老人介護についての個人的HP-5 思索 - (9)「できる」と「している」
「できる」ということと「している」ということとは、似ているようで全然違うことです。その違いは、高齢者への介護でとても大きな問題となります。
未だ若く例えば経済的にも役割を持っている人の場合には、「できる」ことを「する」のはむしろ当然です。ですから、医療やリハビリの仕事も「できない」ことを「できる」ようにすること、となります。しかし、高齢者の場合は必ずしも「できる」からといって「する」とは限りません。
それは、もう既に経済的な(社会的な)役割を終えられているということや、身体的な予備力が低下しているということ、さらに本人さん・周りの人達の「もう年だから・・」という気持ち、そして「加齢」に加えて「障害発生」という「喪失の加重体験による悲嘆」などが原因となっているように思われます。
「できる」ことも「しない」のであれば、やがて「廃用性症候群」に陥って、本当に「できなく」なってしまいます。高齢者リハ・介護では、上記のような悪条件を持ちながらも「できる」ことをいかに「している」こととして実現していってもらうか?が大きなテーマとなります。
しかし、「できるでしょ?」と無理強いして「させる」のでは、何の問題の解決にもなっていません。「させる〜させられる」という関係はむしろ、本人さんにも介護者さんにも必要以上のストレスともなりますし、何についても「させられ人間」であっては人間の生きる姿として望ましいものではありませんね。
つまり、「できる」か「している」かということは、そのまま人として生きていく上での「主体性」の問題でもあります。「している」けれども介護者によって「させられている」のでは、「それで良し」という訳にはいきませんね。反対に「できない」けれど「必要な介助を受けながらしている」ということであれば、主体性は確立されているというべきでしょう。(IL運動がそれにあたります)
介護とは、排泄や入浴といった本来極めて個人的な行為に他人が関わるという点で重要な技術ですが、同時にこのような抽象的な意味合いにおいても極めて重要な問題を含んでいます。
傍目からは全く同じように介助を受けつつ排泄されている方が複数いても、本人さんと介護者の間での「している」「させられている」の違い、さらには「行為の主体性」という面からは、千差万別といってよいと思います。だから、全く同じ「排泄に必要な介助」という客観的状況があっても、そこに目に見えない解決すべき問題が潜んでいないかどうかはケースバイケースなのです。介護とは単に、「できる」とか「足りないところを介助する」とかの目に見えるところの問題だけでなく、むしろこのような精神的な・抽象的な問題が極めて大きなテーマであることを銘記すべきです。
『介護』とはそれを受ける側にとっても行なう側にとっても、技術の問題である前に『生きざまそのもの・生きていく姿勢』そのもののこと、と言って良いのです。