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2000年3月
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変えた。変わらない
2000年3月1日
・劇団。遅刻したが、代表は仕事でけっきょく来れない。相方と懸念のシーンに「とまよんメソッド」をとり入れてみる。なんとか少しやれそうになる。
・釧路舞台塾報告を途中まで書いている。
2000年3月2日
・夜中に絶叫短歌の2稿をにらみ、短歌部分のみの変更案を提示してみた。
2000年3月3日
・劇団。Kスト最後に到着。省略形でおいついてよーじやまもと、そして発声。ロングは45秒程度か。そんで「怒髪天」もやってから、シーン1。ちょいと「とまよんメソッド」のことをいう。タイムキープしてもらい何度か修正しながらやる。少しずつ変化していく。押さえる松本側。きっと逆に「川」では松本側も能動で動けばいいんだ、きっと。
・芝居人会議。主に演劇フェスについて。あれこれ企画ものについてひとつひとつ可能性と内容的押さえをしてみる。けっこう現実的であるものとそうでないものとが見えてくる。
2000年3月5日
・昼から絹川さんインプロWS。楽しんだ。みんな夜まで楽しんだらしい。ちょっとインプロというよりシアターゲームレベルって感じだったけど、楽しんだからいい。いろいろ吸収しようという役者スタンスというより、もっぱら遊ぶのに夢中という感じでしたけど。はい。ジブリッシュが後半ほとんど。最後の「まねてまねて」「分かったら殺す」はちょっとルールの把握が遅れた。でも分かった途端に殺したときは気持ち良いカタルシスがあったっす。だいこん倶楽部の人やMKさん、Kさんともお知り合いになれたのはとてもラッキ。以下は主催者側に出した感想。
楽しんだ。とにかく楽しんでしまった。インプロというよりシアターゲームレベルって感じだったけど、楽しんだからいい。いろいろ吸収しようという役者スタンスというより、遊ぶのにすっかり夢中という感じでした。はい。
後半はジブリッシュがほとんどでしたが、最後の「分かったら殺す」はちょっとルールがうまく体にしみ込む前に終わった感じ。でも分かった途端に殺したときは気持ち良いカタルシスがあったっす。
「手を当てる」はリベンジでも間違った。失敗した。間違ったことを失敗といってるのではなく、「これか」と思ったらすぐ「この人」ってやっちゃったこと。もっといろんな人の手を味わえばよかった。損した、か(笑)。
自分自身としては、もっと役者スタンスでいていろんなことを吸収する頭を残して対処するべきだったかも、と思っている。冷静に記憶していこうという頭もほとんど働かず、ひたすらルールの理解とそれに応じて楽しむ体をキープしていた。で、ひたすら楽しんだ松本ってのも、周囲にとっては悪いことじゃなかっただろう。
それから、ここまでひたすら楽しんで参加できたのは、絹川さんの構成と雰囲気づくりに負うところが大きいのだと思うけど、これまで大野さんが蒔いてきた「シアターゲーム」についての啓蒙が参加者の前向きさをしっかり生んでいたからでもあっただろう。
で、ついでにいうと、松本自身は、まだシアターゲーム経験って3回めだったのだ。本格参加としては始めてと言ってもいいくらい。だから余計に「楽しむだけ」モードが強かったのかもしれないっす。
っつーことで、あまり細かく冷静に頭に記憶させていません。なのでできれば何をやったかっていうリストが後にもらえるととってもうれしいです。そのリストをみながら、体に反すうさせて、それをゆっくり頭で理解していきたい。
でもやっぱり今回のはシアターゲームの範疇で、まだインプロの入り口の前まできたってところなんですよね。勘違いしてたらごめんなさい。
以上。とりあえず。
2000年3月8日
・劇団。稽古は早じまい。代表が用事。シーン1をちょっとやっただけ。で、その後、かがみをやりながらセリフを言うのをやった。あと、シーン3のセリフ入れ練習。
2000年3月9日
・夜は芝居人会議。それだけ。か。何やったんだっけ。そうだ、いろいろ呼びかけ文というかそういうものの準備の件とか。
・釧路舞台塾の乱暴書き報告も一応書いた。
2000年3月10日
・夜は教文演劇フェス。ほとんどのプログラムが残る。シンポジウムはどうした。フィナーレか。
2000年3月11日
・劇団。代表がこんなゆっくりでいいかということについて団員の本音を確認する。ゆっくりでしめしめと思っていると松本は言う。最初のシーンの二人部分の調整。その中で押しと受けの関係調整。いちお演出視点にのっかって、こういうときに押しすぎないための課題を自分でもつことにする。もともとは受けの人だった松本だけど、この関係の中で押しになっているとしてそれを修正すべきなら、それは弱くなることではなく、こういう関係の中でも対等にあれる心身を持つということ。それを課題にできると思ったのは、こないだの絹川さんWSのときに「楽しみすぎた」こともある。もう少し人の手ざわりを味わおうともせず、急ぎ当てることばかりを追求した松本は、まったくゲームに押しでしかかかわらなかったわけだ。もう少し受け止めることをちゃんとしなくちゃってことだったんだろう。だからって押せなくなったらまずいけど。
でもかつて受けた松本修氏のWSのときのことを思い出せば、やっぱり松本はそういうところが逆に後退してしまったのかもしれない。でもよーじ歩きでは一番共鳴しようとしていると思うんだ。それができるんだからなんとかなるはずだと自分で思う。あのシーンでは人を動かすなんてどうせできないから、せめて受け止めてそしてできれば受けとってくれ、って感じでいるものねー。受け止めることは苦手ではないんだ。でもついセリフがあると、セリフで押すことによってつながろうとしてしまう場合が多いというくせがいつのまにかついてしまったのかもしれない。がんばらないこと?か。ハーブだなあ。つまり受け止めること。受け止めてひとつになること。日常では逆なのにか。
2000年3月12日
・釧路報告。芝居人会議に出せる程度にはまとめた。関係者に出した。
・観劇。ライフアフター。けっこう引き込まれた。自分が精神的にゆとりがなかったせいか言葉は残らなかったけど、人々がしっかり残ったというか、ちゃんとその場に入り込んで観ていたもの。リアリズム演劇ですよ、これが、つまりしゃどうず的な。新劇的なのじゃなくて。
でもしゃどうずと違ってここに登場する主要人物たちは「不満」ではなく「不安」をかかえている。どうすればいいのかわからないという不安。今回、「老人」という彼らと隔たった他者をひっぱってくることで、そこになんらかの道筋を見つけようとしたのではないか。そう。えらい真面目に取組んでいるのだ。作者は。一見、すぐにキレそうで、かつ、自分の理解からずれた人をすぐに否定しそうないたたずまいの人なのに。
前半はまさに新劇でしょうか。ちょっと特殊キャラがいるのが新劇にはない線だけど。でもしっかり作っている印象。おじいさんの息子役がちょっと大味だったけど。出入りは多いけど暗転なし。で終わったのかと思ったの。こんなもんかと。そしたら実は休憩でした。すっかり帰るつもりになっちゃったのは、やっぱり芝居観る前から精神的に松本が疲れてたからかなあ。注意力散漫だったかしら。
けどねーそれでも芝居に入り込めたってことは、これ、かなりポイント高いのではあるまいか。ただし、客対応の部分が甘いってのはあったんじゃないか。始めてきた客は、あれだけのコメントじゃ休憩だってわからんって。いやおれだけか。あれ。でもねー最初、混んできたときの場内係さんも「もう少し詰めてくれませんか」というんだけど、どっちに詰めたらいいのかわからなくて、けっきょくあんまり客は動かなかったんだよねー。詰められるものなら詰めたかったんだけど。そういうところもあって、舞台回りとして場内で客を動かす術が弱いのは明白だったと思う。それだから終わったと思ったのであれば、そんなに集中力がなかったわけじゃない。とするとそんなにポイント高くしすぎちゃまずいか。
それと全部初めて観る役者だったのさ。けっこう個性があって「ちゃんと芝居してんじゃん」って思って観てた。だから作品にというより、役者たちに集中させられたのかもしれない。うーん。それはどうかな。休憩前後で時代を経たにもかかわらず、途絶えることなく前の世界を感じ続けられたってことは、やっぱり世界をきちんと作っているからだろう。その世界に、ちゃんと集中させてもらえたってことだと思うぞ。力あるよ。
で、後半は特にしゃどうずっぽい。いや、まさにしゃどうずと言っていい。若いころのしゃどうずはああだったと思うぞ。けど「不満」と「不安」の違いってなんだろう。それは時代なのか。まだあのころは「不満」として捉えられた分、良かったってことか。そうなのか。そうじゃないと思う。ああいう「不安」っていうのは「不満」の前でそんなに表立って出てこなかったんだと思う。あのころは。今は「不満」があんまりないので「不安」ばかりが出てきてしまうんだろう。銀行強盗をした理由になんの切実さも必要ないくらいに。それはきちんとこの芝居が「今」を映しているってことだ。
で、じいさんに戻る。そういう芝居だったんだもん。最後に20年くらい前に(前半の芝居)その人里離れた家で死んだじいさんが、記憶を変えて語る。なぜ変えたのか。そこんところを考えるゆとりを客に与える最後の時間もなく、終わる。欲しかったなあ、その時間。自分と他人の差とか自分自身の差とか、そういうことをこの作者は分かってると思うんだ。だからこそ、その差の大きな虚構的装置として「未来」の「5年の隔たり」、そして「じいさん」を持ってきたんだと思うんだ。無理にでも客観的になるための装置として。だとしたら、これはこれで畏怖すべき視線だ。核戦争後の世界としてでなく「不安」を描けるようになったのは、現実がそこまで「不満」なく「不安」なものになってしまったということだろう。「未来」という装置は、この芝居では「今」との感覚的隔たりを生みはしていなかった。もうその必要はなくなったってことだろう。良くも悪くも。
・なんだかんだで無理矢理の比較をしよう。イナダ組の12月のよりもいい作品だったんじゃないか。新劇的に。つまり人間関係的に。つまりしゃどうず性として。それはUNOだからか。マリアのウィルスよりもしゃどうずでしたぜ>Iさん。
・無理矢理細かい不満をあげつらってみようか。後半。落としたナイフ。けっきょくそこにあったから拾って自分を殺すというふうにもってったんだけど、ずっと落ちたままだったのは失策か。それを眺めてまわってしまうことがあのキョンシーくんには果たして正しかったか。
・同じく前半でハイチュウの包み紙が落ちていたこと。じいさんを運んだ後。それを見つけているのにそのまま放置したこと。そういう部分を破綻にはしてなかったと思うけど、なんか違和感。
・ずいぶん書かせるじゃねーか、YHS。次も観ると思う。
2000年3月13日
・劇団。相方と「無限とは」部分を探索。鏡でやりつつ「出せない」という感じらしいので、綱引きやキャッチボールをやってみる。さらに柱を廻るってのもプレゼンしてみる。どこかでひっかかってるらしい。
2000年3月15日
・「道立劇場の進捗を聞く会」芝居人会議(仮)主催。19:00〜21:00くらい@道庁12階会議室。出席:斉藤雅彰(超級市場),嶋智子(ティンブル),滝沢修(極),秋元博行(ペルソナ),高橋正和(コンカ)で。けっこう「山谷」さんの本気は見えてくるんだけど、その他の北海道側の人たちがどうそれを支えていくのか見えてこない。出席者側はけっこうラフに話したりして、批判でもなく、かといって迎合でもない人たちが集まった感じです。
2000年3月16日
・演劇フェス実行委。なんだかどこに話がいくのかわからん。欠席の本間さんの話を伝えるのとオープニングにからんだリーディングの話しをしとく。金額の問題がまずあると思うので、その点を先にはっきりするようにうながす。そのくらいか。後は参加劇団の確認。それと今年の実行委員になるってこと知らなかったと参加団体の一人が言ってた。あんまり伝わるとは思わないほうがいい。メールでも。生でも。伝わらないことはそれぞれある。ライブとネットと私的言語と公的言語のはざま。言葉って大切だよ。やっぱ。体も心もだけど。
・劇団。綱引きを延々やってたらしい。いってちょっとやって、代表から「綱引きをインプロする楽しさもあるだろうけど、とりあえずこの芝居的には交互な形でやれればいい」とのこと。で、それならよりふさわしいものを探索しようということになった。キャッチボールから、さらにナイフ投げ。輪投げ。でやってみて多分ナイフ投げよりダーツのほうがいいだろうと。代表から「役者的にはコミュニケーションとれればいいだろうけど、舞台ではそのコミュニケーションの合図みたいなものは消していきたいんだけど可能だろうか」と相談を受ける。この劇団ひいては代表がますます好きになっている松本。「行けると思う」と言っといた。確信がなくてではなく、体的に確信が蓄積されれば、と。記憶や経験の上での知識的確信ではない。ちゃんと体的確信。それが相方とできるかどうかはわからないけど。まだ。
2000年3月17日
・カリスマ。「短歌」くくにだめだししてもらうというのをバックグラウンドで稽古した。なんか変な感じ。
2000年3月18日
・アインシュタイン。いいじゃん。
前売1000円で当日1500円はちょっと差ありすぎだよなあ。と思いつつ受付。トイレによる。入ったらもう設置席いっぱいで追加席を出してるの。けとそれから続々かっていうとそうでもなく、なんか最初の追加席の人ほど損な場所って感じになってった。100席作ってないんじゃない。初日でここまでってのは予想外だったらしいけど(対応の感じで)、それにしてもちゃんと開演前に来る客の率が高いってすごいね。ちょっとはじっこでみにくいかと思ったけどそうでもなかった。一部上手奥の人物が見えないところあったけど。
最初はなんかちょっと役者たちにスキあり。特に両親。だけどね後半のほうでそれぞれの想いがズレて何かをやっていくところなんて、なんか泣けてきそうだったんだ。「いいよ・せつないよねー」って感じ。YHSと違ってそういうせつなさを「それでいいんだよ」と言ってくれる優しさがある。むしろその優しさで泣けてきそうになるのかもしれない。ただ・・・優しいだけで何かを終わらせる。だから本当の終わりではちっともない。そういうことを台本は語るはずなのに、芝居は終わらせなくてはならない。その終わらせ方の折り合いがひょっとしたら足りなかったかもしれない。観終わって、もう少し何かほしがっている松本がいた。
結局母親と通じあえずに終わるアイン。ロボットの手を見てキズがないことに逡巡するアイン。だからこそ、それがもっとちゃんと折り合うようなキャラクターにアインをしたほうが、きっと良かったのではないか。母親のキャラ設定もそういう意味で精神的にやや離れ過ぎてたと思う。だから、あの大きな「事故」をともに経験しながら、最後にも解りあえずに終わってしまったのではないか。続くリフレインのような最終シーンの中でロボットのキズがないことに気付いたアインにとって、それはほんとは「ホントのことを知ること」だったはずなのに、ただそのエピソードは通り過ぎてしまうだけだった。残念なとこ。
でも、はっきりいっていい役者と思った、女優たち。主役ともうひとり父親の同僚のK2職員。だけど。ああいくなら、K2にしてもキャラはもう少し違うべきではなかったか。あれだけ「うらんでる」っていっててぜんぜん人をきちんと受け止めるままでいるのは変だと思うのだ。演出の問題だ。主役にはそういう難点は一見ないようだけど、でもあったんだな。たぶん。つまり彼女は最初から最後まで変化しなかったということで。性格ではない。人に対する判断のスタンス。それが変化しなかった。誰をどう判断するかは変わった。でも人一般に対する姿勢は一貫したままだった。それはドラマの主役として不足だろう。
じゃ誰が主役か。けっきょく父親だったってことか。でも後半では母親がなりつつあった。だったら最初からそうすればよいのに。でも役者としては主役とK2だけがきちんと微妙なその場を生きていた。
もったいないと思う。もったいないと。うーん。でもあれだけの現場を生きることのできる主役の役者はいいなあ。K2役も。ちゃんと微妙なその場を生きていた。それもグッド。久々に女優のほうがいいって芝居を見た気がする。
うまく言えてないや。おもしろかったけど、作品に対する演出の作りがちょっとだけズレてた気がするわけです。だって終わって思ったこととして、「ロボットと主役の関係」と、「父母の関係」とを同じ線で感じ比べることができなかったもの。それを要求してたはず、作品は。でも単に「キズがない」→違う。同じなのに違うってところだけで終わったんだもん。芝居では。
うまく書けない。いいたいのは「最終シーンのリフレインの中、母親とアインの関係があれじゃないだろってのと、ロボット君の右手の平にキズがないってことに対しても、あれじゃないだろって、たったそれだけのこと」。それを引き出すためとしては前半がちょいと硬かったんじやないか。特に母親。それと二人のいい女優のやった役に与えたスタンスの間違い。それだけ。いい芝居です。せつなくて。つまり人生はせつないんだよって言ってる。そしてそれでも生きてくって言ってる。それはそれだけで力強い。でもそれで不安をどう消化してくつもりなのかはわからない。
2000年3月19日
・『ぐぅ』。おもしろかった。途中で「こんなつなぎでも眠くならない」と意識したくらいに。そういう意識になるってことは逆に単調になりかけたところがあったってこと。それはやっぱ幽霊たちの逸話のころがり方だったと思う。最後の「相手の手をとれば愛が残る」というのはとってもいい言葉だと思うのだけど、その意味の良さほどには舞台から来るものは少なかった。なんでだ。「しほ」役は良かった。役者としてよりあの場所でのいかたそのものが。あんな子いるよね。いい子だよね。という。
やっぱ途中の逸話のところが、作者と演出でズレてたのではないか。作者はもう少し愛を、ほのかな愛をていねいに描こうとしてたんだと思う。それに対してはあの童話軍団のシーン展開は役に立ってなかったと思う。特に老人夫婦の関係において。もったいない。ショー的には一番支持される場面だったけど、なんかもったいない。演出は子ども客を意識して「ショー的」な支持を選んだのかもしれないけど。
主題歌はかっこ良かったけど、歌詞がもっとちゃんと聞こえないともったいないと思った。録音でいいから。あるいは演奏とのバランス。
2000年3月21日
・劇団。松本20時着。いったら、単語リレーをやってました。しばらくそれやって、それからお話リレーをやってみた。一人帰宅後は、相方とだいたいお話。たぶん役者ってことに始まり、今は役者専念してる松本のあうた時代のこととか、ついつい役者だけでなくいろいろやりたくなるという相方の照明体験とか。
2000年3月22日
・『逃げてゆくもの』こしばバージョン。三木さんだけが普通な芝居じゃない。理由がわからん。コミュニケーション不全としてもあれでは納まらないはず。他の3人の普通さからいえば、あのコミュニケーション不全にはつっこみが入るはずだもの。
・劇団。代表は休み。今日は松本19時30分着。いったら、おてだま。しばらく右左10回交互で40回くらいにはなる。「これはマイムじゃむりだよな」みたいなことを言ったらSNさんが「受け取るほうにほとんど目が行ってるなー」。それから鏡。シンクロに入ってからのHCさんの提出能動レベルが以外に強い。で、少し逆に威風流が「能動率低いかも」。で、SNさんと松本は二回目には能動レベルをお互い少しあげてみた。すると速度アップ。SNは「このほうがやりやすい」。さらに能動レベルをお互いが同じように高くしてったらどうなるか、と話だけした。両方100%能動になったら、それではシンクロは成り立たないだろう。いやそれでもシンクロしたらすごいかもしれない。などなど。
その後、「言葉(文章)の鏡」N-H,N-まつで一回ずつ。これは失敗。感覚的にさっき体の鏡でレベルをあげたくらいの能動レベルでは、言葉はシンクロして動かない。もっと能動レベルをあげないとだめみたい。って話。このあたりでH帰宅。
以後はシーン1とシーン3をちょっとずつ。なんかセリフを忘れてる。シーン1はでもそれが新鮮でのりちゃんは少し新たな感じで心地よく乗り切れたそう。シーン3はしかしふたりとも、すでに体からも頭からもシーンの進行やセリフが抜け始めていた。
2000年3月24日
・『逃げてゆくもの』藤川バージョン。こしばバージョンほどではなかったが、やっぱり主人公に違和感が残った。こしばバージョンの逆。どこでどう何かが解消されるのかされないのか。今日の藤川バージョンで、くらはしの「弟さんのほうから手を離したんじゃないんですか」の機能に注目してしまった。だってその可能性をあの姉弟はどう抱えもって2場以降を生きるのか。4場後半・エンディング近くにそっとくらはしから出たほうが、はるかに強いものになるんじゃないかと思った。きついもの。その可能性を知ってなお生きてかつ最後に変わるのは。
で、藤川バージョンは遠藤さんが大受け。こしばバージョンでくらはしだったのと大違い。きっとどっちの論理にシンパシーを持ったかの違いなんだろうな。こっちのくらはしはふわふわしてるだけだったかも。地に足のついた地元の人って感じもなく。けどそれはそれで納まってた。
問題はやはり姉。こっちではなんか人をよく見えてる人になってる。もう少し違う「見えなさ」かげんがほしかったように思う。自然さははるかにこっちのほうがあって、それはいいんだけど、リラックスの度合いが弟と逆転している感じ。生き方のリラックス度。逃げたのは誰だ。逃げてないんだもん、姉。ここにこうしていることに充実感を感じている。何度かほかの人間同士の会話の最中に目線の演技があったんだけど、それがただそのとき限りのエモーションで、全体像にそれが通じていなかった。そういう部分。弟は良かったんだけどなあ。自然というより自然な違和感を体から発していて。ふーむ。なるみちゃんの人を包んでしまう笑顔が、出過ぎたってことかな。それはリラックスというか自然体になっていたからこそなのだけど、でも演じたあの役としては、人を包み過ぎだったと思う。家族も信じられなくて自分は逃げ出したんだと思っている人が、ああいうふうに人と人のいさかいの中に落ち着いていられるとは思えない。だから最後で二人のいさかいの間に割って入って「刺せます。くらはしさんは」というときの入り方が、本来もっと唐突でいっしょうけんめいに無理するところもあっていいのが、あんまり無理に見えないんだ。そんなことを言うこと自体の唐突さだけで、ぜんぜん説得力がないの。あそこで父への想いとかそういう家族への想いがにじみだしてこないといかんでしょ。
といいつつ今までのなるみちゃんの中では、その人を包む笑顔度合いをかなり抑えた芝居になっていたかもしれない。だって今までで一番好きになれたもの。
やっぱマスクの使い方は藤川演出のほうが好きだなあ。「父さんぼけた」を言うときにかぶっているっていうの。うん。そういう細部での演出がきちんとさりげなくあるのがいい。無理に象徴させない。そういうところ。か。
2000年3月25日
・ヒステリックエンド。いいドラマだったと思う。ただ演劇的しかけがけっこう雑に感じられた。暗転処理の速度とか、あまりに多いシーン数とか。後半などで役者が場展する姿を見せるのなら、それ、もっと統一してやっちゃっていいのに。なんかそういうシーン展開の方向性に一貫性を欠いた。スライドが不調だったのもそのちぐはぐさに影響を与えたのかも。前半観ているときに「映画的」だと思った。映画ならもっと豊かにあのドラマを表現できたろうに、と。かつてのしゃどうずがマリアでやったやつに思ったことを久しぶりに思ったわけだけど、でもそれはヒスエンのこの作品がしゃどうず的だというわけではありません。でも雑もいいじゃん。そう思う。昔、きっとぼくなんかもっと雑にやってたんだろうなあ。
・『逃げてゆくもの』斎藤バージョン、ただしゲネ。なんか一番わからなかった。でも一番姉弟がちゃんと姉弟だった。ただ弟の他人を見る目が変。くらはしのことをずっと眺めているときだけだけど。後、くらはしと遠藤の対立のときもお互いがずっと相手を見据えているってのがなんか変。けっこう途中省略がいっぱいあったので、かえってわからなくなったのかもしれない。他のふたつに比べて弟が主役という感じが若干あった。けれど他の2つではどうしても遠藤が隣室にいるときにカメラをめぐって姉弟が戦うところが男と女の関係に見えてしかたなかったのに、ここだけはきっちり姉弟にしていたのはさすが。そして一瞬の本音にすべてを載せる禁欲的な演出は、これもありと思った。この骨格があってブラッシュアップしていくと、きっと筋の通ったものになっていくんだろう。
・3つを比較して考えられることは山ほど。特に姉について。その人里離れたところにいるというどこか無意識な人間不信あるいは人間忌避の気持ちをどう描くか。遠藤の提示するものからさらに「刺しますよ」にいたるところを、どう彼女のあの事件との戦いとしてみせるか。みたいなところはかなりみんな違ったと思う。こしばバージョンはそうした。藤川バージョンは役者のせいかなんか唐突なだけだった。斎藤演出は本音としてではなく、どこかあえて演じた姿として描き、自分自身と戦おうとする姿勢を垣間見せたと思う。でもそれはあまりに冷静で、理性的な態度に見えてしまった気がした。それでいいのかもしれないけど。それぞれまだまだ先がありそうです。3種を観るという客としてのぜいたく。3つを観なければ、ここまでいろいろ考えることはできなかっただろうね。
2000年3月26日
・実に久しぶり(前回)、朝から撮影。松本最後の撮影。監督にマンガ返すの忘れた。AMさんと共演になっちゃった。期せずして。
・遅刻で『逃げてゆくもの』レセプション。「地域創造」の人にSaEKinマスターとして話をする。北川さんが「役者だけ」っていうのがむずかしかったと言ってた。WMさんはおともだちの下の妹だった。びっくり。かんこさんに挨拶してもらえる。林さんにひきとめられてけっきょく二次会に。移動中、組織運営のむずかしさと、Eさんの「新しさとやり方の下手なこと」についてIYさんにきく。熊倉さんにごあいさつ。演鑑ボランティアの人たちに話がきけた。けっこう札幌のも観るようになってる人とまだ札幌に来て日が浅くそれほどでもない人と。HSさんから「今まで誰かのためにやっていた。変わった」という言葉をきく。なんだかうれしい。
2000年3月29日
・劇団。ミーティングだけどいつもの4人。で、6月中旬の線が提示される。ところで「再現性の高さ」をプロの役者に感じたという代表の『逃げて』舞監体験感想は確かにそのとおりだろう。くやしいけど。それは再現性をそれほど重視せずにやることを意気に感じる我々という存在と、彼らの違いに2重の意味の可能性があるから。だってパンプキンではアドリブ入ったけど、再現性はきちんとプロやってたもの。それでも楽しかったけど、でもあれは自分じゃないもの。いや違うな。そういうことだけじゃない。はずだ。なんだろう。
2000年3月30日
・教文。だいたい納まる。けど細かいところで決まらない。某団体が辞退。これをケーススタディにして「ボランティアもプロじゃなきゃ」と言う安穏論理への反論を整備すべし。大きな動きがうまくいっても、現場をつぶす懸念は常に意識しなくては。地元の芝居がつぶれちゃいかん。そういうところでやっぱラグとかイナダとかあざらしとかは正しい。だけどぼくらも正しい。そしておそらくHSさんも正しい。
正しさはひとつじゃない。でも正しさ同士が疑心暗鬼になるのはまずい。その間に「力」とか「経験」とか「人脈」がすべてをさらってく危険だってある。
2000年3月31日
・有珠山噴火。
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