老人介護についての個人的HP-5 思索 - (23) 越えられない?一線
老人介護の教科書には当たり前のように、「相手の身になって…」とか「理解・受容して…」と書いてあります。でも…
以下はリンクのコーナーでもご紹介しております、華も盛りのケアワーカー“titti”さんのHPの一文です。
『“titti's”ちょっとマジメに…(介護について)のコーナーから:ある利用者に言われてガツンときた言葉。』
『あなたもこの年になってみなさい。あなた方が言ってくれる通りにはなかなかできない。体が言うことを聞かないのだから。
あなた方が、「こうした方がいい、ああするのは体に良くないetc.」言ってくれるのは良くわかる。
私だって、あなた方ぐらいの年のときがあったのだから。あなた方の今の体力や気持ちは多少なりともわかる。
だけど、あなた方は私の年になったことがないでしょう?
あなた方が今の私と同じぐらいの年齢になったとき、やっと、私の気持ちもわかると思う。私も昔はそうだったのだから。
私は怒ってはいないのよ。悲しんでもいないし、あきらめているわけでもないのよ。
でも、あなた方が私の気持ちを本当にわかるようになるのは、50年も60年も先になると思う…。』
ついでに、私がこの仕事についてしばらくした頃、実父(大正15年生)に言われた言葉。
『お前が老人相手の仕事に熱心なのはよく分かる。でも、段々“死”に近づいていく俺の気持ちは分かるまい。いや、分からなくて当然なんだ…。』
…きっと、そうなのでしょう。tittiさんや私や、このHPを覗いてみてくれている皆さんも、どんなに“老人介護”に熱心であっても、きっと本当の意味では目の前のお年寄りの気持ちは分かっていないのだと思います。
反対に、教科書通りに「私は絶えずお年寄りの気持ちを理解した上で介護にあたっています!」と胸を張って主張する方がいらっしゃったら、残念ですが私はその“自信”がとても“恐い”と思います。
でも、「しょせん分かりっこない!」で終っては、仕事に前向きになれませんね。考えてみれば「介護職業者と高齢者の間」だけではなくて、(私と実父のように)「親子の間」でも、(私と妻のように(^_^; )「配偶者同士の間」でも、「別の人間同士が真に分かりあえる」なんてことはあるのでしょうか?その前に、私は私自身のことが自分でよく分かっているでしょうか?大いに疑問です。
ですから、「本当に理解しているか?どこまで分かっているか?」ということよりも、「どれほど“より理解しようとしているか?”」その姿勢が大切なんだと思います。しょせんは自分のことも、相手のことはなおのこと、“分かりっこない”。でも、「分かろう」というところからしか、“人と人とのつながり”は生まれない。だとしたら、そう意識して努力していく他、道はない、そう思います。それは醒めた方からみれば、“偽善”と言われてしまうかもしれません。
そういえば、これまたリンクでご紹介しております『50を過ぎたらパソコンで遊ぼう〜介護にまつわる掲示板「あったかひだまり待合所」』の主、“どれみ”さんも、掲示板を作った当初は「介護の実際なんて知らないくせに、生意気だ。ただの自己満足だ!アナタは偽善者だ!」というお手紙を少なからず受け取ったそうです。初めはいちいち落ち込まれたそうですが、今はニッコリ「ハイ、その通りでーす。私は自分で満足して、自分で“良かれ”と思うことしかできませーん。」とおっしゃいます。
相手の身になるということも、理解し受容するということも、良いこと・良い仕事をしたいという気持ちも、しょせんは客観的に明確な結果・答えはどこにも得られません。自分で分かるのは、「どこまで自分が努力しているか?」「どこまで自分で満足できるか?」ということでしかありません。もちろん、「他者の目・他者の評価」にはいつも敏感でなくてはいけませんが。どちらにせよなんにせよ、「どこまで真摯な態度か?」最後はそれが問題なのだろうと思います。
そして、tittiさんもどれみさんも、その「真摯さ」をお持ちだからこそ、お年寄りからそういう“本音”を言ってもらえ、掲示板は繁盛しているのだと思います。
私がtittiさんのように言われたら…、模範回答じゃあるまいしやっぱり書くの止めよ!(^_^; 皆さんなら、どう答えますか?人それぞれかもしれませんね。
そして実は、インターネット上で在宅介護に苦労されているご家族の皆さまの“本音”を聞かせていただくようになって、職業人として同じような“越えられない一線”を強く感じます。しょせんはご家族の皆さんのご苦労やお気持ちは、私なんかには分かりっこないのですね。でも…