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#このページは、2000/5/1に発行されたMHET NEWS LETTER Vol.1 の目次と内容の一部です。

MHET NEWS LETTER Vol.1 2000.5.1

目次

研究会設立趣旨……(1)
研究会をはじめるにあたって
   ……八木紀一郎(2)
   ……猪瀬直樹(4)

[報告要旨・報告論文]
デジタル情報と知の変貌……赤間道夫(6)
大熊信行と長谷川如是閑一ラジオ、国家、エコノミー……田中秀臣(10)
社会科学系ホームページの現状と課題……岡本真(27)
歴史学系ウェッブサイトの現状と問題点……鵜飼政志(51)

(特別寄稿)中国経済学の一側面一朱紹文氏のこと……三田剛史(64)
1999年度研究会/執筆者一覧……(70)

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研究会を始めるにあたって

・以下は、MHET第一回研究会での巻頭において行われた代表幹事八木紀一郎、猪瀬直樹両氏(以下敬称略)による「研究会を始めるにあたって」と題されたスピーチを、録音テープから事務局の責任で復元編集して掲載したものである。掲載は発言順。

八木紀一郎(京都大学)

 司会の深見(保則(東京都立大学))さんに紹介いただきました京都大学の八木です。私自身はこれまでオーストリア学派の経済学者であるとか、最近は日本のことも研究していますが、主として経済思想、経済学史の分野を研究してきました。こうした研究をする際の私の立場は、私自身の勝手な表現で、Refined enviromentalism(洗練された環境主義)といっております。経済思想や経済学史の研究においては、ともかくテキストや原典を内在的に読むテキスト内在主義という立場と、もうひとつは時代の中や、社会状況の中に思想や理論を位置づける環境主義というふたつの立場があります。

 私はどちらかというと環境主義の方ですが、ただしその中で経済学や経済思想には一貫性や整合性を要求する面があるので、そこに一種の相対的な自律性があることを承認しています。いろいろな学会や学問が制度化されると、この相対的な自律性はさらに強まっていく。そういった面を取り入れた方法というので、Refined enviromentalism と称しているわけです。

 この研究会と私の研究との関連を東京に来る新幹線の中で考えていました。もしかしたら内在主義に替る方法の発展が期待できるんではないかと思いました。研究対象のはっきりしている内在主義に関しては、ある程度古典的な仕事もあり、定石も確立しているかと思います。それに対して環境主義については、どうも方法がはっきりしていないいんじゃないかという気持ちを私は持っていますが、この研究会はもしかすると、そういう一種のenviromentalism の側からする新しい方法を生みだすことができるのではないかと考えています。

 といいますのは、私は最近、生物進化論やそれを取り入れたシステム論などに関心をもって、理工系の研究者とも対話する機会がありますが、その対話の中で、知識を一種のエンジリアリング・アプローチ、あるいはエヴォリューショナリー・アプローチでとらえる見方が段々と現われてきていることに気づかされます。わたしはそういった人達に対して、個別な歴史や現実にこんなものがあり、こんなことがおこるという記録、いわば Historiography が基礎にならなければ学問は発展しないと反論しています。

 こうしたことを視野において、理論的な要素を含む歴史がこれからの学問のなかでどのように生きるのか、進化論的なアプローチがどう生きるのかということを話させていただきます。時間がないので結論だけ述べさせていただきますと、人文科学の新しい方法として、知識の研究が進化論的な方向あるいは知識の生態学という方向にいくのではないかと考えています。ここで重要なポイントは次のような点だと思われます。進化論の中心的な問題というのは、たくさん存在する個体が、全体としてpopulation(集団)をつくっている。その集団の中で、個別の主体の差異がなんらかの機構によって選択される。集団の中の個体の差異の発現と、環境の中での選択機構とがあわさることで、集団の全体の特性あるいはパターンが変わっていくという形で進化論的なプロセスが進行するというのがダーウィニアンというか進化論的な方向のポイントであると思います。

 このような見方は、ある典型を内在的に理解しつくすという内在的アプローチとは異なるものです。この場合に重要なのは複数の主体が全体という集団をなすわけですから、そこでは当然、個体が子供をつくる、子孫を残す、あるいはコピーをつくっていくようなプロセスが存在します。これは知識の世界でいえば diffusion (普及) というプロセスになるかと思います。これはまた普及であると同時に、他方で環境からも規定されて、創造的な変容がおこる過程です。どういうメカニズムによるかは知識の特性によって連うでしょうけど、一方での普及と、他方での環境の中での創造的な変容が大きな役割を果たしていくのだと思います。

 アナロジーを怖れずにいえば、メディアのなか、すなわち普及過程における変容をどうとらえるのか。それによって全体としてのパターン(配置)を考えることが、メディア研究、言説の研究によってできるのではないかと考えます。私は最近、日本の戦後の経済学について、経済学者というひとつの集団の特性を見ようと、内在主義的ではない研究をおこないました。その際には、NACSISの経済学文献データや、『経済学文献季報』などのデータを調査しました。しかしデータを数十年とったにもかかわらず、面白い結果が出ませんでした。やはり、全体をまとめた数だけでなく、文献、紀要といったデータのまとまりごとの配置やその内部構成をみないと意味がないという気がしました。もっと文献や論文などの内部の構造を見ていかなければ、refinement の域には達しないだろうと強く感じています。この研究会は、メディアと経済思想史、と「史」がつくわけですが、ヒストリアは同時に雑誌の「誌」でもあります。「史」=「誌」をベースにおいた思想および知識の研究というアプローチによって新しい研究領域を拓くことができるのではないかと考えています。少なくともそういうアドバルーンだけは出していてもいいのではないか。研究者、ジャーナリスト、ライブラリアンなどの架け橋になる形で、新しいタイプの研究会になれば、この研究会は成功するだろうと思います。(拍手)。

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猪瀬直樹(作家)

 猪瀬です。メディアと経済思想史という研究会、これから有意義ではないかと思います。卑近な例でいいますと、たとえばTVに「ここがヘンだよ日本人」という面白い番組がありますよね。普通われわれは、アメリカやヨーロッパとか、あるいは韓国、中国しか見ていませんけれども、あの番組にはアフリカの人たちがいっぱいでてくる。そうするとアフリカにおける経済思想とはなんなのだろう、というふうに考えてしまいますよね。たとえば韓国や中国の人たちは、日本をいつまでも追及する。戦前の行為をもって追及するわけですが、アフリカの人たちは、われわれはヨーロッパに対して追及したことはない、どうしていつまでも追及するんだというわけです。

 そういう風に、それだけ世界中の色々な考え方は、だいぶわれわれの固定観念とちがうわけです。あの番組にはオリンピックの参加の数だけ外国人が来ているわけですが、そういう意味で経済というものも、結局人間にもとづいて経済活動があるわけですから、あの番組のように、ワールドワイドに考えると、実に色々な人間、民族、そして様々な思想が存在し、経済活動のあり方も多様性をもっているといえます。

 われわれのいままでの経済思想史の研究というものは欧米中心で考えてきたわけですけれども、欧米の経済思想では、たとえば日本の場合を考えても、アジアの果てで経済成長して、世界で1,2位を争う経済大国になってしまった、これを経済学的に説明するのは難しいことだと思われます。そんなことをつらつら考えています。

 たまたま最近『マガジン青春譜』という本を書きました。これは明治の終わりから大正時代を中心に活躍した大宅壮一、川端康成、菊池寛の物語です。題名のマガジンとは雑誌のことです。たとえば僕は作家ですが、雑誌があってはじめて作家という活動が成り立つ。しかし、いままでの既存の文学史ですと、原稿料がいくらであったかさえもよく書かれていない。そのような面と、作家が制作する上でのモチベーションがどう関係するのか、ということを考えています。

 雑誌の歴史を調べると、明治時代に博文館という大きな出版社が登場する。実は尾崎紅葉の『金色夜叉』にでてくるお宮と寛一ですが、お宮は他の金持ちの男、富山唯継と結婚するわけです。「富の山を、ただで継ぐ」というわけです。この富山唯継のモデルになったのが、博文館の二代目でした。富山唯継は、三百円の金剛石(ダイヤモンド)の指輪をしているわけですが、それだけ当時の出版産業が儲かったことを、『金色夜叉』は教えてくれます。そんなことを考えると、今のインターネット時代の意味もみえてくる。かって新聞というメディアに対して雑誌というメディアが新しく登場してきた。雑誌は、読者を獲得するために、雑誌に投稿欄を設ける。だいたい誌面の三分の一くらい投稿欄で占められていたわけです。そして当時旧制中学の学生であった大宅壮一や川端康成らたくさんの投稿少年らがいて、非常に人気を博して、雑誌の経営が成り立っていったわけです。

 博文館は『太陽』という雑誌を出していましたが、その他に『文章世界』、『少年世界』、『中学世界』、『女学世界』という誌面の三分の一を投稿で埋める雑誌群がありました。そのうちの『文章世界』の編集長が田山花袋です。この『文章世界』の投稿者の中に女学生がいて、弟子にしてくれと手紙を書いてきた。田山花袋は手紙の片隅に、写真送れとか書いたりします。この弟子になった女学生を、『蒲団』という小説の中に書くわけですが、この女学生は恋人ができて、田山花袋のところから逃げていく。花袋は、女の使った蒲団の匂いをかいで、「ああ、おれは淋しい」とかいって泣くわけです。なさけない話ですが、こういった形で自然主義文学が誕生します。その流れが日本の純文学といわれるものなのですね。

 このことは、出版文化のひとつのあり方と非常に大きくからんでくる。今申し上げたのは、新聞に対してそういう双方向性をもつ雑誌というメディアが登場することによって文学というものが始まっていく。さらに大正から昭和になると、円本ブームがあって、普通の家にもたくさん本が入っていく。大正十五年の終わりに、若い大宅壮一は、「文壇ギルドの解体期」という論文を、雑誌『新潮』に発表するんですが、その中で文壇は市場化の波に洗われていくんだよ、ということを予言して、実際にそうなっていく。

 この新聞一雑誌のアナロジーは、放送一インターネットにもあてはまります。放送というメディアは、民間放送でも公共の電波の利権をもらっているわけですから、ある種の特殊法人としてやっているわけです。そういう放送というものが、近頃、通信、特にインターネットというメディアに吸収されていく可能性がでてくるわけですね。インターネットとという世界から新しいビジネスチャンスがでてくる、メディアが新しいビジネスをつくっていくことがあるわけです。新聞から雑誌に移る過程に文学の発生があったわけで、放送から通信、インターネットに移行していく過程で、新しいメディア現象、ビジネスチャンスが生れてくるということが考えられます。そう考えていくと、アナロジーでとらえられるところもあるし、未知の世界が待ち構えているといえるんじゃないかと思います。

 そもそも今日僕がここに来ているのは、そういったわけでいろいろ雑誌メディアを調べていて、昭和初期に『サラリーマン』という雑誌ができたことを知ったわけです。みなさんサラリーマンという用語をあたりまえのように使っているわけですが、サラリーマンは和製英語です。Salaried man ですからね。サラリーマンが日本の高度経済成長を支えたとしたら、サラリーマンとはなんぞや、と考えたわけです。終身雇用制、年功序列制というひとつの日本最大の宗教ですが、それが崩壊しかけているわけですが、そういうサラリーマンとはなんぞやという問題を持ったわけです。

 その昭和初期の『サラリーマン』に非常に興味があって、その戦前の版元だった出版杜に問い合わせて、偶然、田中秀臣さんと知りあって、いろいろ人間関係をつくるうちに今日こういう会に出席することになったのです。今後この分野はさらに広がっていくと思います。これから皆さんと一緒に勉強していきたいと思います。(拍手)。

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最終更新日付:00.6.22 3:00 PM


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