老人介護についての個人的HP-5 思索- (5) 介護と医療

“ぐちゃぐちゃ混ぜこみ食事介助”の投げかける問題〜介護と医療との関係(医療を介護のモデルにしてはいけない!)〜

※一般の方からの疑問の投げかけ

 最近、介護にまつわる掲示板で、次のような発言問いかけがありました。

「一日体験ディサービスに行ったところ、お粥椀にみそ汁からおかずの魚からサラダから、最後には薬まで入れて、ぐちゃぐちゃに混ぜて食べさせていた。吐き気がした。二度と行く気になれない。現場の介護さんはどう思って親のような歳の人間にあんなしうちができるのかと聞いてみたい。」

 いかがでしょう、私たち施設職員は、この問いかけに答える言葉を持っているでしょうか?

それに対して私も含め、「そんな人が全てではない。」「もっと丁寧にしてあげたいが、絶対的に人手不足。」「そうしないと薬を飲めず、食事を食べられない人もいる」、そして、「頑張りますから、ご要望ご意見を聞かせてください」などの返答が寄せられました。でも、「一般の人が不快に思うような現状がある。」という事実には変わりありません。

※「ぐちゃぐちゃご飯」の発生源と発生理由

 思うに、このような食事介助は介護施設(老健や特養)の中で自然発生したものではなくて、「病院」から輸入されたもののように思います。(紹介された施設は、もしかしたら“病院併設型施設”で、その職員さんは病院からの“配置換え者”ではないか?とさえ、思えます。)

 では、なぜ病院・医療の場で、このような食事介助が発生したのでしょうか?表面的にはごく簡単な理由があります。「食事介助は(病院にとって)お金にならない」からです。鼻腔栄養者は「治療食」という名目で保険請求対象になりますが、口から普通に食べる分にはただの「給食」で、食事介助に伴う「技術料」はありません。だとしたら、鼻腔栄養は医学的にきちんと管理され丁寧に行なわれても、「食事介助」のありようがなおざりになってしまうのも仕方ないかもしれません。

※「医学/医療」という価値観

 でもでも、ではなぜ医療の場においては鼻にチューブを差しこむことは評価されても、食事介助は評価されないのでしょうか?それは、

  1. 医療が「医学」という学問、それも「西洋医学」の発現行為として位置付けられており、「西洋医学」の考え方・価値観が色濃く反映されているものであること。
  2. 同じく、これまでの「医療」はあくまで、患者さんと治療者の間で「治療契約」が成立しているという大前提の上に、成り立ち体系づけられているものであること。

 こんなところではないでしょうか?

 @について、西洋医学は基本的に「人間を臓器の集合体」として扱い対応していきます。(例えば総合病院とは、一人の人間を“総合的”に診るのではなくて、要するに“デパートの専門店街”だ、とはよく言われるところです。)医学教育の第一歩は、「屍体や臓器に対する感情を鈍化させること」という表現があります。だとしたら、料理を一品ずつ食べようと、全部ぐちゃにして食べようと、同じ栄養とエネルギーが体内に入ることに「医学的」には変わりないわけで、医学的な立場からは何のコメントもありません。しかし、問題は「医療」です。で、医療の場では最近とみに「QOL」ということが言われます。人生・生命・生活の質を高めることを目標にしましょう、という思想です。つまり、これまでは「そうではなかった」、あるいは「今でもそうではない、少なくとも“QOL”と、特別の言葉と思想にしなければいけないほどに、“当たり前”のことにはなっていない。」ということです。このことは伝統的な“東洋医学”と対比させるとよく分かります。東洋医学ではQOLという言葉は使いません。東洋医学では最初から、人間を一人の社会的な存在とみなしてそのあり方に働きかけるものであるからです。つまり西洋医学の言うところの“QOL”がそのまま、東洋医学・医療の目的なのです。西洋医学の発現の場である“医療の場”では、西洋医学の特質に基づいて疾病治療には大きな成果をあげてきましたが、「一人の人間」に対しては“QOL”と声高に叫ばなければいけないほどに、いまだに無力である、そんなふうに考えることができると思います。

 Aの治療契約について、これは日本では極めて曖昧にされていますが、大体次のようなものです。

「治療に伴う人生上の不利益は容認しますから、その代わり最高の治療を行なってくださいね」。

 食べるものや時間の自由・行動の自由・家族生活の自由(?)、全て効果的な治療のために我慢します、ということです。その代わり、「契約違反があったら訴えますよ(^_^; 」と、そこまで至るお話です。今の医療は、この治療契約が成り立っていることを大前提に形作られています。だから、食事と言えば治療の前の段階の「健康の維持のため」に当たり前のこととして、患者さんは病院の出す食事を食べなければいけません。つまり、自分で食事を食べようとしない患者さんは「治療契約を守らない悪い患者さん」なのです。(^_^; そういう患者さんに対する病院・医療の態度がどのようなものになるか、想像つきますよね。それでも、病院に置いてもらえるだけまだ良い方でしょう。「(治療契約を守られない)痴呆ボケ高齢患者さんは御遠慮願いたい」というのが、近代的医療機関の正直なところでしょう。

※介護現場に医療“流”が輸入された理由〜介護の歴史をたどる〜

 医療の場で「食事介助」がなおざりにされてきて、さらに「非人間的(?)な食事介助」が発生してきた理由を簡単に考えてきました。でもこれはあくまでこれまでの「医療」の問題であって、それが現在、「介護施設」の現場で繰り返されているのには、また別の問題があります。それを次には考えてみます。

 介護と言われるものの「ルーツ」を考えてみましょう。昔は介護の場は、自宅以外にはありませんでした。そこではやはり、「当たり前」の生活感覚が「介護」を形作っていただろうと思います。ただし、昔は「医療」も不十分でしたから、「床ずれができれば、あとは長くはない」ということが常識だったようです。期間的に短くすみますから、「問題の顕在化」も少なく済んだはずです。

 やがて、医療の発達に伴い、介護の現場は「医療の場」の中へ“進出”していきました。それこそ医療が充実していますから、要介護の状態であっても在宅の昔のように簡単に亡くなったりはせずに、介護期間は長くなってきます。その時、「医療の中で行なわれ始めた介護」ですから、あくまで「医療の価値観や都合」によって「介護」が始められたに違いありません。かくして、「ぐちゃぐちゃ混ぜご飯でも栄養学的には同じ」という「介護」の世界が形作られていったのだろうと思います。それはそれで仕方のないことだったのでしょう。○時からの“医師回診”までに、○時の予約検査までに、つまりは医療のために介護が動く、ということ、それが医療の中での介護の役割でもあったのでしょう。

 そして時代は変わり、今は「介護」が「医療」から独立しつつある時代、と言えると思います。しかし、やはりこのような時代の流れから、どうしても介護は医療をモデルとする面が強く残っているようです。というか、医療には前半で考えたような医学の価値観やそれに基づく発現の仕方がありますが、介護には医学・医療とは別の、医学医療によらない、独自の価値観をまだ持ち得ていない、と私には思えます。「人間らしく・・」という行動目標は、介護関係者ならば誰でも持っているはずですが、ではどうして今の介護が「非人間的」にもなりうるのかその根本をしっかり見据え、同時に(私に言わせれば)その原因である「医学医療」の価値観とは異なる価値体系を打ちたてなければいけないでしょう。

※医療の価値観に対抗できるか?

 具体的に考えてみます。「食事はいらん!」と言う要介護者に対して、「きちんと食べてもらうことが介護者の義務、時には嫌でも食べてもらわなくちゃ」という立場と「1食・1日くらい食わなくても死にゃしない。食べるまで放っておけば」という立場、極端に言うと今の介護の世界には、その両方の立場・考え方がみられます。そして前者が医学医療的な価値観を色濃く反映したものであることは言うに及びません。では、後者はどうでしょう。前者の立場(つまり医学医療の立場)からすれば、「いいかげん、無責任」ということになってしまいます。そうではなくて、なぜ(しばらくなら)放っておいても良いのか?その理由づけができなければいけません。「時に食べたくないのも“人間らしい”から」(それもそうだと個人的には思いますが)というだけでは、医学医療の価値観に対抗するのは難しいような気がします。

※「医療の常識」を外してみると・・

 でも、これだけのことに気づけば表題の“食事介助”以外にも、これまで“当たり前”だった色々なことに思い至ります。いくつかあげてみます。

→これまでの医療の常識:そちらの方が「清潔保持」しやすいから。(お掃除しやすいですね)

→ これまでの医療の常識:血液などを医学検体を扱うには相応しい服です。

→ これまでの医療の常識:治療契約に基づき最大限の治療効果をあげるため、施設側が準備したスケジュールに従って生きていってもらうのは当然です。

→ これまでの医療の常識:治療契約に基づき、飲みにくくても飲んでもらうことが、患者さんに要求される“役割”です。

 まだまだあるかもしれません。例えば上記のような「?」とそれに対する「医療の価値観」に対して、「より人間らしく」という以上に体系化され整理された「介護観」から回答できるでしょうか?(なぜなら、より人間らしく、というのは疾病治療を目指す医療も究極的には同じだからです。)それは、今の「介護」には難しいように思えます。(介護教育の教科書が、医学知識や看護知識や法律知識やリハの得意な動作介助知識などなどの寄せ集めであって、“核”となるものが非常に希薄であることが、“象徴的”に思えます。)だから例えば掲示板で私が話題にした「職員配置基準」にしても、『「医療」の現場ではこれくらいでやっているのだから・・』と返されて終わりになってしまいます。(どこまで行っても「医療」が基準・・)ただ、「これじゃ変!」という感覚は、多くの介護スタッフさんがほとんど確信を持って抱いていますよね。

※まとめ

 その確信は間違いではありません。これから「介護」の世界は、出発点である「医療を補うもの」という立場から、「医療をも手段の一つとする介護」に変貌していかなければいけません。それどころか反対に、「これまでの医療」に反省を迫り、変えていけるだけの“力”を秘めていると私は思います。(部分的にしろ、そういう面も現実化してきています。)難しい理屈は、きっといつか頭の良い人がまとめてくれます。現場の私たちは、自信を持って「介護を手作り」していきましょう。

 そして最近とみに増えてきている「ミニ宅老所」、そこはこれまでの医学・医療価値観の常識にとらわれない、様々な実践が積み重ね始められている場であると、私は思います。

(以上は「医療に対する批判文」ではありません。医療の価値も認めた上で、「介護の独自性」を訴える文章です。)

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