老人介護についての個人的HP-5 思索 - (33) 職業者にとっての「宗教心」ということ

医療・福祉に携わる者にとっての「宗教心」ということ
〜より良い援助者であるために〜

 

コーナートップへ ◆HPトップへ ▲総目次へ


1:はじめに、なぜこのようなページが必要か?

 直接的には、掲示板でXL223さんが『職業者は少しでも「相手の身」になって仕事をしてほしい。』という、ある意味よく言われる主張内容でスレッドが立ち上がったのがきっかけです。短時間のうちに伸びたスレッドのやり取りの中で、XL223さんのお相手をさせてもらった私が私なりに感じたこと、

『XL223さんの提起している問題は、結局、障害者健常者職業者に関係なく、「人の生き様」の問題だ。あるいは「人対人」という「関係」の中で、お互いを「どういう者として位置付けあうか?」という問題だ。』

と感じたことが直接の動機です。 う〜ん、これだけではまだ分かりにくいかと思います。上記スレッドの中で私は、

『(医学系専門学校教育の場では)考え方や価値観として「当たり前の大前提」というものがあったように、今では思います。XL223さんお書きの障害受容、他にも障害者は自立を目指すべきとか、疾病の治癒こそが医療者の勝利とか、進歩向上効率化こそ善とか、はたまた人権とか自己決定権とか、いろいろ。
 でも、これらはすべて西洋からの輸入物ですね。表面的なこれらの事項の背景に、長年の西洋の考え方や価値観、さらには宗教意識みたいなものが厳然として存在していること、日本ではその辺りがあやふやなことに気づいたのは、やっぱり在宅の高齢者さんや障害者さんに関わるようになってから、です。』

と、書きました。改めていかがでしょう?

 なぜ、障害者も健常者も職業者も、「みな平等」なのでしょう?道徳的に素晴らしい生き方をしている人も、回りからの鼻つまみ者みたいな人も、何故選挙では「同じ一票」なのでしょう?何故、すでに自分のことも自分で分からなくなってしまっているような痴呆者さんの「人権」も尊重されないといけないのでしょう?何故、医学的なことはド素人の患者さんに専門職の代表みたいな医師が、わざわざ時間をかけて治療法について説明し納得してもらい、場合によっては別のお医者さんの「2つ目の診断」まで貰わなくちゃいけないのでしょう?何故、自然界では淘汰されても当然のような「弱者」さんが人間社会では「福祉」の名のもとに尊重されなくちゃいけないのでしょう?

 これらの問いに最低限明確に答えられないと、これら「平等・人権・民主主義」は教科書上のお題目、社会の建前に成り果てかねません。(実際、日本ではそういう面がある、と感じるのは私だけでしょうか?)そして、XL223さんが一生懸命主張されている「相手の身になってほしい」という願いも、結局職業者にとっては「職業上の問題」「職業倫理上の問題」として扱われてしまいます。XL223さんの仰りたいことは、『そこを越えた“先のこと”』だと、私は解釈しています。

 そして(平等・人権・民主主義など)『表面的なこれらの事項の背景に、長年の西洋の考え方や価値観、さらには宗教意識みたいなものが厳然として存在していること、日本ではその辺りがあやふや』で、だから現場を真に律する“行動規範”にならないのならば、私たちは改めて、

  1. まずは、これらの背景にある「西洋の考え方・価値観・宗教意識」みたいなものをきちんと学び知らなければなりません。(憲法や法律にそう書いてあるから、では、答えになりません)

  2. そして、私たちはこれらの背景にあるキリスト教のこと、キリスト教を背景にした人の生き方みたいなものを実感として知らない以上、「それに代わる日本人独特の宗教意識みたいなもの」についても知らないといけない、ということ。

  3. その上で、職業倫理や道徳を超えた「人(自分)の生き方、生き様」みたいなことに改めて思いをはせなければ、XL223さんの訴えを真に理解し、応えるのは難しいのではないか?ということ。つまりは、「自分自身の宗教心の問題」だ、ということになりました。

それで、改めてこのページを書いています。

 実は、平成13年4月にアップした『長崎県作業療法学会一般講演:セラピストとして・援助者として・一人の人として…多面的な意識の関わりから見えてきたもの』(雑記帖(19))という講演会抄録の中で、既にこの問題がチラリと出てきます。ただ、この段階ではまとめ切れていなくて、(自分で読み直してみても)何が言いたいのか?さっぱり分かりません。(^_^; また、さっちゃんに一番最初に送った個人メールに、「なぜ、人は誰でも平等で、同じく人権を有しているのでしょうか?」なんてクイズを出した覚えがあります。あれはもう5年ほど前のことでしょうか?(さっちゃん、覚えてる?)そういう意識はずっとあったのですが、自分でもまとめきれなくて、放ってありました。以下で、何とかうまくまとめられるでしょうか?

2:職業者がより良い職業者であるための「常識」と、「宗教心」の前段階

 例えば物理学者さんなど、まったく「物質のみ」を扱う仕事の方ならば、仕事をしていく上で表題のようなことはあまり問題にはならないでしょう。(それでも最先端の物理学者さんや天文学者さんは、物質根源の極微の向こう側や宇宙開闢の物語の向こう側に“神を見る”とのことですが・・)

 私たちのような「人を相手に」、しかも「その人を援助する」ことが仕事の場合、その相手の「人としての根源、その人の人生そのもの」みたいな部分に深く関わらざるを得ません。

 だからこそ、「職種ごとの役割」ということや「援助〜被援助内容についての契約」ということが大切にされないといけない、とも言えます。そうでないと援助内容が究極には、「その人と一緒に生き、その人と一緒に死ぬ」というところまで行ってしまいますから。(私の母校の先輩で、インターン実習先で障害を負った女性患者さんと心中自殺してしまった学生さんがいました。)

 でも反対に、法律で定められた職種ごとの役割や契約「だけ」では、やはり「うまくいかない」とも思います。そこで?、各職種ごとに『職種倫理規定』のようなものも定められているし、何より「契約」や「職業倫理」の前に「人としての道徳心を持っている」ことが大前提としてされている、と言えるだろうと思います。また、「インフォームドコンセント」ということや「患者・サービス利用者の権利」ということも、「援助〜被援助のあり方」をより良いものにするために、盛んに言われるようになっています。

 でも、どうでしょう?「契約」「職業倫理」「人としての道徳心」「権利の尊重」これらがきちんとしていれば、すべてがうまくいくでしょうか?そうですね、実は私自身、「倫理感」や「道徳心」に著しく欠けた部分があります(^_^; ので、これらがきちんとしている方がいらっしゃるだけでも『人並以上』だと心底思い、尊敬申し上げるのですが…。

 実際に援助を受ける側の皆さん、高齢者さんや障害者さんの側からすると、やはりどうもそれだけでは「足りない」面があるようです。改めて、「思索の(23)越えられない?一線」や掲示板の「407発言以下、XL223さんのスレ」をご覧ください。

 掲示板でXL223さんは、

『ただ、私は違う視点からその理由(PTの処方した装具が生活の場で使われない理由)を考えていました。それは、療法士や装具士への違和感ではないか?療法士は機能ばかり注目して「人間」と向き合っていないからではないか?対人関係の問題ではないだろうか?説明が足りないのではなく「まなざし」が対象者の心中に届いていないのではないか?』

 と仰っています。つまり「援助者対被援助者」というお互いに別々の立場からの、援助者から見て客観的な対象物としての被援助者に対して「援助内容はどうあるべきか?」という視点ではなく、援助者自身のあり方も含めた「お互いの関係性」こそが援助がうまくいくかどうかを決めるキーポイントだ、と言うわけです。

 医学・福祉の分野でこの辺りを一番強く自覚しているのは、私の知る限りでは精神医学や心理学、それも精神分析学の世界です。そこでは、評価者が「了解」できるか?が診断基準となっていたり、「共感」ということが「治療手技の一つの技法」として位置付けられています。(と、説明をされれば、またムッ!と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが…)
 また、私自身が大きな影響を受けている三好春樹氏の主張の根本は、表面的な「個浴の薦め」とか「オムツ外し」とかいうことではなくて、『私たちと高齢者と、その間の“関係のあり方”こそが、高齢者をより元気にもダメにもしていく。』という事(思想?)だと理解しています。そして加えて三好氏の主張は、私たちに「高齢者観・人間観」の変容を迫るものでもあります。(氏の2著目「老人の生活リハビリ」では、巻末でその宣言がはっきりとなされています。)ここまでくると、もはや『宗教の一歩手前』と言ってよいとも思います、何せ「人間観の変容を迫る」んですから。(実際、三好さんにゾッコンな方々を揶揄して“三好教信者”なんて呼んだりしますね。ちなみに、氏の著作はたくさん出ていますが、私は1著目の「老人の生活ケア」2著目の「老人の生活リハビリ」だけで、氏の真髄が十分表現されている、と思います。あとは、それをもとにした応用の具体例集みたいなものだと思います。もっとも、その応用の仕方自体が素晴らしいものなので、学ぶに十分値するものだとも思いますが。)

 でも、三好さんのケア論においても、そこで援助者の主体的で能動的な態度と関わりが必要とされてはいますが、結局「援助関係はどうあるべきか?」という客観的な技術論にとどまっており、また「三好教」という宗教ではない以上そうでなくてはならない、とも言えます。従って、三好さんのケア論に対しても「私は反対です。」という意見でもって終わりにすることもできるし、それは「私は認知療法には反対です。」とか「NDTコンセプトには反対です。」ということと同じことです。

 そうではなくて、XL223さんが仰る『人間として向き合う』ために、自分はどうあればよいか?三好さんの言う「良い関係」を深めていくためには、自分という人間はどういう人間であればよいのか?それはあくまで各自個人の問題ですし、その答えまでは、さすがの三好さんやXL223さんも示してはくれないと思います。

 つまり、これは私たち一人一人にとっての「道徳」なり「倫理」なり「哲学」の問題なのでしょうが、それ以上に『宗教心』の問題なのだろうと思います。『人はかくあるべし、どう生きるのか?』という問いに明確な答えを示してくれるのは、まずは「宗教」です。ですから、以下の問題はまったく個人の領域に属する問題で、他人にどうこう言われるスジの問題ではないのでしょう。ここから以下は、あくまで「PT大渕の場合は」という独白になります。

 ただし、そういう独白に入る前に、きちんと「宗教についての知識」を整理しておきましょう。なぜならそういう作業で、現在の常識の背景にある「伝統的な西洋の価値観や宗教的な考え方」とか、日頃私たちの行動を規定している「日本的な価値観や宗教的な考え方」を明らかにすることができるだろう、と思うからです。

3:人権・平等・民主主義の根拠:キリスト教について

 以下はいささか「退屈」かもしれません。宗教について、客観的な知識の整理の部分です。できるだけ簡単にいきますが、稿を進める上でどうしても避けれないポイントです。また、このページのきっかけをくれたXL223さんにとっては、当たり前のことばかりだと思います。

 なお、以下の「3:4:宗教についての知識の部分」は、多くの本からの知識のまとめですが、「まとめ方・表現の仕方」としては、『逆説の日本史』シリーズで有名な歴史作家「井沢元彦」さんによっていることを書いておきます。(なお、三好さんを“左翼”、井沢さんを“右翼”というのは、あまりに浅薄な見方だなぁ、と思います。)

 では最初に、分かっているようで意外と分かっていない「キリスト教」について。

 キリスト教の最大ポイントは、「絶対神」という考え方です。万物は唯一絶対の神によって創造された、ということですね。そして、神を超える存在や規範というものはあり得ません。

 人間は「土」から作られた、と聖書にありますね。ですから「人は死ねば、(身体は)ただの土の塊」です。また、どんなに優秀な人間も普通の人も障害者も犯罪者も、全て「神が作った、もとは土の塊」ですし、「絶対の神」から見れば、「誰も彼も極めて不十分な存在で、五十歩百歩」です。

 そういう神様は、土から男性を創り、そのあばら骨から女性を創った後で、2人の人間に対して「産めよ、増えよ、主管せよ」と命じ祝福されました。(3大祝福)つまり、神と人間の間の契約ごととして、「地上の全てのものを管理する権利を人に与える」「その権利は、生み増える全ての人が等しく持つ」「ただし、自分たちの命・権利は神から与えられたものであることを忘れずに、神に対する賛美と信仰を忘れないように」ということですね。

 これだけで、人権・平等・民主主義の根本原理があらかた説明されてしまう、と思います。また、「個人ごとに権利を主張するが、他人の権利を侵害しない。」「権利の主張はするが、同時に(神に対する)自己責任感も強い。」というようなあたりとか、例えば「福祉」は、『神が人間を愛するように、神をお手本としてお互いを愛し合う』ということとか、色々なことがキリスト教精神から理解できます。

 私は、障害を持つXL223さんの人権・権利を侵害してはいけませんし、侵害できません。何故ならXL23さんの人権は神様から与えられたもので、私がそれを侵害するというのは、私が神様に反逆することだから、です。

 ただ、人間は「完全」ではありません。どうしても、神様を悲しませるような行ないや生き方をしてしまいます。その最初は、最初の2人男女が侵した「原罪」です。それ以降、人間は不完全なものとして増えてきました。その完全なる神と不完全な人間の間をとりなしてくださるのが、キリスト(救世主)イエス様ですね。(キリストが、どのように人間の罪を償い、神との間をとりなしてくれるとされているのか?そこまではここでは触れませんが・・)

 それから、キリスト教者にとっては同じキリスト教者は同志ですが、もしも「私は神を信じません。無宗教者です。」と声高に言う人がいたら、彼らにとってどのように映り感じられるか?それも大事なポイントです。神様に創られた存在に過ぎないのに神を信じない者、実はキリスト教の中にもそういう存在がいますね。それは、人に対する神の御使いとして創造されたにも関わらず神に反逆した天使、ルシファーですね。ルシファーは天から地上に追放され、サタン(悪魔)と名前を変えました。そして、蛇に姿を変え、最初の人間を誘惑して原罪を犯させたのですね。これだけのことをしっかり知っているだけで、「無神論者です。」と宣言することが、如何に「怖い」ことか?分かります。

 以上、たったこれだけ「雑学」の範疇にすぎないと思いますが、日本では単なる「建前」に流れてしまいやすい事柄が、如何に彼らの精神の奥深い所から機能しているものなのか?ということが理解できます。

4:日本人の宗教意識:言霊・神道・怨霊・仏教・和の精神

 では、一般的な日本人に「絶対神」という信仰はあるでしょうか?ないですね。たとえ知識として知ってはいても、自分自身の心性としては実感できない、という方がほとんどでしょう。日本の伝統的な神様は「八百万の神」、つまり「自然」そのものや「昔の偉い人」や鏡などの「道具」や、ありとあらゆる物が神様になり得ます。そういう意味では日本人に絶対神はいないし、「○○教の信者である」という方も少ないです。

 しかし、それは日本人が宗教心を持っていない、ということではありません。長くなるのもなんなので、結論をバシッ!と書いてしまいますが、日本人にとっての絶対的な神様、それは「世間様」です。(^^; 「神様に顔向けできない」とは言いませんが、「世間様に顔向けできない」とは、多くの人にとって違和感のない言葉でしょう。

 「世間様」とは何か?それは結局、「和の精神」ですね。聖徳太子が「大事なこと」の一番目にあげていますね。あるいは、その結果としての「常識」ということです。

 このことについて、私自身強烈?な経験があります。臓器移植法が成立した頃でこのHPを立ち上げる前のことですが、メール友達に「あなたのご主人が脳死と判定され、臓器提供を頼まれたら、貴方は了承しますか?」と聞いてみました。するとそのお返事は、「回りの人が皆そうするのが当たり前でそれが常識なら、そうする。しないのが当たり前ならしない。」というものでした。なるほど、と思いましたね。

 「和」を乱し「世間様」を騒がせるようなことをすると、そこには「穢れ」が発生し、「恨み・怨霊」が発生する、というのが、伝統的な日本人の感じ方です。穢れを祓うのが「神道」ですし、そもそも穢れが発生しないようむしろ縁起の良い事しか言葉にしない、というのが「言霊」です。「穢れ・神道・言霊」と言っても自分自身のこととしてはピンとこない方が多いのではないでしょうか?それは、「当たり前のこと」すぎて、自覚できないのではないでしょうか?

 例えば、キリスト教式の結婚式ではこんな風に誓いますね。

「病めるときも貧しきときも、生ある限り、この者を終生変わらず夫(妻)とするか?」
「はい、誓います。」

 これは日本語ですが、本来の英語なりの直訳は、↓だとのことです。

「病めるときも貧しき時も、死が二人を分かつ時まで、この者を・・」

  縁起の悪い言葉を嫌い穢れを祓う、「言霊」であり「神道」ですね。(^^;
 また、「死が二人を分かつまで」というのはいわゆる「契約」です。つまりどちらかが先に亡くなってしまえば「契約」は終了し、再婚は一向に構わないわけです。こう言い換えると、やはり日本人にはしっくりこない、という方が多いと思います。

 また、絶対的な神様がいない以上、「世間様と常識」を越える規範はない、ということになります。「話し合い」で物事が決まっていきますが、「全員一致」が尊重され「多数決」は嫌われます。(負けた方が恨み、怨霊が発生する可能性があるから)また「話し合いで決まった」ということが絶対であって、「決定内容」を制限する規範はありません。「話し合いの結果、世間一丸となって海外侵略だ!」となればそうなるし、「話し合いの結果、世間一丸となって平和運動だ!」となればそうなります。「道徳・倫理」なども、時代によって容易に変化していきます。(実際には、具体的な話し合いというよりは、“その場全体・世間全体の雰囲気”と言った方がより適切でしょうが)

 「他にはそんなことを言う人はいないのに」装具の見た目を「私の好みに作ってほしい」とはっきり要求したXL223さんは「世間様と常識とその場の雰囲気にたてつくヤツ」という扱いをされても仕方ないのが、日本社会の普通の精神世界です。
 で、改めて「障害者にも、そういう権利があるよな?」と思い直しても、こういう日本でそのことが援助者職業者の行動規範となるか?「みなで話し合ってそれが当たり前の常識になれば」そうなりますが、「今のところはそうなっていない」ようです。(^^; そしてそれが「常識」になったとしても、それが絶対神の考え方・感じ方にもとづくものでない限り、モロいものにしかならないに違いありません。

 ついでに「仏教」について。仏教においても「絶対神」という考え方はありません。仏様=お釈迦様・釈迦如来や、あと宗教概念上の他の如来様方(薬師如来、大日如来、阿弥陀如来など)も、もともとは普通の人間で、ただし「悟り」を得て輪廻転生の永遠の苦しみから抜け出た方々とされています。ですから、もともとの仏教には「先祖供養」という概念もありません。(人は死ねば、悟りの世界に行くか、人間・畜生・餓鬼など六道のいずれかに生まれ変わるから。)つまり、キリスト教の宣誓が日本に合わせて言い換えられているように、仏教もまた、「日本人の宗教心」に合わせて変形、融合されています。仏教は大きく俯瞰すると、本来の「悟りを得て救われる」ための宗教としてではなく、民衆レベルでは先祖供養や怨霊対策?の方法として、日本に根付いています。

 では、ここまでの「宗教的知識」がどのように役立つか?ちょっと考えてみます。

例えば新しい患者さん、利用者さんが、XL223さんだったとします。で、お話しているうちに、XL223さんがキリスト教に深い関心をお持ちだと分かった瞬間に、「障害者の権利・QOL」ということを他の人では聞かれないほどに主張するXL223さんのことを、私たちが理解できるかどうか?は、まずはこちらの知識によりますね。

また例えば別の方は、キリスト教の信仰をお持ちでありながら、日本社会の中で長年、自分たちは少数派であってなかなか理解してもらえない、という経験・気持ちから、ご自分なりの希望や願いを出すことを遠慮されているかもしれません。(いや、どちらが良い・悪いということじゃないですよ、>XL223さん(^_^; )そんな時にも、私たちにキリスト教なりについてのきちんとした知識があれば、それなりの対応ができるはずです。

例えば、思索の(10)「騙さないでください、隠さないでください」で、家族が亡くなったことを入所している本人さんに隠蔽するお話が出てきます。その時の、家族と施設職員の態度=「できるだけ穏便に波風立たないように」という態度が、実に『日本的』であることが、理解できると思います。ところがもしも、入所している本人さんがクリスチャンだったら、こんなにひどい仕打ちはない、ということにもなります。

でも、私たちが日頃相手をしているのは、日本のじいちゃんばあちゃんです。では、彼は自己決定するか?自らQOLを求めるか?そうではないですね、多くの日本の高齢者は、自己決定や権利やQOLという前に、まずは『家族との和』を、そして『私たち職員との和』を大切にします。『あなたの本心からの希望は、どうなんですか?』と問い詰められると、困ったような顔をされる方が少なくなりません。それが良い・悪いということではなくて、それが「伝統的日本人」なんですね。私たちだって、きっといざという時はそうですよ。

5:宗教についての知識を持つということ

 以上のような宗教の知識は、今の学校教育では一切教えてくれませんし、多くの方は知らないし、関心もないだろうと思います。
 だからこそ、人権とか平等とか民主主義とか福祉ということについて、真の意味で理解し意識し、尊重するのは難しい、と思います。誰も主張したことのない「装具の見た目」について「当然のことと」としてこだわったXL223さんは、(やはり案の定)キリスト教精神について深い理解と関心をお持ちの方でした。まずは最低限、私たちは「知識」として持っていなければいけない、と思います。

 また、私たち日本人の多くは、どういう心性のもとに自分たちが動いているか?についても、知りませんし、自覚できていません。多くの方は、XL223さんのように主張はしないかもしれませんが、同時に「説明と同意」「ユーザーとしての権利」ということを尊重する形式だけ整えても、私たちと彼らの間、援助〜被援助者関係の間に働くのは、(お互いが無意識のうちに)波風立てないでやり過ごそうという和の精神ですし、実は根拠薄弱な常識が優先されがちです。まずは私たち自身がそういう「自覚」をもたないといけない、と思います。

6:援助者自身の宗教心ということ

 さて、以上ここまでは「学ぶことができます」。本当に、大切な知識だと思いますよ。

 ただ、私がこのページで最後に問題にしたいのは、知識の問題ではなくて私自身の「宗教心」の問題です。だから改めて、ここから以下は私自身の独白みたいなものであること、本来は他者に開陳する必要もないし、もしかしたらすべきでない部分もあるかもしれません。が、まぁ、いってみます。もしもよろしければ皆さんも、以下の「私」を「自分のこと」として読み、考えてみてください。

 仕事をしていく上で、もしもXL223さんのような方が私の目の前に現れたら・・その時、「5:」までのような知識が私自身にあることは、確かに大いに役立ちます。(掲示板の方でも、まずはこちらのそういう知識に基づいて、XL223さんへの最低限の理解ができた、と書いては不遜でしょうか?)ただし、「知識とそれに基づいた理解」を示すことで、XL223さんが『療法士は機能ばかり注目して「人間」と向き合っていないからではないか?対人関係の問題ではないだろうか?説明が足りないのではなく「まなざし」が対象者の心中に届いていないのではないか?』というようには感じないで、満足してくれるか?それは心もとないですね。

 XL223さんご自身はクリスチャンであるとは仰ってはいませんが、キリスト教に深い関心と理解をお持ちで「洗礼の一歩手前」とご自身を表現されています。少なくとも「宗教」をただの「知識」としてではなく、「ご自身の生き様・生き方」に強く関係するものとして位置付けられています。その時、援助者である私自身にとっての「宗教」が、「ただの知識」でしかないのだとしたら・・どうだろう?と思うわけです。

 特定の宗教を持とう、ということでなくても良いとは思うのですが、私は色々な方と接する仕事でしかもXL223さんのような方もいらっしゃるとしたら、やはり宗教を単なる知識としてではなく、もう一歩進んだ「宗教心」というものを持っていたい、と思います。というか、私自身の場合はこれまでの職業上の経験・人生上の経験で、「そうならざるを得なかった」というべきかもしれません。

 以下は決して「不幸自慢」にはしたくないのですが、まずはトップページの「1月21日を迎えるのあたって」でもチラリと書いている通り、あるいはさっちゃん・まめっちさんなど古い付き合いの方々はご存知ですが、私自身が子供を生後半年でどうしようもない病気で亡くしている、という経験。(だから、慰みモノとして、このHPを作り出したんですけどね。(^_^; )

 それからこれはあまり書いていませんが、自分自身に生まれつきの「奇型」に値する障害があって中学〜高校〜独身時代と、『ピチピチの女の子たちと海やプールで遊んだことがない、というか、誘われても逃げてまわってた。』という悔しい経験。(^_^; で、それをどう克服したか?というと、金にあかせて『外科手術でほどほど治してしまった』という経験。(XL223さん、ごめんなさい。自分の障害から“逃げた”と言われても仕方ありません。でも、だから、こういう仕事を選んだ、というのも本当です。)
 それから、父親が対外的にはともかく心的に熱烈な浄土真宗信者である、ということ。

これらのことが重なって、自分自身の中に「宗教心」が芽生え育っていった、と思います。

 XL223さんは、突然身体障害を負い、Pトイレを強要されそうになったり好みではない靴を押し付けられそうになったり、というご経験をされ、私の経験は上記の通りですが、そういう「実経験」が、宗教をただの知識からもう一歩先へ進めるきっかけになることは間違いないでしょう。ですから、「宗教心」というのは持とうと思って持てるものではないし、他人に持たせることができるわけもないと思います。
 でもどうでしょう?このHPをご覧の皆さん全てが、XL223さんや私とまったく同じでなくとも、『様々な経験』をされているのではないでしょうか?その時に「宗教心」が芽生え育つかどうか?は、まったく個人の問題ですが、同時に少なくともこのページにまとめたような「知識」を持ち、日頃からそういう概念に慣れ親しんでいるかどうか?は、重要なポイントだと思います。

・「宗教」と「道徳・倫理」はどう違うのか?
 『嘘をついたり人に迷惑をかけてはいけません。』というのが『道徳教育』、『どうしても時に悲しい嘘をつき、我知らずのうちに他人に迷惑をかけているのが、私たち。そのことへの許しを請う気持ちと、他者が自分を許してくれることへの感謝の気持ちを忘れないようにしなさい。』というのが『宗教的教育』だということです。なるほどなぁ、と思います。(これは、仏教者の立場で教育論の著書が多い、ひろさちやさんの説明です。)

 この最後の一文は本当に『独白』とすべきなのですが、「道徳・職業倫理」に生きるだけではなく、『宗教心』を持っていることが、職業の上でも自分自身の人生の上でも、『より豊か』なことだと思いませんか?もちろん、この「5:」については『とても、ついていけない!』とお感じの方がいらっしゃっても、当然です。

7:最後に

 う〜ん、どうにかこうにか、一応書きました。正直言うとこれをHPにアップするのは、やはり若干抵抗があります。もしかしたら、掲示板上でXL223さんと知り合い「まとめてアップします。」とお約束していなければ、このまま「お蔵入り」の可能性も高かったと思いますが・・、まぁ、XL223さんが待っているから・・と、『他人のせい』にして、思い切ってアップしてしまいますね。(^_^; きっと(リンクでご紹介申し上げている)goshinさんあたりは、呆れずにニコニコ読んでくれるんじゃないかなぁ・・?


このページをお読みになったXL223さんのお手紙と最低限の補足

 以下は、以上を読んで↑にある『「人間として向き合う」ために、援助者はどうすればよいか、どんな姿勢でのぞめばいいのか、という問いに触れたもの』として、改めてXL223さんが掲示板に寄せてくださった文章です。この問い自体が、XL223さんが掲示板上で投げかけられたものですから、XL223さんなりの自問自答?という感じです。私の感想と補足は、またその下に・・。


 これをアップするには抵抗があったというお気持ちが良くわかります。敬礼します。

 「生き方」として信仰をもつとはどういうことか、宗教は人間の心に何を育てるのかについて、われわれは学校で何も習わなかった。世界の学校教育で、これは異例のことだそうです。人間の尊厳を領域とする宗教について、同じく尊厳の何たるかという難問と向き合い、対峙せざるを得ない援助職者は、少なくとも知識として宗教を知っておく必要がある。尊厳は、“和をもって尊しとなす”という日本人の常識とは相容れないものであり、まして尊厳を基調とする行動規範をうんぬんするにはほど遠い。少なくとも、現状では宗教概念に慣れ親しむことが重要である、という主張に賛同いたします。

 中学を卒業する前後からエンコー(援助交際・売春)をしてきた女子高生が、介護の仕事がしたいけど「わたしなんかが・・・」と言っている女の子がいたとします。彼女をどんな言葉で説得しますか?

 自嘲めいた自己評価が、宗教心にもっとも近いのではないかと思います。自分のような者でも要介護者のそばにいることが許されるということに気づいたとき、自分の存在が肯定されているということに思いが至ったとき、他者に<つくす>ことによろこびを感じるのではないだろうか。<与えることができる・与えられる>自分であることを発見して感謝するのではないだろうか。「私」をこえたところで自分が肯定されていることを知る、それによって自分を支えられる、これを『宗教心』というのではないか。職務において自分を何者として位置付けるかという問いかけは、援助という仕事の原点にあるべきものだと思います。

 家庭で介護している人の掲示板へのカキコミには、「はやく死ねばいい」「虐待や暴力もやむなし」など、愚痴にしては過激な言葉が・・。こんなにしてあげているのに、という嫁の不平不満はやはり援助する側が自分をどう位置付けているかという問題にたどり着きます。エンコー娘は、自分の存在を認められたのがうれしくて他者につくします。自分を一歩引いたところから見ている。「はやく死ね」とカキコミする嫁は、「私」が突出しています。エンコー娘は「私」を捨ててこそ得られる『おのずから足るやすらかさ』を知っています。これが、宗教心だと思います。

 鷹は舞い降りた

  私のような者がここにいてもいいのだろうか
  私のような者が人の末期を看取るようなことを
  してもいいのだろうか
  私は場違いの所に来てしまったのではないだろうか

  老人ホームで非常勤として働くことになったとき
  私は戸惑いをおぼえた
  自分で自分を笑う声がした
  そんな場所にいる自分が恥ずかしくなった
  取り返しのつかないことを
  しでかそうとしているのではないかと
  うろたえていた

  そんなある日、大空に鷹が舞っていた
  私は山の斜面で石のように考えあぐねていた
  一瞬、肩さきを影がかすめた
  鷹が舞い降りたのだ
  鋭い爪がはっきり見えた
  小さな生き物をつかむと
  すぐさま大空に飛び立った
  大きな羽音におどろき
  命の生き死にを眼前にして
  私は鼓動がやまなかった
  そして不意に聞こえてきた

  おまえのような者が
  そばにいることを許される
  それをよろこべ、感謝しろ、と。


 私は、XL223さんの、この問いかけと自答がそのままXL223さんの宗教心・信仰心そのものの発露になっている、とも思います。例えストレートな形でなくとも、ですね。

 XL223さんは当然のこと、皆さんもお気づきかもしれませんが、私の本文には「宗教についての知識」や「宗教心の必要性」みたいなこと、あるいは「自分が宗教心を持つに至った経緯」などは書いてありますが、今現在の私自身の『信仰心の中身そのもの』は表現していません。それは、XL223さんの書き込み内容と対比させると、なおはっきりします。

 ところで、このページの中でも既に、思索の(23)「越えられない?一線」:思索の(10)「騙さないでください、隠さないでください」:トップ「1月21日を迎えるにあたって」など、過去のページを引用しています。当然のことではありますが、これらのページを作りアップしてきたその時点時点で、私の中では確かにこのページで書いたような「宗教心」が根底にありました。思索の(2)(3)(25)「活動理論と後退理論」や思索の(31)パラダイム論などもそうです。

 また技術的なページ群についても、初めてHPをご覧になる方からはありがたくも、『高齢者に対する前向きなあたたかい視線を感じますね。』というような感想をいただくことが多いですし、私自身も折に触れ『細かい技術論の向こう側に、私なりの考え方や価値観みたいなものを感じてもられるようであれば・・』と表明してきました。それから何より、HPタイトル下の、四角囲みのくっさい一文。(^_^;
 これらはそのまま、つまり私自身の信仰心の発露?ということなんだと思います。(いや、あとはやっぱりXL223さんの方が、私よりもはるかに切実に、ご自身と向かい合っているのだ、とも思いますけどね。)

 それから、XL223さんがキリスト教に近い立場におられ、そのことを表現されていることもあって、もしかしたらHP開設者の私自身も、知識の項目で説明しているような「日本的な、何よりも和と世間様が大事」みたいな感性に否定的なのか?とお感じになるかもしれませんが、決してそうではありません。

 まぁ、これくらいにしておきましょうか?ちょうどおりしも『小学6年生女子が同級生を切り殺す』というニュースが流れる中、このようなページをアップすることの意義を、改めて自分なりに感じております。


コーナートップへ ◆HPトップへ ▲総目次へ