老人介護についての個人的HP-5 思索 - (36) HP10年の感慨

この仕事2×年、HP10年の感慨

今、感じる心境を、これほど的確に表現してくれている文章は他にありません。
多くの方々の共感を得ることと思います。ということで、勝手に無断でご紹介。


 昔はよかった、などと言うつもりはない。なにしろ介護が「措置」だった時代には、税金を出し惜しみしながら、施設が造られヘルパーを雇っていたため、とてもニーズに応じられるものではなかった。福祉は、してあげるもの、とどこかで考えられていたから、福祉関係者の倫理と傲慢が表裏になったような心理に支えられ、介護の中身が問われることなどなかったと言っていい。

 介護保険は自体を一変させた。介護報酬は徴集した保険金から支払われ、ある程度設備投資をしても経営的に成り立つことになると、福祉、医療関係者はもちろん、多くの民間企業が殺到した。介護の量についてはまだ足りないとはいえ、かつてとは比べものにならないくらいに増えた。しかも、保険金を払っている側には権利意識が当然生まれ、「措置」は近代的な「契約」となり、介護の「質」についてもチェックされ、問題が解決していく、と考えられていた。

 しかし、必ずしも近代が人間の歴史に幸せをもたらしたとは言えない。また、専制国家が民主主義になったらいい政治になるというわけではない。なにしろ、世界で最も近代的な二つの国が、民主的に選出された議会で戦争することを決めてしまうのだから。いくら立派な制度があっても、それを支えている人間が変わらないのなら、むしろ前近代や専制国家のほうが牧歌的で人間的だったと言いたくもなるではないか。

 「グループホーム」があっという間に増えた。“雨後の筍”どころではない。“梅雨のカビ”みたいだ。制度ってすごいなぁ、ニーズがいくらあってもやらなかったのに、と皮肉のひとつも言いたくなる。この人たちは当然ながら、家族や本人の切実なニーズに応えようとはしない。「呆けがひどくなって、家庭的雰囲気を守れない人は出て行ってもらいます」なんて平気で言う。呆けが進行したときに環境を変えないのは、痴呆ケアの原則だというのに。そもそも、“家庭的雰囲気を守れる”人なら家庭で支えてやれよ。介護はニーズに応えるためにやるものだ。制度でやるんじゃない。ニーズに応えるために使える制度がないか探して、それを活用するのが現場だ。

 でも、その「ニーズ」がまた問題なのだ。「ほんとうのニーズ」は現場こそが知っている。モノ言わぬ老人の表情を見ている介護職こそそれが判り、応えることができるはずだ。ところが、この人たちは厚労省の動向ばかり見ている。その厚労省は、声高にモノ言う「市民」の声ばかり聞いている。「自分たちが入りたい施設」という、そのスローガンの自己中心性に気付かない「市民」たちである。“高学歴の自立した個人”である自分を標準にしてどうする。“家庭的雰囲気”を良いものとしてつくられたグループホーム、ユニットケア、そして老人施設の全個室の強制。これらは核家族と個人主義を良いものとする市民のイデオロギーの老人への押しつけである。個室を強制され落ち着かない老人、小規模施設介護で「なじみの関係」を押し付けられて眠れない老人が現れるのは当然である。市民と厚労省には、“自立した個人”から“生き物”へと回帰していく人間の多様性など見えていないのだ。

 度量がないのだ。ニーズを最もよく知っている現場に任せ、老人が何を選択するかによって決めていけばいいですよ、いろんな形のケアをつくっていってください、なんていう度量が、厚労省にも市民にもないのだ。

 そんなお上をもった介護現場は混乱する。なにしろこの上司は、替えることもできないし、他の会社に転職するのも難しいのだから。でも、どこだって上司はそんなものだということを、私たちは知っているのだ。おまけに、福祉には息苦しい倫理主義が、医療には前近代的な権威主義が、民間企業には資本主義の宿命である拝金主義がはびこっていることも。

 それらからなんとか少しでも抜け出して、倫理が倫理主義になる手前で、権威が権力になる少し前で、利益が自己目的化されることのないすれすれのところで、介護を成り立たせてみよう。もしそれが成り立つのであれば、この世界も捨てたものではないのかもしれない。

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