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 2004.3.28 礼拝説教原稿

2004年3月28日説教 

「いのちと信仰の勇気」 サムエル記第一 17:31−49

序論
旧約聖書歴史書は前期預言書とも呼ばれる。

預言書は、主キリストもお認めになった旧約聖書三区分の、第二部分として、神様のご契約の歴史での展開を啓示している。その展開は神の立てたもうメシヤ王によるのであり、神の国を通して神の救いと栄光の契約は成就される。

その中で歴史書は、具体的にイスラエルの歴史を通して、その契約の成就がどのように預言的に啓示されていったかを、示す。

その歴史書の中で、ヨシュア記と士師記は、まことの王がいない状態の神の契約に照らしての混迷から、まことの王の必要を示す。

サムエル記第一は、初めての王サウルが、まことの王たりえない罪びとの姿を示し、ますますまことの主に忠実なメシヤ王の必要が浮き彫りになる。そして、いよいよダビデによって、まことの王のひな型が示される。

ダビデは、まことのメシヤの型として、うわべを見る方法ではない方法で選ばれねばならなかった。また、彼は、たとえいのちをねらわれても、あくまで主のみことばの権威と主が立てられ油注がれたものの権威に忠実でなければならなかった。その従順こそが、契約の成就である神の救いのみくにをもたらす王の器にふさわしい条件であった。

そして、そのダビデがいよいよ全イスラエルの王として即位する、第二サムエルの7章に、啓示のクライマックスがある。ダビデ契約ともいわれる啓示で、そこで、来るべきダビデの子孫であるメシヤにより、永遠の王国が打ち立てられ、主の契約の恵みがすべて成就することが、明白に預言される。

これが、旧約聖書歴史書の中心メッセージである。

のちに、この預言メッセージは、後期預言書の中で、さらに具体的に裁きと救いのとき、メシヤの契約と王権の成就の時として、具体的に詳しく述べられる。 そして、捕囚よりの帰還の時期の啓示で、来るべきメシヤの契約と王権の幻が強調され、それを跳び板として、啓示は、新約聖書のイエス・キリストによる成就へと突入していくのである。

では、そのメシヤの王国の啓示であるダビデ契約をになうダビデ王が即位するはるか前、彼が油注がれた直後、サウルに追われる試練の前に体験した、若き日の、あの有名なダビデのゴリアテとの戦いの物語は、私たちに本質的に何を語る出来事なのだろう。

それを通して今朝はみ言葉に聞きたい。
聖書は一言一言が誤りのない神の言葉、それは、キリストの真理の体系だから。
今朝もその一言一言に聞きたい

この物語は、サウルからダビデへをつなぐ重要なもので、ダビデの示す未来のまことのメシヤが、神の国をもたらす戦いのどのような器であるかが示される。

本論
1. サウルとダビデ v.31−40 まことのメシヤ王の資質

この出来事の霊的背景として、16章に三つのことを学べる。
サウルが不信仰ゆえに、王として神に見捨てられ、そのゆえに悪霊に悩まされていた
ダビデがサムエルによりうわべを見ることなく選ばれ、油注がれて、主の霊を受けた事実
ダビデが悪霊につかれたサウルを竪琴で慰める勤めについたという極めて意味深長な事実

イスラエルは、サウル王のもと、ペリシテとの戦いに、どうであったのか。
神の裁きのひとつとして、戦いに難渋していた。
民も王もともにゴリアテの挑戦に意気消沈し、非常におそれていた。
兄も人々もゴリアテから逃げていたが、ダビデは「生ける神の陣をなぶるとは」と言った

1)サウルに戦いの勇気を示すダビデ    v.31−32
a.ダビデの言った一言:動機となった心
この世が話題とした、ゴリアテ倒しに約束された富と栄誉
ダビデの問題にした恥
「生ける神の陣をなぶるとは!」

b.「誰も気をおとしてはなりません。」
励ましの器
c.「この僕が行って戦いましょう。」
みずから代わりに戦う献身

2)サウルに勝利する確信を語るダビデ   v.33−37
a.サウル「キャリアがないゆえ、戦い不可能」

b.ダビデ「主からの別のキャリアがある」

c.「神は獣から救いたもう神」

3)サウルの武具(方法)によらないダビデ v.38−40
a.サウルのよろいかぶと

b.剣(世の力の方法)に慣れない(無縁の)ダビデ

c.杖と五つの石と羊飼いの袋と石投げ

戦いは日々の生活で鍛えられるのだ。

ダビデがメシヤの型として、単なる罪びととなってしまったサウルに勝ることが示される。まことのメシヤ王に、神の民のための戦いに勝利するために与えられる賜物が示される。


2. ゴリアテとダビデ  v.40−47 まことのメシヤ王の戦い

ゴリアテはこの世の王権を代表する。かれは、メシヤと一騎打ちを挑む。それは、悪魔の代理人となったこの世の国の姿である。

それは神とメシヤに立ちはだかるものだ。(詩篇2:2)

ペリシテは、偶像の神を持って、神の契約の計画に逆らう契約を国々と結び(詩篇83)、神のさばきの器としてイスラエルを罰するためにやってきている。

メシヤ以外は、それにたちむかいうる者はいない。

このダビデとゴリアテの話は、主に私の勇気の話なのではなく、まず、私のために戦いたもう人がいないところから始まる。
そこにメシヤを示す、ダビデが登場し、メシヤのごとく主への忠実によって戦うのだ。

天の主は、笑いたもうのだが、地上の信仰の薄いわれわれにその余裕はない。
メシヤも、神である事を置いて人間となられては(ピリピ2:6−8)、世の力の前で、力においては圧倒されるかにしか見えない。

しかし、メシヤは、勝利されるのである。そして、私たちも、このメシヤなる方にある限りは、この反逆の国の一部となるしかないのではなく、国々にキリストにあって実際に勝利するのである。これは、キリストの霊的戦いの預言であるが、具体的に世界の国々を変える戦いなのだ。

1)この世はメシヤをさげすむ。まして、私たちも当然この世にさげすまれる。ひるむな。
  v.41−44
a.世的に万全の体制で進んできて、あなどるゴリアテ

b.神々の名で呪うゴリアテ

c.挑発と威し

2)メシヤの戦いの方法は、世の戦いの方法と違う。世の名でなく主のみ名で立ち向かう。
  v.45
a.おまえは剣で来る

b.私はみ名で立ち向かう

c.お前がなぶった神、イスラエルの戦陣の神、万軍の主のみ名われにあり

3)主が支配しておられ、ご自分を証される機会として、主の戦いをメシヤによりなさる。
  v.46−47
a.主はおまえをわたされる

b.すべての国は主の臨在を知る

c.主が剣でなく救う、主が戦われる、主の戦いである

ダビデが型としてこの出来事ごとあらわしたイエス・キリストは、どのようにこの同じ戦いをなさったか。

昔から、み言葉の啓示の歴史で、特にこの地上においでくださったときに
十字架上において、神の民のあがないを成し遂げるために
復活し、聖霊を下して、また、今も、復活の王として神の国の世界での勝利のために。

私たちは、このキリストにともにいていただいて、この同じ戦いをしている。

主の戦いを主は戦われた。私たちも主の戦いを戦うものだ。


 礼拝説教 2003.8.31/24/17/10/3

「主イエス・キリストとの関係」
ルカの福音書9:10−27

1)主の養いに与る人生--五千人養いの奇跡から
a. ピリポはこのさびしい荒野の近くのベッサイダの人で、だから主は彼に、この群集を養えるかどうか、試みてお聞きになったのだ。(ヨハネ6:1f) 主は、弟子たちの状況も必要も、ご自分がなさろうとしていることを、全部前もってご存知であった。私たちがむしろ、主はご存じないのではと、すぐ思ってしまう。主は私たちのどんな必要もご存知で、どう養ってくださるかも、すでに御心にある。
b. 主は、五十人づつを座らせられた。これは、シナゴグの最低規模も連想させる。教会の一人の牧師による主の養いの責任規模も暗示していないか。
c. 主は、すでに与えられている、わずかな賜物を感謝して祝福されて、そこから豊かに養われた。私たちも、与えられているものを、わずかであっても感謝し認識して、それを祝福していただく祈りから、豊かな主の養いが開かれるのではないか。
d. この奇跡は、主が五つのパンと二匹の魚で女こども抜きの男だけで5000人の群衆を養われたという事実として、どの福音書にも記録されている。この記録を奇跡がなかったように読むことはどうしてもできない。群集は主を王としようとしたが、それは、たとえば「一人の少年が弁当を提供したことに感動して多くの人が隠し持っていた弁当を出した」というような苦し紛れの合理化の説明とはどうしても一貫しない。ヨハネ6章の文脈は「しるし」があったことを大前提としている。更に、4000人養いの奇跡も記録されている。主はパンを裂き、それを次々に増やして群集を満腹させ、更に残りが12かごにもなる奇跡をなさった。これは、主こそが「いのちのパン」であられることを現わし、主が私たちを養いたもうことをはっきり示すためであった。この主の養いを受けて私たちは信仰の歩みに歩むのである。

2)主は信仰告白を迫られる--ペテロの信仰告白から
「人々は私を誰だと言っていますか」と今も主は問うておられる。あなたはこの日本でどう答えるか。
そして、「では、あなたは私を誰だといいますか。」と、主はあなたに問われる。それが、門である。出発点である。
クリスチャンとしての歩みは、ここからはじまる。そして、主は、正しく主に「神のキリストです。」と告白する信仰を与えられた者に、ご自分の十字架と復活の贖いのみ業とその深い意味を、悟らせてくださる。そして、更に、私たち自身を、主と主のみ国に仕える人生、「自分を捨て、十字架を負って、主に従う人生」へと導かれる。
「あなたは私を誰だといいますか。」
ここにすべてが始まる。


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「罪の赦しの福音」
使徒の働き26:1−23

1)神さまが、クリスチャンを迫害していたパウロ、彼らを殺すことに加担していた「罪人のかしら」であったパウロを、敢えてお選びになり、異邦人の中から救い出された。白昼、よみがえりのキリストご自身がパウロにお現れになって、彼をキリストを信じる者とされ、世界宣教の礎となさった。それは、その福音が、「罪の赦しの福音」であったからである。世界宣教の器は、確信を持って「罪の赦しの福音」を宣べ伝えるものでなければならなかった。そのために、神さまは、罪人のかしらであったパウロのようなものを回心させたもうて、その福音の本質を示されたのだ。神さまが、世界の誰でもを救いたもう可能性をはっきりお示しになったのである。罪人であると知る者だからこそ、回心するとき、主の福音の本質を体験し証しすることができるのだ。

2)パウロに、よみがえりのキリストご自身がお現れになった。私たちの宣教する福音とは、このよみがえりの主イエスキリストご自身と、この方への信仰を伝えることである。このよみがえりの主は、罪にまみれ汚れた私たちを、聖霊のお働きを通して、根底から聖なるものに作り変え、私たちを神の国に入れてくださるみ力を、もっておられる。罪の力、暗闇の支配、サタンの束縛、それを、よみがえりのキリストは、圧倒的に打ち砕きたもう。パウロにお現れになったときのように、この救いの恵みが天からあなたに臨むとき、誰もそれに抵抗できない圧倒的な光としてあなたを包む。あなたがパウロのように、どんなに不信仰でも、信仰の事実であるキリストの栄光に必ず圧倒される。そして、そのキリストの力と光はあなた自身を、聖なる者へと変え、み国のために働き、み国に与る者にしていって下さるのである。

3)パウロは、アグリッパ王に、回心を真っ直ぐ迫って行った。ヘロデ大王の曾孫アグリッパ二世は、ローマの宮廷育ちだったが、皇帝の愛顧を受けて、広くパレスチナを支配するものになっていた。彼は、ユダヤ人としての自覚も深く、恐らくユダヤ教にも通じていた。のちに紀元70年のエルサレム陥落の時など(結局失敗してローマ側で戦い負傷しているが)ローマとユダヤを取り持とうとしている。しかし、結局彼の宗教的知識は偽善的なもので、実の姉妹ベルニケとの醜聞は有名であった。こともあろうに、そのベルニケ同伴でパウロの話を聞きに来たとは、その信仰が形式的で偽善的であることと、道徳的に邪悪な心の証明である。パウロは当然この彼の傲慢と不道徳を知っていただろうが、それで彼のアグリッパへの伝道熱心が鈍ったりはしなかった。それは、福音が、どんな罪人をも変える、罪の赦しの福音だと心から知っていたからである。わたしたちも、誰に対しても福音の伝道を躊躇してはならない。福音はどんな「罪人」でも救い、聖なるものとして、み国に導くものだからである。


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「使徒の使命と主の養い」
ルカの福音書9:1−17

主イエスキリストの、「みことばの力」による「神の国の宣教」は、弟子たちに委任された。そしてそれは、2000年後の今日の教会にまで綿々と続いている。

1)教会の宣教ための権威の委任と信仰の模範
今も同じイエスキリストの力と権威が、使徒によるみことば、すなわち霊感されたこの「聖書」を通して、聖霊により、霊と肉体と精神のいやしを伴いつつ、神の国の到来を告げ知らせ、キリスト信仰へと人々を招いている。宣教は、聖書のみことばにあるキリストご自身の権威によるのだ。
また、使徒たち同様、私たち教会も、フェイス・ミッションの歴史で現わされているように、「自ら信仰によって歩む模範」を示しつつ、神の国の信仰を宣べ伝えるのである。ゆえにこそ、牧師説教者が職業を捨て、フルタイムの献身を持ってみことばに仕える事が必要とされるのだ。私たちも、「疲れたときすがる杖も、物をもらうときそれを運ぶ袋も、余分の食べ物も着る物も、お金も持たずに行け」との主のご命令の精神に従い、主が今生きて支えたもう事実を信仰の目で見て、その信仰に自らの生活をゆだね、その「信仰」の模範を背景に「信仰」を語ることが、私たちの宣教なのである。

2)教会の宣教の要点と反応
教会の宣教は、結局「この方はどなたか」という問いを生むことになる。正しく宣教すればそうなる。この要点をよく心に刻んで宣教に当たらなければならない。ここまでは私たちの召されている責任である。
しかし、「この方はどなたか」という問いに人々の心が導かれたとしても、御霊が働かれなければ実はみのらない。キリストの弟子たちの宣教によって、人々はいろいろ聖書知識などから推測して反応した。しかし、御霊なしには、結局人々がまことの信仰に来ることはなかった。宣教は、キリストについてのさまざまな関心を生むだろう。しかし、ペテロのような「神のキリストです」との応答は、御霊によらねば決して生まれることはない。
国主ヘロデ・アンテパスも「この方は誰か」と当惑した。自分の殺したヨハネではないと思ったが恐れた。彼もキリストに関心を持ってあってみたいと思ったが、後の彼の言動(13:31,23:7)をみれば、結局、彼の好奇心は、王としての自分をおびやかすものへの殺意が基本であることに変わりがなかったことが分かる。王たちがまことの王キリストの前にひれ伏さない限り、結局宣教と対決することになることを覚悟し、甘い見方を捨てねばならない。
教会の宣教とはこのようなものであるということは、必ず祈りと覚悟がいるということである。

3)キリストの養いによって宣教する教会の交わり
しかし、私たち宣教する教会の中心には、いつも主がおられて主の憩いがある。主はそこで、みことばによって私たちを養ってくださる。十二使徒たちは主のもとに帰って来て、主のもとで集った。憩った。その集いに、群集がついてきた。主は彼らを喜んで迎えたもうた。そして神の国のことを話したもうた。いやしの必要な人はいやしたもうた。これは教会の伝道の第二段階を示しているのではないか。
第一段階の、出て行って招く宣教は、「この方はどなたか」という関心を呼び覚ますためだが、さらに御霊によって導かれた人は、弟子たちが主の下に憩う集いについてくる。そこで、主は喜んで彼らを迎えたもう。私たちは教会で、その主の喜んで人々を迎え世話したもう業に、お仕えさせていただくのではないか。
韓国の教会は、未信者対象の特別伝道集会ではなく、教会員の集会の恵みに熱心に未信者を招くことによって宣教すると聞いたことがある。それは、ここで学ぶ宣教のモデルに沿っているのではないだろうか。
教会の宣教は、教会の中にあって、私たちを養い給い、また、そこにまで付いて来る未信の友を喜んで世話したもう、主イエスキリストご自身のみ業によって進むのである。私たちは、わたしたちの教会で、自ら伝道したもう主を仰いで、伝道の奉仕をしているだろうか。

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「恐れないでただ信じなさい」
ルカの福音書8:40−9:6

先週の三つの奇跡は、主イエスさまの霊的・肉体的・精神的いやしの力を示す出来事でした。その内、後の二つ、「長血の女のいやし」と「ヤイロの娘のいやし」の奇跡について、今度はその女とヤイロとの信仰という点でみ言葉に聞きます。

1)信仰と救いの関係
信仰こそが私たちのつとめです。そのことを改めて覚え自覚しましょう。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」このみ言葉は、なぜ言われたのでしょうか。娘の信仰をほめるためでしょうか。信仰は確かに賞賛されるべきですが、女の信仰が完全であったわけではありません。この言葉は、むしろ、事を行うのは、主から女に与えられた「信仰」であるという事実をはっきり示し、認識させるために語られたというべきです。女のこれからの人生の歩みに「シャローム」を保証されるに当たって、イエス様は、その歩みを導く中心となる「信仰」を、女に認識させ、見つめさせられたのです。
主からいただいた信仰こそ、いやしそのものであり、決定的に重要なものなのです。見えないいやしの恵みが主の下に備えられています。その扉を、あなたに与えられているイエスさまへの信仰のみが開くのです。私たちはただこのイエス様への信仰によって、主にある平安のうちに生きていくのです。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

2)信仰と奇跡の関係
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」娘の死という衝撃の事実に揺らぎそうになった父ヤイロの信仰を、主はこの言葉で支えられました。そして、信じる父にすばらしい結果を見せられました。
信仰こそやがて必ず見るのです。すばらしい結果を。それがどのような結果でどのようにしてかは、私たちの知りうる限界を超えていることがほとんどです。しかし、主への信仰が、必ずすばらしい結果になることは確かです。
信仰が功績として奇跡を引き出すのではありません。否、むしろこれらの奇跡は、すばらしい信仰の可能性を示し、信仰者を励ますのです。信仰が奇跡を生むというよりも、奇跡が信仰の道の確かさを示すのです。
「主への信仰こそ、必ずすばらしいことを見ることができる、人間の行くべき唯一のまことの道である」ということを教えるために、信仰を賜ったものにすばらしいことをある時体験させて励まして下さるのが奇跡なのです。

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「三つのいやし」
ルカ福音書8:26−56

イエスさまがわたしたちに神の国をもたらされる「主の方法」は、「み言葉」であった。主のみ言葉には「力」がある。そのみ言葉の力の、わたしたちを「いやす」働きによって、イエスさまはわたしたちを神の国に導かれる。

1.主の霊的問題をいやす力
イエス様の悪霊につかれた男のいやしが、私たちに示すことは、霊的な束縛の問題から、主が自由にしてくださる、主のいやしである。みことばには、霊的問題に勝利する力がある。そして、「主があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを話して聞かせなさい」と主はおっしゃる。
2.主の肉体的問題をいやす力
イエス様のヤイロの娘のいやしが、私たちに示すことは、「よくなりたいか」と語りかけてくださり、不可能と絶望の問題をも可能にしてくださる、主のいやしである。「少女よ、起きなさい。」との主のみことばが、いやしの力を持っている。
3.主の社会的心理的問題をいやす力
イエス様の長血の女へのいやしが、私たちに示すことは、病気自体よりも、それがもたらした様々な抑圧の問題を、主との交わりを通して、「シャロームで行く」ことができるようにしてくださる、主のいやしである。彼女のこの奇跡における本当のいやしは、触れて病気そのものが直ったことだけでなく、むしろ、主の「安心していきなさい」とのお言葉によってもたらされたのだ。


 礼拝説教 2003.7.6/13/20/27・青年修養会の内容

「主に仕えた女性たち」
ルカの福音書8:1−8

マグダラのマリヤは、主に七つの悪霊を追い出していただいた、救いの喜びから、主に仕えました。わたし達の奉仕も、罪を許し救っていただいた喜びから、生まれるものです。

主のもとにはさまざまな賜物の女性達が集められます。主にお仕えするのは、それぞれが自由に出来るように与えられた賜物によって、お仕えするのです。

三人の女性達が主に主の十字架と葬りと復活とを克明に見つめて、よみがえりの主の証をするという重大な奉仕にあづかりました。わたし達の主への奉仕も、主の十字架と復活を証しすることが中心です。


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「良い地に落ちた種」
ルカの福音書8:4−15

主イエス・キリストが、ご自分が実現される神の国が、どのような方法で実現するのかを、お語りになり始める。それは、自分を変えてくださる聖霊のみわざの体験による、霊的な「勘」ともいうべきものがないと、理解できない。そこで主は、むしろそのような「勘」が働かないことには、ますますなぞとなり、分からないように「たとえ」でお話になった。まずそれは、神の国の知識を正しく守り、いたずらな誤解や乱用を防止するためであった。

たとえの意味は、次のように弟子たちには解き明かされた。それは主が弟子たち、すなわち私たちを愛して選ばれ、今は同じように鈍いものでも、やがて神の国を知り、みくにを証するものとなることを知って、そのための教育として準備として、教えてくださったのだ。

この世は、神の国のみ言葉を聞いても、ほっておく。または、いとも軽薄勝手に喜んで受けるふり、信仰のふりをする。または、いろいろな世話、ゆたかさ、たのしさに心を縛られて、み言葉にただ従うように人生の方向を向けられない。これらこのたとえが描く姿は、み言葉が語られるときの厳しい事実である。

この世の人は、普通このようなことに気もつかない。だから、主がたとえを言われても、何を言われているのかぴんと来ない。私たちが多少は意味が感じられたとしても、自分でそのような心を変えられるわけでもない。

だが、私たちは、このたとえで主によって励まされる。神の国はみ言葉でくる。み言葉にはありえないような命の力が潜んでいる。普通十倍しか取れない種が百倍実るほど、み言葉は私たちの中で私たちを信じられないほど変える。そのことを信じなくてはいけない。罪とかたくなさの現実は厳しい。しかし、み言葉には圧倒的な希望がある。神の国はみ言葉によってあなたの人生にも、もたらされるのだ。


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「み言葉の力」
ルカの福音書8:16−29

イエス様の、神の国と救いをもたらされる方法は、まず第一には、奇跡でも、賜物でも、人でもなく、み言葉によってであった。種まきのたとえは、み言葉がいかに困難に直面しても、結果として豊かに実ることを教えている。

では、そのみ言葉はどのように実際働くのか。
この8:16以下は雑多な記事に見えるが、ジグゾーパズルを解くときのように、一貫した絵が見えればその中心的意味が浮き上がってくる。鍵は「みことば」というテーマである。

1)そのみ言葉の働きの性質:
み言葉は光として働くことで、神の国をもたらす。
み言葉は、すべてを知っておられる神の言葉であるから、すべてを明らかに示し、隠れているのものも暴く。み言葉は、聖霊を持つものを必ずますます豊かな命の道へ導く。聖霊がなければ、分かっていると思っているみ言葉も、実は分かっていないことが明らかになる。み言葉を聞くもの自身が、光を掲げる燭台となる。寝台の下に隠すために火がつけられたのでない。だから、み言葉は掲げられなければならない。

2)そのみ言葉の私たちとの関係:
み言葉こそ優先的絆である。み言葉の絆がみくにをもたらす。
肉親の絆、仕事の絆、さまざまな絆は大切である。しかし、それらを否定するのではなく、それらに優先するものとして、み言葉の絆を置かなければならない。

3)そのみ言葉と人生の危機:
み言葉でこそ主の力が発揮される。そのみ言葉を通して働く主の力こそ、神の国をあなたの生活にも、社会にももたらすものである。
主はお疲れになり船で休んでおられた。しかし暴風がおきて、弟子が叫んだとき、主は一言で嵐を静められた。弟子たちは、主が一言の命令で一切を動かされることに驚いた。自然界でも、悪霊でも、病でも、主のみ言葉の力が、神の国の救いといやしをもたらすのである。


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「主への祭りの成就」
レビ記23章・コロサイ人への手紙2:12−17

旧約の三つの主な祭りは、すべて、キリストを本体としており、キリストのみ救いによって成就した。

1)過越の祭り
私たちを裁き滅ぼす天使が、私たちのところに来るが、イエスキリストの身代わりの血潮をみて、裁きが十分なされたと満足し、立ち去っていく。このように、過ぎ越しは、キリストにあって成就している。

2)初穂の祭り
終わりの雨と過越に始まる小麦などの刈入れ開始から、50日目に、初穂でパンを作り、初穂の祭りがなされる。これは、実りを祝う祭りである。これはペンテコステとも呼ばれ、この日に、教会に救いの実りが聖霊の働きではじめて豊かにもたらされた。このように、初穂は、救いの初穂であられる甦りの主からの聖霊による、豊かな実りによって、成就した。

3)仮庵の祭り
初めの雨が降る前に、長い刈入れの期間が終わる。そして初めの雨と共に、あぜ作りと種まきが始まる。その前にすべての刈入れの終わりとして、新月の祭り・贖いの日に続いて、仮庵の祭りが持たれた。これは、刈入れの期間の終わりを意味する。終末を意味する。しかし、その祝い方は、まだ終末の来ていない今を覚え、終末を待ち焦がれる心を表すために、テントに入って一週間をすごすのである。それは、イスラエルが体験したようなこの世の荒野の生活を自覚して、そこで、この世の民としてでなく、みくにを待ち望む終末の民として生きるためである。キリストも地上の仮庵に宿ってくださった。(ヨハネ1:14)そして、甦って、この仮庵の生活の終わりを成就して見せてくださったのである。

旧約の祭りは、主の晩餐や、洗礼や、甦りの記念の日曜安息日など、もっとはっきりキリストを示す祭りにとってかわられた。しかし、それらの中に今も「祭り」の大切さがあることを覚えよう。過去を振り返ることが益となるのは、神さまの救いのみ業を思い出す点でのみである。聖書の祭りは、主のみ救いの記念であったし、今の私たちの礼拝も礼典も、主のみ救いの業の記念である。ということは、礼拝も礼典も安息日も、義務であったり、益であったりという以上に、主のみ救いのみ業を想起し、記念し、感謝し、祝う、祝いの祭りであることを覚えて、祝う心で行わねばならない。なぜ、みことばが一番大切なのに、礼拝で、みことばだけでなく、詩篇賛美がいるのか。それは、礼拝が、祝いの祭りのキリストにある成就のときだからだ。

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青年修養会メッセージ

1)松田先生は、いのちの契約・わざの契約・恵みの契約・贖いの契約の一貫性を話されました。
ペニントン先生は、契約こそが、教会と宣教の、確信と幻の唯一の根拠であることを、話されました。
金森先生は、創造の契約においても、恵みの契約においても、男と女が一体となる結婚の交わりが、神の形である人間の契約的本質を示し、重要であることを、言われました。坂井先生は、契約的世界観の社会的適応を話され、そののち青年たちが、安息日の個人的意味だけでなく、社会的意味が重要であることに関して話し合いました。
2)四回四時間にわたって、エペソ人への手紙を一同で一斉に朗読しました。
これはパウロが獄中で教会が迫害にも揺るがないことを願って書いたもので、1-3章は教会の本質を心の目が見つめられるようにという祈りです。特に、三位一体の神のみ力が力強く働いている事実、この世のものでない霊的なものとなる回心と新生が教会の多様性の一致の中心である事実、世界が神の国に変わるための宣教がわれわれの使命である事実が、はっきり自覚されるようにという祈りです。
さらに、4章から5章14節までは、教会の形成の実際が、マルチュリア(証し)、コイノニア(交わり)、ディアコニア(主に仕えること)の三方面から説き証されています。5章15節からは、その教会を通して、世へと出て行って証しすることの手引きがあります。
悪い時代に対し、賢く、詩篇賛美に霊性を支えられ、主に仕えてあらゆることに従事すべきことが、夫婦・親子・主従の人間関係で説明されています。そして、霊的戦いへの備えが薦められ、祈りが手引きされて、手紙が終わっています。


 礼拝説教 2003.6.8/15/22/29

「主のいやす権威と愛」
ルカ福音書7:1−17

神の国とその民についての主の説教が終わり、神の国に私達を入れてくださる主ご自身にみ言葉の焦点が向く。
主は、ご自分の権威と、ご自分のあわれみ(愛)によって、わたしたちを救われる。そのことが、カペナウムの百人隊長のしもべのいやしと、ナインのやもめの一人息子の生き返りの奇跡で、はっきりと示される。
[テキストをお読みください]
主はいやす権威をもって、今も働いて下さっている。
また主はいやす愛をもって、今も働いておられる。
あなたの人生の中に、神の国とそのいのちを、主は今も与えておられるのだ。

ニュース:
1)教会の入り口の階段に手すりが出来ました。これで一連の会堂補修が終わりました。会堂建設30周年を来年に控え、その記念事業でした。費用は補修基金250万円の予算内で屋根の全面葺き替えをはじめ、すべて実行できました。今回のための補修基金献金は目標までまだ少し必要で、その分執事は立替で対応しています。
2)牧師は6月27日から一週間大会(シノッド)に出席し、教会の基準についての審議に参加し、日本宣教のための交流の打ち合わせやアピールをします。


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「キリストを証するための生涯」
ルカ福音書7:18-35

バプテスマのヨハネは母の胎内にいるときからイエス様を知っていました。マリアの訪問の時に、「胎内の子が踊った」とみ言葉にあります。しかし、ヨハネは改めてイエスさまに尋ねたかったのです。ヨハネは、獄中で死を予感したのでしょうか、自分の主に備えるものとしての役割がまっとうできたか、確認したかったのです。
主イエスは、ヨハネの使者に対し、そのヨハネの気持ちを汲まれ、豊かな救い主の働きが始まっていることを明言されて、ヨハネを安心させられます。その上で、ヨハネを賞賛されました。
ヨハネは救い主の到来を告げその時を確言したという点で最大の預言者でしたが、救い主のもたらされる救いをまだ味わい知ることは出来ませんでした。私たちはそれを知っています。私たちは、主の証し人となるために、信仰を与えられ、救われました。今日のみことばは、主の証し人であることについて私たちに語っています。
[テキストを御読み下さい]
1)主の証人は、この世にいるうちにも、証しの成就を見ることがゆるされます。ヨハネに主が、み救いの到来を告げられたように、主は、私たちが忠実に証しの生涯を全うするとき、その主に仕える生涯がむなしくなかったことを確信させてくださるのです。
2)主の証人は、風に揺れる葦のようにこの世の風に合わせて流されるような生涯でなく、むしろ、貧しくとも、地味でも、風にびくとも揺るがない、歩みをするのです。主からお預かりしたみ言葉を硬く抱いて歩む生涯です。
3)主の証人は、どんな時代に生きるのでしょう。それは、無感動・無関心の時代です。また、私たちの証しを硬い心で聞き、悪意を持ってねじ曲げる時代です。しかし、主キリストの正しいことを、聖霊による新しい心を与えられた証し人たちは、その生涯の労苦を通して証明するのです。


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「ある町での罪の女の赦し」
  ルカ福音書7:36-50

主イエス・キリストについての証しの、究極の姿が、ある町での出来事で示される。それはパリサイ人シモンの家で、主が食卓に着いておられたときに、ひそかにその場に来て、主の横たわっておられる長いすの、丁度主の御足があったところの後ろに立った、その町の一人の罪深い女の、証しによるものだった。その証しの行為とは、涙をもって御足を洗い清め、自分の髪の毛でぬぐい、御足に高価な香油を塗るという、主への愛の行動による証しであった。
[テキストをお読み下さい]
1)究極の主への証しは、罪深い女にこそできた。
2)なぜか。それは、証しとはそもそも、罪びとが赦されて主を愛することによるものなのだ。
3)究極的に証しされるべき真実は、主イエス・キリストが、罪を赦す権威を持ち、そのためにこられた、神の子であられることである。
だから、私たちが証しするとき、心に罪が赦された感謝と、主への愛の思いがあふれていなければ、正しい証とならない。パリサイ人シモンの堅い心に、イエス様は信仰の兆候を見ておられたから、率直に叱責されたのかもしれない。彼が主をお招きしながら、師への愛を十分に証し出来なかったのは、罪の自覚が足りず主の赦しをまだわずかしか知らなかったからだ。私たちも、よい証し人の生活をするには、立派な自分になるというよりも、まず、自分の罪を悟り、悔い改めて、主の赦しをこの罪の女のように深く身に感じ、心から主により頼んで、主を愛する愛を表して行動することからである。礼拝出席にせよ、自分をささげる奉仕にせよ、十戒を守る忠実にせよ、みことばの学びや祈りにせよ、罪の許しへの感謝の応答として、主を愛してなされるとき、それが主の証となる。主の罪の赦しがあなたの体を通して証しされる。「平安に」と主がこの女に言われたのは、シャロームである。主を証し愛したこの女を、主はさらに豊かに愛され、永遠のシャロームを約束された。


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「主の憐れみに生きる」
出エジプト記21−23章
−「目には目を」から「敵を愛せ」への変化について

出エジプト記の20:22−23:33にある「契約の書」は、これをもってイスラエルの民が神さまと契約を結び神の民となった文書ですが、その内容は、社会律法といわれるもので、実は、十戒にもとずく恵みと正義と聖さの「神の国」の幻が暗示されているものです。

この神の国は、旧約聖書の時代には実現しませんでした。これは、イエス・キリストの恵みと御霊によってわたし達のうちに実現するものなのです。

その象徴的な言葉が、出エジプト記21:24にある「目には目を」という正当な賠償の正義のある社会の教えです。イエス様は、この正義の世界をもたらすのが、私達人間にはムリで、ただご自分の恵みによってのみ、このような正義の社会が実現することを宣言しておられます。主の圧倒する恵みの勝利を信じる象徴的行為である「打たれたら左の頬をも向ける」ことが、今や、私達クリスチャンの、恵みと正義の世界を目指す歩みの基本となっているのです。それは私達に神の国に導く、王なる主がもう来ておられるからです。ペテロ第一2:20−23にあるように、主にならって善を行いつつ、苦しみを耐え忍び、私達は主の恵みによって、恵みと正義の神の国実現に向って勝利していくのです。。

旧約の儀式律法がキリストのあがない、つまり「キリストは救う」の予表であったように、旧約の社会律法は神の国、つまり恵みによって「キリストが君臨する」姿の予表であったのです。


 リンク集

 蒜山バイブルキャンプ
2004年は8月20-21日の予定です。
 米国短期宣教チーム
過去のチームの写真などものっています。


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