老人介護についての個人的HP-5 思索 - (11)「できる」と「している」3

「できる」ということと「している」ということ〜3「愛情確認としての甘え」;薫風本舗さんとのお手紙

薫風本舗さんからのお手紙------------------------------------

はじめまして。HPを拝見しました。

わたしは、・・現在は77歳の父の世話をしています。

じつは、HPの「できること」「やること」「できないこと」「やらないこと」の点で、わたし自身とても悩んでおります。この、「できることをやらないでいて、家族にやらせようとする」ことが、私たち夫婦に耐え難い心の不安定・屈辱感・脱力感をあたえてくれるので、ホトホト疲れ果てています。

父の生い立ちをひもといてみますと、どうも昔は「庄屋」のような家だったらしく、平たくいってしまえば「おぼっちゃん」「お殿様」的に育てられたようです。わたしが小さい頃、よっぱらって機嫌の良くなった父が大声で「良きにはからえっ」と叫んでいたのを、ふとんをかぶって震えて聴いていた記憶があります。そんな育ちの父だったので、自分自身にはとってもだらしなく、他人にはとても厳しい人格ができあがりました。

老いていよいよその基礎の部分が露呈してきたというわけでしょうか。紙おむつを膝近くまでずりさげたまま人の前に出る。(これは同情を得るための計算ずくの行動なのか?)ボタンを掛け違っているのも、ボタンが無いからだとかほかのせいにする。客がくれば、自分がいかに重病かをとくとくと述べる。(最近は、ストーマをわざわざ人に見せびらかします)着替えなどは何の支障もなくじぶんでできるのに、やらない。うんちが服やシーツについていても平気でいる。昼夜逆転していて、夜中便所と台所を2〜3時間往復をくり返す。味覚障害・摂食障害(過食)がみられる。いささか、ボケがきたんかいな?とおもわせる行動が多くなってきましたがけっこう頭はしっかりしています。嫁いだ娘に電話をかけることもできますし、杖を忘れた・・といって二本足でスタスタと取りに戻ったり、昨日のことも覚えています。

「じぶんでできること」を「しっかりじぶんでする」ようにするにはどう、し向けていったらいいのでしょうか?こんなオヤジを変えることはできますか?それともこちらが折れるべきですか?なにかしらアドヴァイスをいただけたら幸甚に存じます。

私からの返信------------------------------------

薫風本舗さま、はじめまして。

 お手紙を拝読して、自身のHPの再更新の必要性を強く感じています。閲覧いただいたページには、この手紙に書くような事柄が一切触れられていないからです。

 まず、不遜なのは十二分に承知しておりますが、お手紙を読んで思わず微笑んでしまいました。薫風本舗さまの文章があくまでも明るく表現されていることもありますが、同時にお父さまのご様子が実に生き生きと表現され伝わってまいります。もちろん、これは第三者の無責任な感想で、当事者さまにおかれてはそのストレスは、いかばかりのものだろうか?と推察いたします。また、HPの介護月報の方も全部目を通させていただきました。このお手紙のテーマだけに限らず、非常に深淵なテーマが日常生活の様子の記述の中に散見されますね。

 「できる」ことも「やらずに人にしてもらう・させる」という場合の原因として、私がHPに既にあげた「経済的な(社会的な)役割を既に終えられている」「身体的な予備力が低下している(できるけれど余裕が無い)」「もう年だから・・」という気持ち、「喪失の加重体験による悲嘆」などのほかに、もっと大切なのがありました。それは「愛情確認としての甘え」ということです。

 介護を受ける方々の態度は、時に極端な形をとることがあります。極めて尊大な態度で「介護してもらって当然、回りの人が自分のために苦労しても当然」という態度が見られることがありますし、反対に「こんなツマラナイ、もうどうにもならんヤツのことは放っておいてください」と極めて卑屈な態度が現れることもあります。そして両者とも、「できるくせにしない」という傾向があるのは共通しています。お父さまは前者に近いもの(そのものではありませんが)を感じます。そして同時に、後者の態度の要素も混在して見られるようです。

 これはつまり、「介護・介助をどう受け入れるか?」ということであり、「人の手を借りなくてはいけなくなった自分をどう受け入れるか?」という問題です。もっと抽象的に言えば「老いをどう受け入れるか?」ということでもあります。つまり自らの老いをうまく受け入れられない時、「自分は王様のような扱いを受けて当然の立場」と対応するか、「自分はいかにも重病者であって庇護されて当然」と対応するか、ということになります。そう考えていれば、「介護を受けても当然であって、人の手を借りなければいけないという嘆かわしい状況に対しても、嘆くことも負担に思うこともしなくて良い」という“解決”が得られますね。(本当は、老いの当然の姿であって、嘆かわしいことでも何でもないのですが・・)尊大な態度も卑屈な態度も、実は同じ心性の現れ方の違いである、ということになります。

 そして、そのような自分に対して回りの人がどういう態度を見せるのか?それが本人さまにとっては大きな問題となります。できることも自分でせずにしてもらおうというのは、「本当に回りの人が自分のことを見捨てずに、自分のことを気にかけ手をかけてくれるか?」の確認作業という面もあるに違いありません。それが「愛情確認としての甘え」ということです。今、手をかけてくれるからといって安心はできないはずです。なぜならこの先、今よりももっと自分がダメになっていくかもしれないことを分かっているであろうからですね。「今よりもダメになっても見捨てられないだろうか?」という不安はどこまでも残るはずです。となると、「してくれ」要求はどこまでも際限のないもの、となってしまいがちです。

 本人さまのそういう心性に、ご家族の「リハビリ的立場」からの「できることは自分でやりましょう」という意向がぶつかると、事態はいささか面倒なことになりますね。

 では、どう対応すれば良いのでしょうか?もちろん、明快な答えはありません。でも、↑のような「理解・解釈」をしてあげられれば、対応を考える一助にはなると思います。

 「できることは自分でしましょう」というのは、当たり前のことのようでいて結局「頑張れ!」ということです。リハビリの先生が、ご家族ご本人さまにそう「指導・教育」する事柄なのですから、「当たり前のこと」ではなくて「頑張って実現」できることなんですね。では、ご本人さまに頑張ってもらうためにはどうしたら良いか?ということになります。それにはまず、上記のご本人さまの心性・不安がある程度解消され満たされなければいけないでしょうね。

 まずは目一杯、よきにはからってあげたらいかがでしょう?夜中に台所で夜食をするのならば、あらかじめ夜食用の食べ物を準備しておく、というのはいかがでしょう?(もちろん、量は常識の範囲内で、でも手をかけてあげたものを)毎日でも、ご本人さまがどれほどの重病人であるかをむしろ積極的に聞き出して、大げさに驚き「そりゃ大変だぁ」と驚いてあげたらいかがでしょう?(具体的には他にも色々なことができると思います)

 もちろん、そんなふうにしたからといって、それで本人さまが満足し自分でしてくれるようになるかどうかは分かりません。(正直言うと、難しいような気がするなァ(^_^; )それでも、少なくとも現状よりは「マシ」なのではないか?と思えます。HPの介護月報にも書かれている薫風本舗さまの信条「できることは自分でしてもらう(もらいたい)」ということと、今のお父さまの態度・心性は、明らかに「対立関係」となってしまっています。「どう仕向けていくか?それともこちらが折れるか?」というお手紙の言葉にそれが象徴的に表れていますね。「対立関係」のままでいて、何か解決の道が探れるかというとそれは難しいし、何より「対立関係」でいること自体が、大きなストレスの原因となります。それよりは・・という訳です。これはお手紙にあった「ご家族が折れる」ということではないと思います。お父さま、息子さんお嫁さん、お孫さんまで含めた「一つの家庭の生きざま」の問題です。「どちらかが折れる」とか「どちらかに矯正を図る」ということではなくて、家庭のあり方そのものを変えていこう、ということですね。

 でもでも、さらに言えば、↑こんな私の文章も「いかにも教科書的だなぁ」とつくづく実感します、HPの「介護月報」を拝読した上では、ですね。こんな教科書的なアドバイスもなんのその、時には喧嘩腰になりながらもこのまま介護生活は続いていかれるのではないだろうか?と、そしてそれも「家庭・家族の持つ力」というものかなぁと、そんな気もいたします。・・・

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