老人介護についての個人的HP-5 思索- (6) 欧米と日本の生死感

欧米では寝たきり老人が少ない?!:(追記)豊かな国で豊かな介護を!!

 平成10年7月28日、ある全国新聞紙に興味ある記事が載りました。ある病院長さんのヨーロッパの高齢者ケアに関する視察についての感想でした。

『驚いたことに、寝たきりや経管栄養の方々は極めて少ない。どうしてかと尋ねると、「歳をとり、食事を口に運んでもらっても自分で飲み込むこともできないほどに弱ってきている人には、あとは何もしない。」とのこと。その時はなぜそのようなことが許されるのかと驚いたが、欧米では各国とも似たような状況である。自然に任せるのが欧米流、家族の希望を優先して管をつないででも生き長らえさせるのが日本流、というところだろうか?』

大体、こんな感じです。

 この報告・感想が真実だとしたら、欧米に「寝たきり老人」が少ないのは「当たり前」ですね。もちろん、マスコミが盛んに取り上げる介護職員さんの数の多さや、個人個人の「自立意識」の高さといった要因も無視はできないかもしれません。しかし、それにしても「食べられなければ放置」では、寝たきりで生きていけるわけはありません。最近は日本でも、「管につながれて無為に生き続けるのは嫌だ」という意志表示をされる方が増えてきたようです。それはそれで尊重されるべきだとは思うのですが・・・、上記記事では、日本で「嫌でも管をつっこまされて生き長らえさせられる」ように、欧米では「寝たきりで生き続ける(生かされ続ける)ことは許されない」という感じです。家族との心情的なつながりや現世の生よりも、絶対神との契約〜復活についての信仰を基盤に持つ国にはふさわしいとも思えますが、どうもちょっと引っかかります。一旦食事を食べなくなった人が、あるいは一旦経管栄養になった方が、熱心な介護で再び口からご飯を食べられるようになった、というのは、熱心な介護職者であれば常日頃経験することです。(もっとも寝たきりレベルには変わりないことが多いのですが・・)

 寝たきり(あるいは脳死)に生の価値を見出さず、簡単に生命維持装置を外したり臓器をとりだして移植したりするのも一つの文化・価値観ですが、寝たきりはもちろん虫や草木、さらには石や山々にも命を感じ、神様の宿ることを感じる日本の文化も、それはそれで一つの文化・価値観だと思います。何もかにも欧米をお手本にするのではなく、そういう精神風土に根付いた高齢者ケアを手作りしていくことはできないでしょうか?


 さて、↑これをアップしたのが平成10年夏です。それから9年も経っていますが、実際はどうなんだろう?と、ずっと思っていました。とても重要なことだと思うのに、この件についての情報も少ないですね。ところが最近、ようやく新しく情報を見つけました。以下をご覧ください。


(下掲書194p)

高口:私はスウェーデンとデンマークに視察に行ったことがあります。…いっしょに同行した看護師が、「食べなくなった人の食事介助はどのような方法がありますか?」という質問をしました。質問された方は意味がわからないで、困った顔をしていました。その看護師は「鼻腔栄養や中心静脈栄養の人の比率はどのくらいですか?」、とさらに突っ込んで質問していましたが、「そんな人はいません」という答えでした。
 食べなくなったということは、本人が食べたくなくなったということで、私たちはそれ以上の介助はしない、というんですね。私が「そんなことをしたら死んじゃうじゃないですか」と言ったら、「死ぬことは神に召されることで、神の祝福であり、何も否定することではありません」という返事が返ってきました。神に召される人にあえて人為的に何かをするのは、神への冒涜だからしてはいけないというんです。そうなのかあと、自分なりにそういう考え方もあるんだと理解しようとしていました。でも何かひっかかります。
 そのあとでランチがありました。私は、先ほど説明してくれた女性に「サービス利用者や家族の中には、どんなに神様に叱られてもいいから、一日でも長生きしたいという人はいないのですか」という質問をしました。そうしたらこういう答えが返ってきました。「うちの国は、鼻にチューブをいれることも胃に穴をあけることも、回復して税金を払えると想定できる人にはします。でも、税金を払える国民になってくれないならしません。あなたの国は経済的に豊かだから延命処置ができるんです。この国ではそれができるほどの国力はありません」。

三好:西洋人にとっての「人間」は、自己決定できる人であるという狭い見方ですよね。それが「税金を払える国民」という表現にもつながるんでしょう。それでやっていける人間観が国民の間にあるんでしょうね。…東洋人は、意識はなくなっても人間は人間である、という広い人間観をもっていると思います。私は、西洋人の狭い人間観にはとてもついていけません。それは経済力があるなしの問題ではないでしょう。


 いかがですか?「チューブの入った意識もない寝たきり老人」の姿は、「医療・介護の貧しさ」の姿ではなくて、むしろ「豊かさの姿」だと言うのです。三好さんが最後に、「それは経済力があるなしの問題ではないでしょう。」と言っているのは、『おそらく欧米では(日本並に)経済的に豊かであっても、経管での延命処置はしないでしょう。』ということであって、日本の寝たきり老人の姿が「経済的な豊かさ」に支えられたものであることも間違いありません。(そういえば、日本よりも経済大国であるアメリカでも、経管寝たきり老人は少ないということですね。)
 「神様うんぬん」というだけではなくて、食事しながら「経済」のお話まで現地スタッフから引き出す高口さん、やっぱりすごいなぁ、と思います。経済的に豊かで、同時に意識もない経管栄養状態でも人は人、という人間観・文化を持っているのは、今のところ世界中で日本以外にはありそうもないです。となれば、私たちの「経管栄養寝たきり老人」さんへの支援という行為は、全世界の中で日本の医療/介護職(と一部の家族さん)だけが行なっている営みだということです。医療介護の貧しさ故の姿、という否定的な見方ではなくて、また“経済的”な豊かさの現れというだけではなくて、「豊かな人の生き様」の一つとして、こういう方々への支援を位置づけていくことはできないでしょうか?
 ただ、この文章を読んで私が思ったのは、スウェーデンのタッフさんにとって、「神様うんぬん」はあくまで『建前』であって「経済」が『本音』ということなのだろうか?それとも、全く異なることのように思えるこの二つのことが、両方とも「本当にそう思っている」ということなんだろうか?ということでした。
 で、色々お世話になっているお礼を伝えるためにも高口さんが当地に研修会講師としていらっしゃった際に押しかけて、ご挨拶がてら、上記の点もお聞きしてきました。以下に私なりに簡単に要約して、ご紹介しておきます。

結論:「神様うんぬん」と「経済的負担」ということについて、別に「本音と建前」ということではないと思う。
理由:私たちであれば、一聴してまったく別々のことと感じられ、だからこそ「本音〜建前?」と感じられるこのこと「宗教と経済」について、欧米では長い歴史の中で「為政者〜権力者」が両方とも掌握しながら、「国」や「文化」を作ってきた。その長い歴史の中で、「宗教による理由付け」も「経済による理由付け」も、両方とも「国民にとっては身に染み付いたもの」となっているのが、欧米の文化である、ということだと思う。
 その点、日本では政教分離が早くから進んでいた(歴史上、政教分離を完成させたのは“比叡山焼き討ち”した織田信長です。焼き討ちにより、宗教勢力が政治に口出しできないようにはしたが、宗教活動は容認した。:大渕)ので、「宗教」と「経済」が一体化しておらず、別々のことと感じられてしまうような文化なのだ、ということだと思う。

 いかがでしょう?最初、何をおっしゃっているのか?咄嗟には分からなかったです。(^^ゞ ちと考え込みながら、でも凄まじい勢いで話される様子には、「おそろしく頭のいい、回転の早い人だな〜」と思わされました。小一時間お話させてもらったのですが、色々啓発されることが多かったです。

こんなふうに、色々考えさせられるテーマが他にも色々満載の本が、

 ●リハビリテーションという幻想
 ・三好春樹×高口光子
 ・雲母書房
 ・2007/8/10初版第一刷
 ・1700円

です。よろしければ、ご一読を!以下蛇足ですが・・でも、私が個人的に一番ウケたのは、


(101p)

三好:高口さんは、現場に入って試行錯誤していますが、傷ついたりしないんですか。

高口:私はいつでも傷ついてますよ。(←太字拡大指定:高口さん)

三好:そうは見えないですよ。


高口さん、ご自身で「不幸自慢」してるよ。(^^ゞ いや、実際色々大変なんだろうなぁ、と思います。

※不幸自慢:1980年代の終わりに高口さんがメジャーデビューするきっかけとなったもので、2人の要介護高齢者が多数のギャラリーの前で「お互いにどちらが不幸か?」を言い合い勝負する!という、常識的かつ倫理的な福祉従事者ならば想像だにできないようなレクリエーション種目。しかし、高齢者のカタルシス(精神浄化作用)を引き出し、とても効果的であろうと思われるも、高口さん以外の誰がレクリーダーをできるというのだろう?というもの。「最近の若い人は、きっと不幸自慢レクのことなんて知らない人が多いよね〜」とは高口さん。

コーナートップへ ◆HPトップへ ▲総目次へ