老人介護についての個人的HP-5 思索 - (12)「白衣の天使」という言葉の落とし穴

「白衣の天使」という言葉の落とし穴

 あるHPで、こんな述懐を見かけました。

「お母様の(介護の)時には喜びもやりがいもあったけれど、お父様相手だと腹がたったりして、そういう自分に落ち込んでしまう。」「私の福祉にかける情熱はこんなものだったのかと情けない・・」

 いかがですか?良く分かるような気もしますね。でも私は、実はこれが「介護を難儀くする原因の一つ」だと思っています。

 つまり、お母様への介護の時は(きっとうまくいくこともあって)やりがいなりを感じられたというのは、「福祉とはこうあるべきもの」とか「介護(関係)とはこうあるべきもの」というイメージが、まず前提にあるということだと思います。分かりやすく言うと、介護者は思いやりと愛にあふれ、被介護者は感謝しつつも精一杯頑張る。福祉・介護とは、そういう人間愛に溢れた素晴らしいものである(べきである)、というイメージですね。これは、看護・介護職員さんが「尊い仕事、偉い仕事」というイメージで見られ、看護婦さんのことを「白衣の天使」などと呼ぶのと同じことです。

 しかし、実際にはそういうイメージを強く抱いている方ほど、介護に負担感を強く感じるものだし、うまくいかない・・、と悩むものではないか?と思います。つまり、介護とは「生身の人間同士のぶつかり合い」であって、時には争いもおこるし反目も生じる、そんな泥くさいものだと思うのです。最近気づいたのですが「介護者と被介護者の関係」というのは、「夫婦関係」と似ているのではないか?と思います。世の中には色々な「夫婦」がいますね。単純に表面的にも、仲のよい夫婦も仲の悪い夫婦もいます。そしてなにより、自分たち夫婦が人間の持つ「愛の表現体」そのものであって傍目からも「美しい」夫婦である、なんていう自覚を持っている人は(ごく新婚さんを除いては)いないでしょう。むしろ、思いっきりドロドロした人間関係であって、努力でもって継続されるのが普通の「夫婦関係」だと思います。

 介護も同じことであって、ごく最初は「美しく」始められるかもしれませんが、(新婚気分が長続きしないように)それでは長続きしませんね。どんな極悪人であってもイラヤシイ人であっても、そして自分でできることでも人にやらせようとするような人であっても、相手をしていかなければいけないのが「介護」です。決して「尊い」とか「美しい」とか「素晴らしい」とかいうことではありません。そういう割り切り、発想の転換も必要だと思います。そういう割り切り・発想の転換ができて初めて、例えば前ページの「愛情確認としての甘え」というようなことが見えてくるのだと思います。例えばそういうことは、無意識のうちにも「本来は介護を受していることに感謝されて当然なのに、どうしてこの人はできることも人にやらせようとするようなイヤラシイ人なのだろう?」という気持ちのうちには、気づくことは難しいのではないでしょうか?

 だから、時には喧嘩があってもよいと思いますし、怒りつけることがあってもよいと思います。そして、そういうご自分に落ち込んだりされなくても構わないのです。でも、反対に時にはお互いに心から笑えるような和やかな場面があっても当然ですし、つまりそれは要介護の状態であろうとなかろうと「普通の家庭の姿、普通の人間同士の姿」なんですね。それが「いつもいつも喧嘩・怒りつけ」だと、それは夫婦で例えれば「離婚寸前の夫婦」みたいなものです。それではマズイですね。そして介護者が「介護」に美しいイメージを持っていればいるほど、むしろうまくいかない、ということになります。「言えば、話せば分かってくれるだろう。誠意を見せれば分かってくれるだろう。」という、相手の人間性や能力に期待したい気持ちも分かりますし、そうあって欲しいという願いも分かります。でも、「至誠、天に通ず」ばかりではない、というのが現実ですね。(ちなみに、日本人ほど“至誠、天に通ず”という言葉が好きな国民はいないそうです。他所の国の人は、もっとリアリストで現実的、なんだそうです。)

 でも、だからといって特に「施設職員」の立場であれば、「本気」で入所者と喧嘩をすることは許されません。本気になれば徹底的に相手をやっつけることになるのは明らかです。しっかり自身をコントロールしながらも、「綺麗ごと」だけではなくて時には生身の身体で相手にぶつかっていくような、そんな度量が職業人には求められると思います。

※ 現在、独身・もしくは恋愛中の皆さま、夢をぶち壊すようなことを書いて申し訳ありません。m(..)m でも「恋愛結婚7年目の実感」なんです・・。(^_^; ※

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