老人介護についての個人的HP-5 思索- (2) 活動理論と後退理論
活動理論と後退理論という言葉を聞いたことがありますか?あまり一般的ではないと思います。
私がこの言葉を知ったのは、三好春樹氏の勉強会でのことでした。そこで参考資料として配られた文章に出てきた言葉だったのです。その出典は「老人生活研究」という雑誌の昭和61年1月号の巻頭言として載った、当時「奈良女子大学教授」の「森 幹郎」という先生が書かれた『「実年」という言葉』という一文でした。
著作権の問題もあり、その文章を全文転載するわけにはいきませんが、かいつまんで以下に紹介します。
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若い人は「自分が年老いていく」ということを、具体的にはイメージできないようだ。そしてそれは、ある程度年取ってきた人にも共通の姿勢のようである。人は一般に「年取る」ということを拒否したい、忘れていたいという意識があるようである。「老いへの拒否」とも言ってよい。そして、老人というかわりに「熟年・実年」などの言葉がもてはやされている。「いつまでも充実して若々しくありたい。」という姿勢、これはいわゆる『活動理論』と言われるものである。
それに対し「老」という文字は、「年老いて腰曲がり、髪白く、その形貌の変わる」意味を表しているという。エジプトの象形文字でも老人を表す文字は「腰曲がり杖をついた人」の姿である。つまり「年をとる」ということは、だんだんと自立できなくなってくるものだということを教えてくれているのである。これは『後退理論』に通じている。つまり老いを生きるということは、振り返って人生の最も盛んな青・壮年の時代に目を向け、できるだけ青・壮年に近い姿で生きようと努力することではなく、そのような盛りの時期から段階的に離れ、そして死に接近していく時期である、ということを受容するものだ、ということである。
この2つの理論をめぐって1960年代のアメリカ老年学会では大論争が行なわれ、結果的には活動理論が多くの支持を得て、論争は終わった。一方、わが国ではそのような論争も行なわれず、活動理論が自明の理として通用している。
しかし、人は老いに向かって、もう一度この問題を考えてみなければならないのではないであろうか。若き日の私は活動理論の立場に強く立っていた。それは、ひろく老人に対する私の期待であり、また、『私の老後』に対する願いであったと言えよう。しかし今、私は自分の中で、その考え方がかわってきていることを隠さずに言っておかねばならない。
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この文章に出会った後、リハビリテーションの専門家として教育を受けてきた私の中で、確実に何かが変わりました。いわゆる「自立を目指す」に一辺倒だった「価値観」から、とても柔軟な考え方ができるようになったと、自分で思います。
活動理論と後退理論、今は「どちらが正しいか?どちらが役に立つか?」という二者択一の思考をするつもりはありません。ただ、世の中には色んな価値観があるなぁ、ということを、心底実感できるようになった、とは思います。人間相手の仕事なのですから、「○○であらねばならない。」という思考は通用しきらない場面が往々にしてあるのではないでしょうか?医療や福祉に従事する人は、一般的にとても「道徳的・論理的」だと思います。でも、だからこその落とし穴に陥らないようにしたいと思います。