまり醤油で煮しめたもの。 |
| くぎ煮 | 小女子(こなご)の佃煮のこと。関西での呼び名。錆びた釘に似ているためこう呼ぶ。 |
さて佃煮の歴史を紐解くには、その調味料である醤油の歴史と深く関わってきます。
さらに醤油は味噌の歴史と関わってきます。
そしてこれらは物資の流通(海運)があってこそ広まっていったのです。
歴史は一片だけの視点では語られません。
見方を変えて数回に分けて述べていきたいと思います。
佃煮と言えば、東京の佃島。
しかしその佃島の漁師さんの故郷は大坂の佃村。現在の大阪府西淀川区に佃という場所があります。
大坂と東京の佃。その共通点とは・・・。
天正10年(1582)、6月2日。
明智光秀の謀反により本能寺で織田信長が倒れます。そう、本能寺の変です。
そのとき徳川家康一行はわずかな手勢だけで堺にいました。
信長が倒された今、盟友である家康にも危機が迫ります。
無事に三河の岡崎城へ戻れるかという瀬戸際のとき、直接の退路が阻まれていることを堺の商人・茶屋四郎次郎が知らせます。
この知らせを受け、家康は脱出の奇策を試みます。
住吉神社(現在の田蓑神社)を参拝すると言う建前で、そ知らぬ顔で大坂〜兵庫と迂回しようというのです。
しかし家康一行が神埼川(今の大阪市住吉区)に差し掛かったとき渡る舟が無く進退に困っていたとき、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃町)の庄屋・森孫右衛門が漁民達に声を掛けて手持船や漁船を集めました。
そのときに不漁の際に備えて備蓄していた大事な小魚煮を兵糧として差し出しました。
(この小魚煮は住吉神社の祭礼に白魚などの塩漬けを神前に供えたのが起源といわれています。)
この小魚煮は近海で獲れる小魚を塩水で煮込んで作ったもので、日持ちもよく栄養価が高く、無事に岡崎城へ戻ることが出来ました。
漁民達の献身的な働きは家康が生涯忘れることができないものとなりました。
そしてその功に対し無運上極印札(無税・無鑑札)の特権を与え、大阪方に対する隠密と献魚の役を命じたのです。
天正18年(1590)に江戸城に移った家康は、森孫右衛門を筆頭とする佃島の漁民33名を江戸に呼び、徳川家の御肴役として江戸に移住させます。
慶長8年(1603)に家康が江戸幕府を開いた頃は、漁民達は今の佃地区ではなく小石川や小網町の武家屋敷内に共に住むことが許され、掘番として手当も受けていました。
三代将軍家光の時代に入りますと、幕藩体制がしっかりと出来上がり、町家と武家との居住分離が始まりました。
関西の佃村から移住してきた漁民達も多くなったので、新しい土地で、武士とは別の住まいが必要になってきました。
そこで漁業に便利な生活の場として、鉄砲洲の東の干潟の使用許可を申しでたのです。
幕府は百間四方(約180m四方)を自由に使うことが出来る許可を出しました。
喜んだ漁民は早速に築島作業にとりかかり、老若男女が一丸となって汗を流し、正保2年(1645年)に佃漁民の島を造りあげました。
この時郷里の佃村に因んで「佃島」と名付けたのです。
彼らはこの地で白魚などの漁をしながら江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与えらます。
江戸の湾岸には84浦もあり漁村が沢山有り、幕府は増え続ける江戸住民の食料としての魚確保のために、従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴であったため、需要に追いつきませんでした。
そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。
そして佃島の漁民たちは、離れ小島であるために時化(シケ)どきには食糧に困り、また漁期には腐らない副食物が必要なところから、湾内で獲った小魚類を塩辛く煮込んで保存食を作ることを考えます。
その後、千葉より醤油が渡り塩煮から醤油煮にかわり佃島で作られたので佃煮と命名され江戸市中に売り出したのです。
江戸時代後期になると、みりんや砂糖が出回り始め、佃煮はさらに味が完成していきます。小魚だけでなく、海の幸山の幸を材料に使いだし、多種多彩なものとなっていきます。そして全国各地で佃煮は作られるようになり、その土地の特産品を使った佃煮が名産となっていくのです。
時代は明治に移ります。
西南の役や日清日露の戦争で缶詰とともに佃煮は軍用食として認められ需要が大きく伸び、 家内工業から小規模な工場生産に発展し、生産量も急激に増加しました。
その後明治の後半くらいになると東京を中心に料理に甘味をつけることが流行します。
それが佃煮にも用いられるようになりました。
大正時代
佃煮に乾燥原料を多量に使用するようになると製造の機械化が進み、次第に嗜好食品から実用的食品になり、大量生産方式に移っていきました。
さらに、佃煮の需要は関東大震災を転機として急激に上昇しました。
昭和時代から現在へ
戦火の拡大にともなって軍用食、非常食として需要が増大しましたが国家が戦時体制に移行するにつれ原料や資材の配給停止、労働力の不足などから一時衰退の道をたどりました。
しかし、戦後、統制経済が解かれ自由な価格と品質の競争がはじまり、生産技術と設備の進歩と流通の発展によって、佃煮はより身近な食品としてさまざまな販売形態で流通していき現在に至ります。
※神崎川の佃の辺りは、今「佃防災船着場」として災害時の重要な水路の拠点となっています。西淀川区佃には、佃煮を作る工場はありませんが、佃煮とは深い縁のある田蓑神社があります。家康公がこの地との出会いがある前までは田蓑嶋と呼んでいました。田蓑神社は住吉三神をまつり、住吉明神とか住吉大神宮と呼ばれていましたが、明治維新後に田蓑神社と改められました。