老人介護についての個人的HP-5 思索 - (31) パラダイム論

半年間考えていたことと、それなり(?)の答え
私は何をしているんでしょう?〜パラダイム論〜

!お知らせ!

 以下のページは、おそらく凄い長文になります。(しかも、文字だけ!)HP全体の中でも“一番”になると思います。(少しでも読みやすく!とは心がけたつもりですが。)そもそも、「私は何をしているだろう?」という自分自身の実存的不安感?(^_^; がきっかけになっているページですが、一応の解決・納得ができたと思っていて、そういうことについてのページです。ちょっと読んでみて興味の沸いた方は、お時間のある時にでもよろしければ…

お詫び m(. .)m

 そんなふうに長い久しぶりの本格的?なページなのに、申し訳ないことに、皆さんの日常の実務には何の役にも立たないこと、間違いありません。(^_^; でも、「私の役割って何だろう?」とか「私は何をしているんだろう?」とか、「なんだか分からないけど、このままでいいのかなぁ…」なんて時に、少〜しは、ヒントになる部分があるかもしれません。

ページ前フリ1

 半年もの間、HPの更新をサボってしまいましたが、その期間中にも「初めてこのHPを見ました!」というメールを複数いただきました。メールをいただくくらいですから、ありがたくも皆さん好意的なのですが、「目からうろこが落ちるよう…」という表現を使われる方が多いです。ふ〜む…

 反対に、実際に介護の現場でお仕事をしている方々に、強制的に拙HPを見せたり内容を押し付けたりしても、例えば「車椅子姿勢にこだわってください!」とかお願いしても、「そんなことはどうでもいーよっ!」という方も沢山いらっしゃるでしょう。もっと別のことで気を使わなくちゃいけない!ということだってアリだとは思います。(とにかく時間内に業務をこなすことが大切!ってのも本当ですよね。)

 さて、このような態度の差って、なんなのでしょう?別に私は拙HPの内容に価値を感じない人を、「間違ってる!」とか責めるつもりはさらさらありませんが、要するに、何と色々なんでしょう!現場というのはそれくらい「幅」があるものなんだよ、色々な考え方や価値観の人がいるんだよ、とまぁ、そういうことなのでしょうが、どうも今ひとつ自分の中でしっくりこない部分があります。えっ?何が言いたいのか分からないって?それはまた↓の方で…。

ページ前フリ2

 このサイトも、開設して5年になろうとしています。今、HPタイトルを眺めなおしても「何でこんなに“気負った”タイトルにしたかな〜(^_^; 」と自分で恥しくて仕方ないのですが、実は当初から自分で決めたタイトルに、ちょっと“違和感”があったのも事実です。つまり、『介護』って言葉ですね。男性用立ち小便器のページなんかは、5年前の一番最初期からあります。例えばこれって「介護の話題・問題」なのでしょうか?

 普通、介護といえば「食事排泄入浴のお世話(援助)」というのが、一番素直なイメージだと思います。だけど、このサイトでは「おむつ」の話題はゼロですね。つまり、自分自身の中で『自分が扱っている様々なテーマと、普通一般の“介護”という言葉のイメージとは、必ずしも一致してない。』という思いがずっとあります。

 だったら別の言葉を使おうか…とも思いますが、もちろん「看護」ではないし、「高齢者リハビリ」と言えばまたちょっと違うような気もするし、最近私は「生活支援」という言葉をよく使いますが、本当はこれだけでは意味が広すぎる?ので、「いわゆる“介護”と呼ばれるところの“生活支援”」と言わなくちゃ、意味が通じません。そんな長い単語も使っていられないので、まぁ仕方なく?「介護」という言葉を(最初から今まで)使っています。この違和感って何だろう?

 そうそう、こんなこともありました。拙HPをリンク紹介してくださっているご紹介の言葉に、「葉っぱが寄り集まって大樹をつくってるかのよう…」というのがありました。ありがたいです。でも、葉っぱが沢山なのはその通りなのですが、「この大樹であるHPの“幹”って何だろう?」と考えてしまったんですね。

ページ前フリ3

 まぁそんな気持ちが最初からあったものですから、H11秋には思索のコーナーに「介護って何でしょう?」という一文を載せています。その中で、『同じ医療福祉分野で仕事をする者同士で色々な話をする時、「あっ!この方とは“思い・感性”が共有できる!」とか、「どうにもこうにもかみ合わないなぁ…」という経験をする…そしてその時、相手さんの資格や経歴はほとんど関係ありません。』と、書いています。その“感想”は今でも変わりません、というか、介護保険時代となって裾野がより広がっただけ、なおさらそういうことが増えてきているような気もします。「介護」がますますアイマイになっていく…

 それとともに、「自分は何をしているだろう?何をしようとしているんだろ〜?」という気持ちも強くなってきました。このまま色々な「方法」や「技術」や「知識」をHPにズララ〜と並べるように揃えていくのは、そしてそれを「うろこが落ちるよう…」と評価していただけるのだったら無意味ではないのでしょうが、やっぱりそれだけでは自分への「何してるん?」の解決にはなりません。

ページ前書き

 で、日々の仕事をこなし、たまにHPを更新したりしながらも、↑こういうことがずーっと頭にあったわけです。(他にも、老健勤務の若いPT/OTさん方から「私は何をしていけばよいのでしょう?」みたいなお手紙を繰り返しいただいたりね。)このお休みの半年の間は、特にずっと引っかかっていました。お休み中のこの冬には、介護支援専門員実務者研修受講生さんに、福祉機器についての資料を15Pほど寄稿させてもらったり、実際の講義を持たせてもらいました。まぁ例の如く、車椅子選択や調整の必要性などを体験してもらいながら訴えたわけですが、その準備をしながらも「引っかかり」はありました。『忙しいケアマネ業務の中で、いちいち車椅子の規格を考察したり調整指示を業者や現場スタッフさんに出したりなんか、していられねーよ!』と言われれば、確かにそうかもしれませんね、としか、お返事のしようがないです。(ケアマネさんたち、本当に、気の毒になるくらいお忙しいんだもの…私はペーパーケアマネ(^_^; )そこで、研修会当日には次のようにコメントせざるを得ませんでした。

…私なりに「ぜひとも必要」と思われる車椅子に関する知識や技術を紹介させていただきましたが、中には「なぜケアマネがこんなことに気を使わないといけないんだ?」とか、「そんな細々したこと、どうでもいいじゃん!」と感じる方もいらっしゃるかもしれません。それは、援助を必要としている人を前にした専門職として、価値観が異なっている/視点が違う/自らの役割や専門性への捉え方が違う、ということです。もちろん、そのどちらかが正解でどちらかが間違い、ということではありません。分かりやすく言うと「よって立つ土俵が違うのかなぁ?」ということです…

 「よって立つ土俵」かぁ…実は、ここまで言葉にしてみて、ようやく見つけたんですね。一般にこの辺りの問題をどう扱っているか?について、ですね。それが、パラダイムという言葉です。ここまでずっと書いてきた自分の中のモヤモヤを、取りあえずクリアにしてくれる概念です。クリアにしてくれるだけで解決してくれるわけではないんですけどね。(^_^;

本文1 このページのテーマについて「パラダイムという言葉/概念」

 本当言うと、「パラダイム」なんて言う言葉を今さら持ち出すのは、恥しいんです。私はこれまで自分の言葉として使ってはきませんでしたが、別に誰も聞いたことのない言葉ではなくて既に広く使われているようですしね。でも、改めてこの言葉の使われ方を俯瞰すると、必ずしも厳密に理解されているわけでもなさそう、という面があります。そこで、自分自身の勉強ノートを書き写すようなつもりで、以下のページをまとめておきます。

 1962年といいますから私が生まれた年ですが(^_^; 、この年に、もともとは物理学者だった科学哲学者であるトーマス・クーンという方が、『科学革命の構造』という本を出版したそうです。そこで提示されたのが「パラダイム」という概念であり、科学的な専門分野の発展のしていき方や基本的な「科学観」に大きな変革をもたらすものだったそうです。このパラダイムという概念を分かりやすく言うと、要するに上で書いた「専門家がよって立つ“土俵”」ということだと、私は理解しています。

 パラダイムとは、「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」です。パラダイムというのは現場の科学研究を先導する具体的指針であって、何がその分野における科学であり、何がそうではない非科学的なものなのかをはっきりと区別するための基準をあたえます。つまり、専門家が「よって立つ“土俵”」ということであり、「自分の“領域”とは○○で、“手法”は□□である。」ということについての、『無意識的な前提となるものです。

本文2 医療のパラダイム

 これだけでは抽象的でよく分からないので、「医療」を例に考えてみましょう。医療という場においては、その目的や対象や手法ということについての共通認識が成り立っています。分かりやすく言うと、医療における『疾病とは何か?という疾病観』『患者とは何か?という患者観』『治療とは何か?という治療観』という認識です。医療におけるこれらの基本的な概念、それはつまり医療現場における「専門職の態度」を決めていくものとなるわけですが、それがどのようなものであるか?皆さんは「言葉」にしてみることができますか?私が作文してみれば、以下のようになります。

 とか、まぁこんな感じです。(厳密に言えば、足りない点があるかもしれません)こういう基本的な概念を前提に、さらに「治療契約」という概念が加わって今の医療は成り立っています。ここまで(おそらく)間違いないですよね?(^_^;

 で、このような医療についての基本的な概念は、実はより基本的な「自然科学の前提」の上に成り立っています。それはそうです、医療の手段である医学は、自然科学の一分野なのですから。では、「自然科学の前提」とはどのようなものでしょうか?

本文3 伝統的な自然科学のパラダイム

 医学に限らず、物理学も数学も、自然科学というものには、基本となる大前提があります。それをキーワード的に列挙すると、

「帰納主義」 「客観的」 「唯物主義」 「数学的」 「機械論的」 「要素的」 「再現可能性」

などに集約できると思います。

 これらの、医学の前提でもあり、より大きく自然科学全体の前提でもある「科学的な考え方」ということが、いつ頃から始まったかというと以下のようになります。高校時代の授業が懐かしいゾ!(^_^;

  1. ベーコンによる経験主義・帰納法の提唱、『事実的証拠による自然の解釈のための新機関(ノヴム=オルガヌム)』 (1620年)

  2. デカルトによる機械論的要素的自然観と数学的方法の提唱、『方法序説』 (1637年)

  3. ニュートンによるプリンキピアでの実践、万有引力理論の確立、『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』 (1687年) ニュートンのプリンキピアが、自然科学研究における「モデル」となっていった。

 医学分野を見てみると、近代解剖学は↑よりも一歩早く、ヴェサリウス『人体の構造についての七つの書』(1543年)に始まりますが、真に帰納的客観的な思考をもって成立した近代生理学の出発点は、ハーヴェイによる血液循環の発見=『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』(1628年)となります。(ハーヴェイが著書名に“解剖学的研究”という言葉を使っているのは、その時点では、まだ“生理学”という概念がなかったから、です。)ベーコンとデカルトの間に、ハーヴェイが挟まれること、つまり同時期であることは、単なる偶然ではないと思います。

 このような17世紀に始まる「科学的なものの見方」が「現在の医療の場における方法論」のおおもと、というか、大前提となっているわけです。このこと=医療のパラダイムや自然科学のパラダイムということは、医療に従事しているスタッフさんにしてみるとあまりに当たり前のこと過ぎて、かえって自覚しにくいものなのしれません。言われてみれば、そりゃそうだよ!という感じでしょうか?私自身がこういうことへの自覚が強くあるのは、PTという資格をとった一番最初から、そしてその後も長い期間、(PTとしては普通?の)医療現場では仕事をしてこなかった、ということが大きく影響しているに違いありません。外からだからこそ、「よく見える」のだと思います。

本文4 この「違和感」の正体

 少し先を急ぎましょう。拙HPに対して「目からうろこ…」と感じたり「どうでもいいじゃん」と感じたりするその差は、要するに皆さんそれぞれの自らの仕事に対する「パラダイムの違い」ということなんでしょうね。↑に「男性用立ち小便器のページなんかは…介護の話題・問題なのでしょうか?」と書きましたが、これってつまり、これまで立ち小便器の形態ということが、従来のリハビリ医療とか看護とか介護とかのパラダイムの範疇には入っていなかった、ということなのでしょう。私が自分自身の活動内容を表す言葉としての「介護」という単語に何となく違和感を感じてしまうのも、「あっ!この方とは思いが共有できる!」と感じられる/感じられない、ということも、要するにこの「パラダイム」ということで説明できそうです。

 ただ、それだけでは「よって立つ“土俵”が違う」という表現を、「よって立つ“パラダイム”が違うんだよ」と言い換えただけです。

本文5 介護のパラダイムとは何か?医療と比べながら考えてみる

 さて、そうなってくると、「介護のパラダイムとは何か?どのようなものか?そもそも、万人に共通した“介護のパラダイム”というものがあるのか?」ということが問題になってきます。本文2〜3で、医療のパラダイムということを考えてみました。それが実際の医療の場をどのように規定しているか?もう少し考えてみましょう。例は何でも良いのですが、介護と比較しやすくて分かりやすい場面となると…

本文5-1 家族ということで考えてみる
 例えば、Aさんが外来受診したとします。Aさんには奥さんが付き添ってきています。受診を希望しているのはあくまでAさんです。でも実は、付き添ってきている奥さんの方こそに、はるかに看過できない治療を必要とする疾患があるとします。(介護している家族なんかでは、よくある話です。)この場合、外来受診場面では、奥さんの疾病はほとんど問題となりません、というか、扱われないというか、その問題の存在は無視されます。医療の対象は、あくまで受診している個人なのですしね。まぁ気の利いた医師なら、奥さんにも一言助言があるかもしれないし、福祉スタッフの方へも「奥さんも援助が必要そうだよ」と連絡をくれるかもしれません。でもそれはあくまで「好意」としてであって、無かったからといって責められる筋合いのものではありません。あるいは、奥さん自身が親切な医師の助言を受け入れずに無視しても、それはあくまで奥さん自身の責任です。治療契約が成立しないところに医療は存在しません。
 同じような場面を介護に置き換えてみましょうか?介護保険契約に基づきホームヘルパーさんがAさんの身体介護に行ったとします。ところが様子をみてみると、奥さんの方も本当ではなくてまともに家事ができていないということが明らかです。こんな時、介護スタッフはどう動くべきなのでしょうか?とりあえず契約内容は「Aさんへの身体介護」なのですから、その場ではそれ以外のことはできませんが、奥さんのことをも援助対象とすべくケアマネさんに連絡をとってみるべきなのでしょうか?あるいは、そういう回りの動きに対して、奥さん自身が家事援助を拒否してきたらどうしましょうか?こんなとき、「介護」はどうあるべきなのでしょう?「こうできたらいいよね〜」みたいな感想はあってもそれは人それぞれだし、『介護というからには、こうあらねばならない!』というような規範となる答えは無いように思えますが、いかがでしょう?

本文5-2
 本文3で自然科学のパラダイムということを考えてみました。「介護も科学」というかけ声がありますよね?「EBC」という言葉もあります。(Evidence-based care、科学的根拠に基づく介護)その場合、介護も医学・医療と同じように、自然科学の大前提にのっとったもの、ということになります。だとしたら、「本文2医療のパラダイム」で示したような医療における疾病観:患者観:治療観に相当する、「介護は“何を援助しようとしているのか?”」「介護で行なわれる“援助とはどのようなものなのか?”」「介護は“どんな人を援助しようとしているのか?”」といった基本的な概念がクリアにできあがっていなければなりません。どうでしょうか?本文2で私が作文したような基本的な概念で、全ての介護従事者が満足できるようなモデルって、あるんでしょうか?なさそうですよね〜?また、それは同時に、「本文3自然科学のパラダイム」で示した自然科学の基本特性を踏まえたものであるはずです。つまり、『介護って、とても「帰納主義」 「客観的」 「唯物主義」 「数学的」 「機械論的」 「要素的」 「再現可能性」なものなんですよ。』ということです。少なくとも、私自身の中の「介護観」とは、完璧に正反対なんですけどね…。(^_^;

本文5-3
 たった二つの例、1:医療と介護における家族の問題、と、2:介護は科学だ!という場合の基本条件、を考えてみても、

 「医療技術の延長線上に、あるいは医療技術の切り売りとして介護があるのではありません。」
「介護は科学だ、とは、今の段階では言えません。」
「また、介護は科学的であるべきか?ということについても、はっきり言えません。」
「介護では、介護自体を規定するパラダイムが、未だ不明確です。」
「介護のパラダイムは、医学や自然科学と同じものではなさそうです。」

とまぁ、これくらいのことは明々白々ではないか?と思えるのですが、いかがでしょうか?

 ↑この5行の個条書き、ちょっと考えてみると怖いですね。「介護に規範モデルはない。=何でもアリの世界です。」「医学や自然科学の方法論では通用しない世界です。=お手本はどこにもありません。」ということです。少なくとも…

中結論1:『介護のパラダイムは、医療や医学のパラダイムとは異なるものです。』
中結論2:『介護では、それ自身を規定する基本的なパラダイムは、未だ未確定である。』

と、ここまでを、本文5までの結論としておきます。言われてみれば当然のことのような気もしますが、「そういう気がする」ではなくて、ここまでの長々した文章で示すように「確かな根拠を持って確信する」ことが大切なんだと思います。

本文6 パラダイムが異なる者同士の間では…

 さて、中間結論を2つ並べましたが、この一つ一つについて、ちょっと考えてみます。まず、介護と医療ではパラダイムが異なっている、という状況について…

 これはもう、このページでも既に触れています。私の個人的な感想=『同じ医療福祉分野で仕事をする者同士で色々な話をする時、「あっ!この方とは“思い・感性”が共有できる!」とか、「どうにもこうにもかみ合わないなぁ…」という経験をする…』ということですね。この現象について、クーンさんは次のように説明しています。


 異なるパラダイムの間では、世界を理解するための根本的な原理が異なっている。競合するパラダイムというのは世界に対する基本的な認識からして、お互いに相容れないのである。よって、(一つの同じ事象を)同一の基準でもって比較することができない。何が問題であり何が問題でないのかについて、互いのパラダイムの間では意見が一致しない。競合するパラダイムの支持者たちは、お互い自らのパラダイムの基準を前提としているために、決して相手の前提を認めようとはしない。それゆえに、相手の議論によって説得されるということはありえないのである。


 この文章を読んだ時には、思わず膝を打ったものです。私の個人的な感慨を、すでに私が生まれた年にはきちんと理論的に説明していた人がいたんですね〜。凄い漠然とした(無責任な?)言い方ですが、まぁ個人的なHPなので書いてしまいましょう。福祉介護職の皆さんが、時に医療職スタッフさんに感じる(らしい)違和感、多分、この辺りの問題です。(^_^;

 では、私たちはどうすればよいのでしょう?まぁ、あまり急がずに…それに、最初にも書いたでしょう?「クリアになっただけで解決してくれるわけじゃない」って。(^_^;

本文7 パラダイムが未確立の場合には?その先にあるのは?

 さて、次は介護ではパラダイムが未確立である、ということについて。

 クーンは、科学発展の経過をパラダイムの観点から次のように整理しています。


◆特定の分野において、未だパラダイムが存在しない状況=「前科学」の状態。

 その時期の科学者は様々な独断的で未熟な理論を打ち出してゆく。それゆえに一つのある現象に対して、多数の理論が競い合うという状況が起こってくる。パラダイムがないゆえに、用いられる観測データに関する共通の基準もない状態。よって、それぞれの科学者が自分の理論こそ科学として正当であると主張する。そこにあるのは、はなはだしい混乱だけだといえる。
 しかしそのなかに「他の対立する科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集める」ような理論が現れることがある。そういった理論が整備されてパラダイムになり、その学問分野は成熟することができる。


 つまり、介護って未だ↑こういう状況なんだと思います。モデルや理論がないわけではありません。介護保険場面に限ってみても、国は国で介護度をPCが打ち出してくれるようなシステムを作りましたし、様々なアセスメントツールもあります。でも、それで全て、のはずはありませんね。また、私自身が基盤として持っている三好春樹氏の介護観、これは「思索の(13)「生活リハビリ」という言」の後半部分が三好論の“真髄”を表現している、と自分では思っていますが、これは伝統的な科学観とかとは、まったく相容れないものです。要するに、「理論が競い合う」「共通の基準(見方)がない」「はなただしい混乱」そういう状況なんだと思います。

 では、医療はどうなのでしょう?既にパラダイムが確立された世界。これについてクーンは…、


◆特定の分野においてパラダイムが確立している状況=「通常科学」の状態1

 パラダイムを獲得したことによって、その分野は研究を進めるうえで一から基礎に立ち返ってデータを集めなおすなどということを繰り返さなくてもよくなる。つまり、正しい道に乗っている、という科学者たちの自信は、彼らがさらに正確で突っ込んだ、骨の折れる種類の仕事に取りかかるのを励ます。それによって、研究はますますに精密になり、その分野の学問に対する理解は深まっていく。それは「パラダイムによって特に明らかにされる事実/知識の拡張や、それらの事実とパラダイムによる予測との間の一致の度合いの増大、そしてさらに、パラダイム自体の整備の過程」と定義される。我々が考えている通常のイメージにおいての「科学」とはこの時期の事をさす。
 つまりパラダイムこそが研究を進めるための何よりもの指針であり、科学者たちが遵守しなければならないものである。よって、パラダイムを放棄するということはその学問分野から撤退するということに他ならない。


 ほーい!私はもしかしたらPTとして「撤退」しているのかもしれません。(^_^; 20年近くも前、まだペーペーだった頃に先輩から、「お前のやりたいことは分かった。でも、PTの資格は捨ててやれ!」と言われたことも、懐かしく思い出します。

 でもね、医学・医療が、↑こういう安泰な世界とは思えない面もあるんです。それはズバリ!「介護の発展(?)」です。『“寝たきり現象”に有効なのは、医療は基盤となりつつも、真に力になるのは「良い介護」』これって既に多くの方にとっての共通認識といってよいのではないでしょうか?

 この辺りの事情、およびそれに続く状況を、クーンは次のように説明しています。


 「通常科学」の状態に於ても、時々既存のパラダイムでは扱うことができない、つまりパラダイムから導くことができない様な事実が現れることがある。それは「変則事例」と見なされる。その変則事例を何とか解決しようとした時間に比例するように、パラダイムに対する疑惑の念が生まれてくる。こうして変則性の認識が科学者間に深く浸透していくことによって、その分野は「危機」と呼ばれる状態になる。

◆パラダイムの危機が高まった状況=「異常科学」の状態

 科学者たちはその変則事例を解決しようとして、おのおのが様々な方法を考案しては既存のパラダイムを修正したり、再整備しなおそうとする。そのためにパラダイムの定めたルールは徐々にゆるいものとなり、パラダイムが何であるかという意見の一致さえもなくなっていき、終いにはパラダイムそのものを疑うようになっていく。…そして、場合によっては、既存のパラダイムとは大きく異なる革新的なものが生まれてくる。これは通常科学においては決して起こらない現象であり、危機が醸成されてこそありうるべき事態なのである。

 このような革新的な理論に到達できるのは、ほとんどが非常に若いか、その分野に新しく入ってきた科学者である。というのも、それらの人々は既存のパラダイムによる拘束の影響を、それほどまでに受けていないからである。パラダイムの変換/革命は、その科学者集団における集団的同意によってなされる。そして「科学革命とはパラダイムを変えねばならね人たちにだけ革命的に見える」。


 今の介護は、確かにそれ自体のパラダイムは未確定ですが、反面確実に医療・医学のパラダイムに「動揺」を与えています。そしてそのような方面からも、今の医療は大きな反省と変革を求められている(らしい)ことは、衆知の通りです。

 でも、それは小手先の「医療制度の改善」とか、「医療者の、患者に対する態度を気をつける」とか、「治療についての十分な説明をしないといけない」とかいうレベルのお話しでしょうか?どうも医療の抱える問題は、特に「高齢者医療とはどうあるべきか?」という点については、「自らのパラダイムの変革」を必要としているくらいの大きさをもった問題のように、私には思えます。基本的な医療観/根源的な科学観にまで、反省の目を向けないといけないのではないか?それが私個人の『感想(^_^; 』です。でもね、深刻なのは、「科学革命とはパラダイムを変えねばならね人たちにだけ革命的に見える」ということなんですね。きっと、医療の中にどっぷり浸かっていれば、かえって見えないものなのかもしれません。

本文8 パラダイムを作っていくということ

 こう考えてくると、「どうするべきか?どう考えるべきか?」ということが見えてくるような気がします。「ページ前書き」の部分で、ケアマネ実者研修での私の講義コメントを紹介させていただきました。あれには続きがあります。それを、収録しておきます。

…分かりやすく言うと「よって立つ土俵が違うのかなぁ?」ということです。

 この「よって立つ土俵」のことを科学哲学者のトーマス・クーンという方は「パラダイム」と呼んでいます。そして、パラダイムの異なる者同士の間では、議論は成立しないし、同じ現象を見てもそれを認知するか?どのように感じるか?は全く異なる、と述べています。
…一つのケースについて病院の医療スタッフさんと施設の福祉介護スタッフさんの間で話合いなりが行なわれるような場面で、クーンの言うような食い違い/すれ違いが生じてしまうことはないでしょうか?また極端な話、同じケアマネ同士でありながら、ベースが医療職か?福祉介護職か?でもって「ケアマネとしての個性」を超えてしまい食い違ってしまう/すれ違ってしまう、ということが、決して起らないと言えるでしょうか?繰り返しますが、パラダイムが異なっていれば同じアセスメントツールを使っていても食い違いは生じ得ます。

  しかしだからと言って、看護職・PT/OT・介護福祉士・社会福祉士としての専門性をないがしろにしてもよい、ということでは決してありません。私たちに必要なのは、医療職・福祉職という自らの専門を踏まえた上での、同じ介護支援専門員としての共通のパラダイムを作り出し、共有していくことだと思います。今回は今現在、看護職さんからも介護職さんからも見逃されがちだと思われる車椅子についての具体的な話題を提供することで、実務に役立てていただくと同時に、以上のような介護支援専門員としてのパラダイムを作っていく作業の第一歩にでもなれば、と考え、資料作成を引きうけさせていただいた次第です。…

 この文章の、「介護支援専門員としての共通のパラダイム」という言葉を、そっくり「高齢者介護のパラダイム」という言葉に置き換えても構いません。長々とページを作ってきた割には、「こんな抽象論が結論かよ?!」という気がしないでもありません。

 でもね、こんな根源的?な問題に、簡単具体的 How to 的に、「こうすれば良い!」みたいな答えがあるわけはない、とも思いませんか?少なくともここに至って、「前フリ1〜3」のような自分自身の中でのモヤモヤは、随分スッキリしたんですね。

 『拙HPは、個々の話題を取り上げながら、介護のパラダイムを作っていくことを最終的な目的としています。』

 …へへ、書くだけなら「タダ」だからねぇ…(^_^;

 その際には、タダの思いつきで終わってはダメです。とりあえずは、現場で具体的なことに悩み思いつき動いてみるわけですけど、結果が良くても上手くいかなくても、それでお終い、ではなくて、自分がやったこと一つ一つについて、「未だ不明確な介護のパラダイムにおいて、どのように位置付けられるものなんだろう?」とか、そういう積み重ねから、医療における疾病観:患者観:治療観に相当する「介護は“何を援助しようとしているのか?”」「介護で行なわれる“援助とはどのようなものなのか?”」「介護は“どんな人を援助しようとしているのか?”」といった基本的な概念を作文してみる、というような作業を、絶えず同時作業していくことが(最低限、自分にとっては)必要大切なんだと思います。

 このページ内で、とびとびの形でケアマネさん実務者研修での私の講義内容を一部引用紹介させていただきましたが、メッセージ性が低まるなァと感じますので、別ページでこのテーマに関する部分を全文、紹介しておきますね。よろしかったら、飛んでみてください。ケアマネ実務研修での、最後の締めの部分をそのまま収録しておきました。→『ここ!』

本文9 パラダイムの断絶を前にして私たちが取るべき態度

 さて、ケアマネさん実務者研修会では、↑『ここ!』のメッセージが全てで、このページのように細かく詳しく説明したわけではありません。それでもピーンと伝わった方はいらっしゃるようで、講義終了後に

『パラダイムの違いがあるときには、どうしていったらよいと思いますか?』(おそらくは、医療職と福祉職間のことを言ってるのでしょう…)

と個人的に質問をいただきました。う〜ん、正直言うとそこまで考えていなかったんですけどね…。(^_^;

 すでに書いたとおり、『競合するパラダイムの支持者たちは、お互い自らのパラダイムの基準を前提としているために、決して相手の前提を認めようとはしない。それゆえに、相手の議論によって説得されるということはありえない』のに、少なくとも相手方は『私とあなたのパラダイムは違っている』ということへの自覚すらないのです。さて、どうしたらよいのでしょう?

 苦し紛れにお答えしたのは、

『あなた自身のパラダイムはどのようなものであるか?自分の役割や領域や方法論といったものがどのようなものであるか?についての“自覚と反省”を絶えず持つようにしてください。何でも引き受ければよい、ということではありませんが、反対に「これは介護の仕事ではない」とか、「契約にはない」とか、簡単に結論付けないでください。そして、相手のパラダイムがどのようなものであるか?を、非難するのではなくて、じっと観察してみてください。パラダイムの断絶により生じる“すれ違い/食い違い”に、いちいち感情的にならないでください。』

 ということです。そうすれば、じっくり自分自身も変わっていけるし、断絶のある相手にも何か伝わるかもしれないし、結果として、時間をかけてでも、事態は変わっていくかもしれません。(ほんとかな〜(^_^; )


 さて、ようやくこの辺りで、「本文主題」は終わりです。ここまでぶっ続けで読んでくれただ方、いらっしゃいますか?ご苦労様です。(^_^; よろしければ、ご感想などを聞かせてください。でも、これでお終いではありません。これだけのテーマですので、派生する話題があります。それを以下に、メモっておきます。項目題名をご覧になってみて、関心のある方はどうぞ。
 とりあえずテーマは2つ。「真に従来どおりの“科学的”であろうとするならば…」と、「
介護は科学ではあり得ないか?」です。

派生話題1 真に従来どおりの“科学的”であろうとするならば…

 ここまでの論をお読みなって分かる通り、私自身は「介護は従来通りの自然科学観がそのままで通用する世界ではない」と思っています。(本音を言うと、高齢者に対する理学療法・作業療法や、高齢者医療そのものだって、そうじゃないか?と思います。)

 でも、中には、「いや、介護だって医学に引けを取らない、従来どおりのパラダイムに即した立派な自然科学の一分野に育ててみせる!」という方だっていらっしゃるかもしれません。(PTやOTだって同様ですし、そういう立場が“間違いだ”とは、(これは心底)言うつもりはありません。)そういう方のために、改めて「科学的とは?」ということについて、付け加えておきます。

 科学的であろうとするならば、本文3でまとめたとおりの「自然科学の流儀」といったものがあります。絶えずそれを忘れずに、そのパラダイムにのっとっていかなければいけません。まずは、それが最低限。

 でも、今はそれだけでは不十分です。現代における「科学的である」という概念には、本文3のような数百年の歴史を持つ伝統的な考え方以外にも、「現代的な」考え方が必要とされています。

 それが、「反証可能性」という概念です。これは、カール・R ・ポパーという方が、1959年に「科学的発見の論理」という著作で体系立ててみせた概念、ということらしいです。

 まず、科学的手法の根本である「ベーコンさんの帰納法」には、限界があることを自覚しなければいけません。なぜなら、帰納の原理が全ての場合において上手く働いていると言うために、個々の場面において帰納の原理が上手く働いているということを当の帰納の原理を用いて推論しなくてはならないからで、これは明らかに循環議論であり、この論証は無限後退へと陥る、からです。つまり、帰納法は正しい方法である、と言うために帰納法を使うのは、無理があるし、かといって、それ以外の方法はない、ということです。
 この限界を強く自覚し、別の方法を示したのがポパーさんであり、その方法が「反証可能性の検討」ということです。

 反証可能性については、私自身の言葉で詳しく述べるのは止めにしておきます。(あんまり自分で使おう、という気もないから…(^_^; )それよりも、この反証可能性ということについて、実に上手く説明しているサイトを見つけましたので、それを以下に紹介しておきます。


 パフォーマンス・マネジメント研究会さん http://pm.soc.or.jp/study/study_12.html より

では、反証可能性とは何でしょうか。

 まず、反証とは「ある仮説が間違っているということを、テスト命題が間違っていることにより証明すること(否定否定式)」を言います。正確にいうと「真であるはずのテスト命題が偽であることが示されたなら、仮説が偽であったことも示される」(森田、2001)ということです。

 具体例で説明すると、「部下の営業成績を上げるには研修に参加させればいい」という仮説を聞いたAさんがこの仮説に対して反証をするには、実際に部下を研修に参加させ、そのことにより営業成績が上がらないのを確認できればOKです。

 よって「部下の営業成績を上げるには研修に参加させればいい」という仮説は反証可能性を有しているため、科学の対象となり得ます(ただし、その仮説が正しいかどうかは別問題です)。

 反証可能性は、逆に反証可能でない仮説を考えることによりより明確になります。

 例えば、「部下の営業成績を上げるには、部下が毎日営業の神様にお祈りすればいい」という仮説を聞いたAさんがこの仮説に対して反証をするには、現代の科学をもってしても無理かと思われます。なぜなら、営業の神様の存在が証明できないからです。ところで、営業の神様にお祈りしたら、なぜか毎回契約が取れたと仮定します。 しかしこれは単なる相関関係に過ぎません。相関関係と因果関係は明確に区別されます。しかし、心理学もどきでは、この相関関係を統計処理して有意差が出た、などという場合があります。(要注意!>大渕)

 よって、「部下の営業成績を上げるには、部下が毎日営業の神様にお祈りすればいい」という仮説には反証可能性がないことになり、科学の対象とはなりません

 以上、科学と非科学を分けるための基準としての反証可能性を見てきましたが、科学的な理論であるためには、反証可能性を有していながら、実際に反証されていないことが必要となります。

 つまり反証可能性があるということと、実際に反証される(された)ということは明確に区別されるということです。

 具体例には、「地球は丸くなく、世界の果ては滝のようになっている」という命題は、長距離の航海が可能な船を作ることができない時代には、反証可能性がありませんでした。そして、長距離の航海が可能な船を作ることが可能になった時点で反証可能性を有しました。この時点では、この命題は反証可能性を有し、実際に反証されていなかったため科学的な命題でした。しかし、大航海時代の到来により、マゼランが世界一周をした時点で、この仮説は実際に反証されてしまい、科学的な命題でなくなりました。


 「科学的」であろうとするならば、自らの実践や理論や考え方みたいなものが、このような条件を満たしているか?絶えず自問していかなければいけません。つまり、「反証可能性を有しながらも反証はされていない、されない。」という条件ですね。今の、理学療法士学会や福祉施設大会での「研究発表」は、どうでしょうか?

派生話題2 介護は科学ではあり得ないか?

 これは繰り返しになりますが、このページを一読すると、私は「介護は科学的ではあり得ない!」と主張しているように読めるかもしれません。そうですね、厳密に言うと、少し違います。伝統的な自然科学のパラダイムに沿った、という意味合いでの科学的には、なり得ない、とは思います。

 こういうもって回った言い方をするのは、伝統的な科学観(それに、↑のポパーの反証可能性という概念をプラスしても良いですが)には即さない、別の「科学観」というものがあるから、です。

 その一つの例は、すでに拙HP内でも紹介しています。(長崎県OT士会さん公開講座の一部)具体的に言うと、現在の物理学は、とっくに本文3のような「伝統的な科学観」の世界のはるか先まで行ってしまっています。量子力学における不確定性理論の世界ですね。詳述はしない(できない(^_^; )ですが、要するに量子力学:不確定性理論は、100%の「客観的」ということはあり得ない世界です。例えば「光=ひかり」は、観測する方法や観測する人の立場によって、「粒子」のようにもふるまうし、「波」のようにもふるまいます。では、「ひかり」の本質・実体は「粒子か?波か?」という議論は、成り立たない、というか、意味がありません。観測者が(光学プリズムなどで)「波」として扱えば「波」だし、(CCDチップなどで)「粒子」として扱えば「粒子」だ、と、「それが実体だ」ということです。要素論や客観性といったことが崩れてしまっている世界です。

 これは、伝統的な科学観を突き破る形で科学が発展してきている一つの例です。しかし、それとはまた別に、本文3で説明したような「伝統的な自然科学観」と同時に生まれて発展してきている、「別系統の科学観」というものがあります。それは、あの「若きウェルテルの悩み」の作者、文豪「ゲーテさん」が創始者であるところの、「形態学」morphologyという学問であり、科学体系です。morphologyにおいては、自然を要素的には扱いません。全体としての自然をそのまま扱います。また、客観と主観を区別しません、というか、何かを主観として感じている私自身をも、自然の一部、科学対象の一部とします。具体的には、そうだなぁ、エコロジーの考え方や精神分析学(そこでは“検査・評価データ”という言葉は使わず、“解釈”という言葉を使いますね。)に、morphologyの概念に基づく発展が見られる、と私は思います。

 ここから先は、まだ勉強中です。(^_^; ただ、ゲーテさんの「形態学」morphologyという概念にこそ、介護はうまくはまり込むのではないか?と、感じています。つまり介護は、morphologicalなものとして科学的なものではないか?と思っています。あとはまた、区切りのいいところまで勉強がすんだらまとめてみたいと思います。

●最後に

 ここまで書いた派生話題以外の部分について、似たようなことを書いている人がいるでしょうか?もしも参考になりそうな文献なり概念なり人なりをご存知の方がいらっしゃたら、ぜひご教示ください。

 それから、以上書いてきたことすべて、「誇大妄想」の可能性もあります。「半年もかけて、こんなこと考えてたの?暇だねぇ…」と言われても仕方ないか?とも思いますが、とりあえず、自分の中でそれなりの納得がいきましたので、よしとします。(^_^;

 また、こんな長文な抽象論を載っけて、「何だかコイツ、ずいぶん遠いトコロへ行っちゃったなぁ…」みたいに感じる方もいらっしゃるかもしれませんね(^_^; 。大丈夫です。↑こんなことを一つの区切りとして内に秘めながらも、これまで通り現場で色々やりながら、これまで通り随時その実践をこのHPに報告していく所存です。これからもよろしくお願いします。…さて、もう一つ、宿題が…。(^_^;


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