老人介護についての個人的HP-5 思索 - (28) 在宅リハ・介護に臨む自身の「基盤」
G市M保健婦さんへ。お電話ありがとうございました。お久しぶりでしたね。何せM保健婦さんが保健婦さんになる前から私はG市さんへお手伝いをしていたのに、今は○×村の専属となって、やりがいも感じると同時に一抹の寂しさも感じています。その中には確かに、G市さんへの思いもあるんですよ。
さて、お電話いただいたケアマネさんの勉強会について、お伝えいただいたテーマについて私自身が時間をいただけるようならば、大体以下のような内容になると思います。以下の各項目はね、実は既に、出版した本やこのHPの中にバラバラに出てくることではあるのです。が、一つのテーマに添ってそれぞれの関連をつけてまとめてみたのは、今回が初めてです。M保健婦さんなりに一読いただいて、「こりゃ使えそう!」と思ったら、メンバーさんなどにも見てもらって、勉強会について詰めてみて下さい。おおやけの教科書には決して書いていないような事柄ばかり、でも「現場の真実」だと自分では思っています。
私の方は以下のまとめをやってしまった以上、明日にでもお願いということでもOKですよ。それに、↓こんな面倒なことはさておいてもっと具体的な技術論を!ということでも構わんし、何せできるだけのお手伝いはさせてもらいたい、と思います。
ただ、勉強会がボツになっても、せっかくの作業は自分自身のコヤシにもしたいので、以下の覚え書きはHPの中にそのまま収録してしまいます。私自身がお邪魔できなくても、以下の文章を読みやすくワープロ編集〜打ち出しして会員さん方に配布してもいいし、飛び飛びとはいえ長年お仕事をご一緒させてもらったM保健婦さんですから、以下の文章全体を通した私の「気持ち」みたいなものも十分に感じていただけると思います。そんなM保健婦さんに、メンバー皆さんへの「伝達役」をお願いしても良いです。どんな形であっても、現場で行き詰まっている?立ちすくんでいる?メンバーさん方にとって、少しでもご参考になればさいわいいです。
介護保険における、あるいは在宅要介護者におけるリハビリについて〜より積極的に取り組むための基盤〜
○×村在宅介護支援センター 理学療法士 大渕
在宅者のリハビリ、あるいは介護保険におけるリハビリってことを考える時、医療機関のPT・OTがやっているような医療行為としての機能訓練をイメージしてしまうと、一歩も動けなくなります。あの、専門的な医療的な機能訓練を在宅で行なうのには、PT・OTであっても困難な面があります。何せそこは、病院ではなくて家なのですからね。
ではどうしたら良いか?在宅介護の場面にリハビリという考え方を反映させていくことは、確かにPT・OTといった専門職でなくとも可能だと思います。むしろ、医療モデルに染まりきってそれ以外の考え方のできないリハビリ専門職よりも、他の資格を持ちつつケアマネさんをやっている皆さんは、ずっと力になり得る、と、私は思っています。
ただし、そのためには幾つかの「発想の転換」が必要です。それは「医療的なやり方・医療モデルを追いかけなくとも、自信を持って効果をあげる」ために、どうしても必要なステップだと思います。以下に、一見バラバラな3つの項目をあげますが、最後には「在宅者のリハビリ」ということを考える時に、スッと一つにまとまることに気づかれるはずです。では、まずは一点目から…。
(1)目的指向型思考という考え方
介護保険におけるアセスメント〜ケアプランも、医療行為そのものも、実は「問題分析・抽出型思考」という思考パターンをとります。医療や介護だけではなくて、ほとんど全ての自然科学分野や一般経済界での仕事、ひいては私たちが無意識の内に行なう「常識的なものごとの考え方」自体が、そのようなパターンをとっています。つまりは、『常識』なんですね。常識というのは一旦常識になってしまうと、かえって意識できなくなってしまいます。その「問題分析・抽出型思考」というのは以下のような思考パターンです。
1,現状の把握と分析
2,問題の抽出と整理
3,対応策の立案〜実施
4,再評価〜1,に戻る
というような考え方です。
このような思考パターンは、科学的であり、再現性が高く(誰がやっても同じような結果が出る、ということ)、より専門的である、とされています。そのこと自体に異論はないと思います。
ところが、このような思考パターンでは、慢性期障害者や要介護高齢者には「力になれない」あるいは「かえって有害な考え方である」ということが、15年程前からひそかに言われております。慢性期障害者や高齢者は、「問題点が山のように多く」「それらが複雑に絡み合い」「しかも個々の問題ごとには改善が難しい」という特性を持っているからです。そういう方々に問題分析〜抽出で臨むと、「改善不可能な問題点の集合体」となってしまって、「どうしようもない対象」「やりがいのない対象」というイメージを持たせてしまう、というのです。そして、その最もたるのが「医療現場である」とも…。いかがでしょうか?これは「建前」ではなくて「本音」の部分のお話です。
ではそういう方々に対してどう臨めば良いか?その回答の一つがこの項目標題である「目標指向型思考」という考え方です。これは、現状把握も分析もとりあえずさておいて、対象者の全体像として「こんな風になれたらイイナ」ということをできるだけ具体的に強くイメージしてみる。目の前の具体的な細かい問題にはとらわれず、です。そして、その強くイメージされた“あるべき姿”を実現するためにはどういう手段を講じていったらよいか?を考えていく、その途中で障害となる細かい問題があったらその時初めて個々の問題に対する対策を考える、というものです。この場合は、再現性は低くなります。同じ方に対しても援助者によって全然違った援助イメージとその具体的な施策が施されることもあり得ます。ですから、保険制度のような場において、公的なツールにはなりにくいものです。ただし、こういう思考パターンをとると、意外と「こうしたらよいのではないか?」ということが見つかります。
実際には従来の問題抽出型の考え方を無視するわけにはいきません。だけど、それだけでは行き詰まることも、ほぼ間違いありません。私は「両刀使い」でいたいと思います。ケアプランとしてディサービスを使うにしてもホームヘルパーさんを使うにしても、その理由として「家族の介護負担の軽減」とか「家族の休息時間を確保する」とかに理由付けを限定してしまうと、それらのサービス場面の援助内容に広がりがなくなります。例えばディならば、連れてきさえすれば家族は休めるのですから本人はディの場面で「寝かせキリ」にとどまったりします。そこに少しでも「目標指向型」の考え方が取り入れられれば、同じディの利用場面が豊かに広がる可能性を秘めたものとなると思うのです。
(この項目の参考図書)
ダイヤモンド社:ブレイクスルー思考:Gアドラー、日比野省三:1991
中央法規出版:目標思考的介護の理論と実際:大川弥生:2000
(この項目のHP関連ページ)
知識(23)テーラー主義(科学的管理法)からブレークスルー(目的思考型・現状打破)思考へ問題抽出型思考パターンの限界と目的志向型思考の必要性について
(2)プラス/マイナスの価値観
さて、従来の「問題分析〜抽出型」の考え方をするのは“何のため”でしょうか?それは「問題点を改善するため」ですね。つまりは「ものごとをプラスの状態にしていくため」です。さらに言うと「プラスを指向する考え方」といっても良いですね。問題抽出型思考における「短期目標」なんていう考え方はその代表です。細かい改善を積み重ねて、全体の改善を図る、というやり方です。これに縛られると、要介護のお年寄りなんかにはすぐに行き詰まってしまいます。その理由は↑で説明したとおりの「特性」を持っているから、です。そして、問題抽出型の思考を取れば、「そういう見かたしかできない」というのも本当です。
私たちは、とりあえず私たちのそういう常識を取り払って、きっと皆さん本音の部分で感じている「必ずしも改善しない」「あとは死ぬばかり」ということを、もっと表立って認めても良いのではないか?と思います。よく、「現状維持が図られれば…」という言い方をしますが、ちょっとニュアンスが違います。「本当は改善すればそれに越したことはないが、それは無理だから仕方なく現状維持」ではなくて、「ダメになっていくのも人間の姿」と受け入れきってしまうことです。つまり「マイナスを受け入れる価値観」ですね。これは意外と難しいです。テレビで敬老の日なんかに、「いつまでも元気なスーパーじいちゃん」とかが、より好ましい存在として取り上げられるのは「プラスの価値観」以外の何物でもありません。介護保険で言うところの「自立支援」もまったく同じ「プラスの価値観」です。だけど、繰り返しますが「プラスの価値観」だけでは私たちの仕事は必ず行き詰まります。するとどういうことが起こるか?というと、ディや保健事業の対象者にレベルの線引きを行なったり、「プラス効果が上がりそうな方にだけ熱心なサービス」ということになりがちです。そもそも皆さんご自身が、「歳をとること」自体をどう感じていらっしゃいますか?75歳か80歳くらいになった自分をイメージして、それを好ましいと思えますか?その時に片麻痺になっていたり、もしかして寝たきりになっていたらどうでしょう?やっぱり「嫌だなぁ…」と感じてしまうかもしれませんね。私は何も、「諸行無常のコトワリを悟れ」といっている訳ではありません。ただ、常識のようになっている「前進・進歩こそ素晴らしいし目指すべきもの」という価値観だけでは私たちの仕事はどうにもならないということを、理解はしたいと思います。結局それは、確かに世の中を便利にして発展させてきた考え方ではありますが、極めて「狭い価値観」であることも間違いありません。私たちの仕事は「より柔軟さ」を求められているのだと思います。
(この項目の参考図書)
ミネルヴァ書房:森 幹郎:老いとは何か〜老い観の再発見〜:1989
キリスト教図書出版社:「老域論」の新展開:森 幹郎:1995
医学書院:老人の生活ケア:三好春樹:1986
三好春樹:老人の生活リハビリ:三好春樹:1988
(この項目のHP関連ページ)
思索(2)活動理論と後退理論について
思索(3)活動理論と後退理論〜2
(3)家族心理と“全体としての家族”
さてと、そういう世の中の常識的な価値観と、本音の部分との矛盾やギャップに一番苦しむのは誰かというと、間違いなく「家族」です。例えばよく「介護負担」ということが言われますが、多くのご家族にとってもっとも辛いことは何か?皆さんはどう思われますか?腰痛などの介護者の身体的負担や睡眠時間が削られること、そういった具体的?な負担も決して無視はできないのですが、多くのご家族にとって最も辛いことは、「介護場面に映し出される自分自身の醜さ・至らなさに直面すること」と、もう一つは「周りの方々の無理解」だと言います。「周りの方の無理解」これは想像できますよね?主介護者の配偶者、まぁ夫のことが多いわけですが、だんなさんから「ありがとう、ご苦労様」という言葉があれば、どんなに気持ちが救われるか?というお嫁さんは多いですね。同じように主介護者であるお嫁さんの中で「自分の中の魔と向き合う」ことの辛さは、これは実体験した方でないと、本当には分からないもののようです。周りから見ると、「ヒドい!」と感じざるを得ないような「介護放棄」や「老人虐待」も、それが当たり前になってしまう前には、きっとそういう介護者ご自身の悩み苦しみの時期があったに違いないと思うのです。その辛さから逃れるために自分自身の感覚を麻痺させてしまった時にこそ、「介護放棄」や「虐待」が生じるのではないでしょうか?このことは、あまり多くは語られず、文献的にも未だまとめられているわけではありません。でも、きっとそうなのだろうと、私自身は確信しています。
そういう辛さを抱えたご家族に職業者がかかわると、どんなことが起こるでしょうか?「ヘルパーさんや保健婦さんや周りの人から正論を言われれば言われるだけ、責められているような気がする。」これはある在宅介護者さんの言葉です。では、「正しい知識・技術」は伝えなくても良いのか?リハビリどころではないではないか?そんなつもりはありません。こういう辛さ・苦しみを内に抱えたご家族に、私たちが無意識のうちにも「プラスの価値観一辺倒」でもって「問題把握・分析的な思考パターンでのみ」関わった時、そこには大変な事態が(表面的には目立たないかもしれないけど)起きてしまうのではないか?と感じるわけです。ご家族の心のうちに私たちに対して「この人には分かってもらえない…」そういう思いが生じてしまったら、それこそリハビリどころではありませんね。本当に切羽詰ったご家族には、介護援助でも介護指導でも本人さんへのリハビリでもなく、ただ「話しを聞いてあげること」「癒し」が何より必要だということも珍しくないでしょうね。少なくとも私たち職業者が正論を述べることで、ご家族を傷つけていることもあるっていう自覚は最低限必要だと思います。正論とは文字通り「医学的・介護技術的に正しいこと」という以外にも「問題抽出〜分析思考」とか「プラスの価値観」ということも含みます。確かにこれらも、今の時代にあっては「正論」なんですね。
私たちはまず、ご家族を「介護するメンバーの一員」とか、「介護に疲れ、被害をこうむっている立場」というような、お年より本人とあい対する立場として捉えることを止めたほうが良いと思います。ご家族は、介護者であると同時に援助を受ける立場でもありますし、在宅介護という場面において「被害者」であると同時に「加害者」にもなり得ます。それは、介護者とご本人との関係のあり方や主介護者と他の家族メンバーの関係のありようによって、ダイナミックに変わっていきます。ですから私たちは、ご本人と主介護者さんと他の家族メンバーさんと、全部まとめて「一つの家庭のあり方」として私たちの援助対象として捉えなければいけません。リハビリって、要介護のご本人に対して行うものではないんです。その家庭全体がどうあれば良いのか?という「家庭全体のあり方自体の問題」なんです。そんなことがうまい具合に整った時、ご本人さまの状態は、おのずと「改善」に向かうことが多いものです。
(この項目の参考図書)
海竜社:家族だから介護なんてこわくない?!:久田 恵:1999
弘文堂:講座
家族精神医学1家族精神医学の基礎理論:加藤正明他:1982
岩崎学術出版社:家族関係の理論と診断:Wアッカーマン、小此木啓吾他訳:1967
(この項目のHP関連ページ)
基本原則(9)自分の中の「魔」と向き合う、ということ
知識(8)援助対象としての「一つの家庭」ということ〜家族精神医学入門〜
(4)正論(正しい知識や技術)の使い方
さて、「前進・プラス=善」という狭い価値観だけではなく「目標表指向型思考パターン」でもって「一つの家庭のあり方全体」に働きかけることができた時、そこでは「正しい知識・技術」は不必要なのでしょうか?いやいや、そんなことはありません。「柔軟な価値観」「目標指向型思考」「家庭全体への援助」ということができても、「正しい知識・技術」が、援助の具体的な武器として位置付けられていなければ、「単なる見殺し」にもなりかねません。私たちが教科書で学べるような正しい知識・技術は確かに必要です。 ただ、それが「正論の発露」つまり、「前進・プラス=善」という狭い価値観でもって、「問題抽出〜分析〜解決」のための手段として、在宅要介護者をあたかも病院入院者のように家族と切り離して捉えそれどころか心身を部分的に見る道具として「正しい医学的・介護上の知識・技術」を使おうとするのならば、それはおそらくご本人さまにとっても役立たないばかりでなく、かえってご家族を苦しめる原因にもなりかねない、と思います。
そうではなくて、ここまでお話してきたようなことが「援助の基本」として据えられていて、具体的な援助の一部分として「正しい知識・技術」が使われること、もちろん場合によっては「正しい知識・技術」はさておいて、ということも珍しくないでしょうけれど、そんなふうに「正しい知識・技術」を使いたいと思います。評価〜分析〜問題点の抽出をして機能訓練をするのではありません。目標指向型思考をとれば機能訓練ということ以外にも手段は見つかるかもしれないし、機能訓練を行なうにしても極めて具体的な“あるべき姿”がイメージされていれば訓練でどうしたいのか?も随分明確になるはずです。もちろん、そこに同時に狭い価値観や患者観(援助対象観)ではなくて、ということも必要です。
(5)まとめ
いかがですか?ここまでのお話で、「在宅者のリハビリ」ってことについて、少しでもイメージが変わったでしょうか?「確かに変わったけど、これって“介護そのもの”についての話じゃないの?」と感じる方もいるかもしれませんね。ええ、その通りなんです。介護とは別にリハビリがある訳ではないんです。介護のあり方自体が「リハビリそのもの」なんです。それが真実だと思います。
もっとも介護保険においても、「訪問介護」と「訪問看護」と「訪問リハビリ」は、別枠で別計算になっていますね。計算上は「訪問リハビリ」はしていなくても、「訪問介護」だけで大幅な「リハビリ効果?」が上げられれば、介護保険予算も自己負担も少なくて良いばっかりです。胸を張って、「ウチの地域のヘルパーさん達は、十二分なリハビリ効果を上げていますよ!」そう言えたら良いですね。
でも、中にはいらっしゃいますね、「訓練してください」っていう家族やご本人さま。それはそうとして、それが実生活に悪い影響を与えてしまっていなければ、満足できる程度に「専門的な訓練」提供することも良いでしょう。客観的には改善効果は難しいと思われても?ええ、細かい身体機能改善ではなくて、大枠から目標指向的に「今、割高な専門的な訓練を提供することに意味がある」と判断されるのならば、構わないと思います。「訪問してくれるPT・OTがいないけど、ヘルパーや看護婦が訓練ぽいことをするのは、どうにも気が引けて…」いやいや、これも細かい効果はさておいて、ご家族ご本人が「そういう援助をしてもらっている」と感じること自体に意味があるかどうか?が、より大切な視点ですね。もちろん、寝返りのさせ方ひとつ・起立のさせ方ひとつ・移乗動作のさせ方ひとつで「訓練効果」をあげることもできますし、それもぜひ身に付けていただきたい大切な技術です。でも、そういう技術論については、今回のテーマからは外れますので、またの機会に、ということにしたいと思います。
ヒントとしては、やはりADL場面の重視っていうことは言えるでしょう。生活全体の活性度、ということもそうですね。さらに言えば、そういう事柄を通して「一つの家庭の中がしっとり落ち着いていく」みたいなこと、ですね。とりあえず、ADL状況や生活活性度を目標指向的に「より良い状態にしていく」ということ、これは必ずしも「自立度をあげる」ということとイコールではありません。しかしその際にも、上で述べた動作介助についての知識技術や、身体機能と環境に適合した介護機器の適応についての知識なんかも、ぜひとも必要です。いくらでも勉強しなければいけないことはありますね。ただ最後に述べれば、そのようなあまたの一見個々バラバラな知識技術も、それをまとめて活かしていくためには、自分自身の中にそれらをいかしていくための『基盤』が必要だということを強調させてください。例えば今回紹介したお話は、確かに私自身の中の「基盤」と言える部分なんでしょうね。