施設職員の皆様への緊急提言(平成10月24日)

車椅子安全帯使用についての行政指導〜皆様へのご質問とご提案〜

中間報告(平成10月30日)

中間報告2(平成11年2月8日)

一応の中締め(平成11年4月24日)

一応のまとめ(平成12年1月6日)

 いわゆる「抑制」の問題については私自身も「重大な問題である」との認識の基、このHPでも『あったかひだまり待合所〜特別出張室』の中で2つ目の話題として、また、『介護福祉機器のコーナー(7)車椅子抑制・安全帯について』で触れております。そして私が自身のHPに話題として取り上げると同時期に、社会的にも一つの事件が発生し、報道されました。

 多くの方々がご存知のこととは思いますが、その事件とは「N県S国立療養所において、医師の指示なしにベッド抑制が行なわれた結果、おう吐物を喉に詰まらせて患者さんが窒息死した。」というものでした。

 実はこのHPの発信地は、その「N県」内です。当病院では事件報道直後から「抑制」についての徹底した見直しが行なわれ、「改めてできる限り抑制は行なわないこと、そしてやむを得ず行なう際のルールの徹底」が確認されました。

 ところが、事件の影響は「老人保健施設」におけるケアにも及んできています。本日、私が非常勤で関わっている老健施設に対する県の「実地指導」の結果を聞く機会を得ました。そして「車椅子者に対する(腰回りの)安全帯使用は好ましくない」との「指導」がなされた、とのことです。(写真1)その結果、指導を受けた老健では車椅子座位保持で(起立による転倒や転落などの)危険が少しでもある方は、これまでのように安全帯使用で車椅子離床してもらうのではなく、いわゆる「寝かせきり」状態となってしまっていました。(安全帯使用以外にも、手段はあるとも思うのですが・・。)

写真1 いわゆる車椅子安全帯

 ひるがえって、当院の併設老健でも安全帯使用者さんはいらっしゃいます。そして安全帯を使用するにあたっては、ご家族のご了解をいただき、医師の指示を仰いだ上で使用しています。当苑の今年度の実地指導はまだですが、当苑でも同じようなことが指導される可能性が高いと思わざるをえません。そして私自身、行政職の経験からよく分かるところなのですが、あくまで「いけない!」とは言わずに「好ましくないですねぇ」という言い方で、(安全帯使用するもしないも)責任はあくまで「現場」に持たせようとする行政の姿勢には、「イヤラシイ!」と嘆息せずにはいられません。

 確かに「腰回しの安全帯」であっても、「拘束・抑制」であることは間違いありませんし、外見的にも見る人によっては「不快感」を感じるものであることは間違いありません。可能ならば、一人の入居者に一人の職員が付きっきりになり、安全を確保できればそれに越したことはありませんが、行政の定める「職員配置基準」では不可能です。そのような状況で、どうしても安全帯を使用しなければ安全が確保できない場合、上記のような手続きを踏み安全帯を使用するのは「入所者ご本人様のため」であると思うのですがいかがでしょうか?

 もちろん、「機器のコーナー(7)」であげたような、「行動抑制として車椅子上で手首を縛る」というような方法は「不適切」であることは間違いなく、行なわれてはいけないものと考えますし、腰回しの安全帯であっても現場で勝手にのべつまくなしに使ってよい、というものでもないことは間違いありません。

 ここ10数年の時間をかけていわゆる「寝かせきり」の害が広く認識され、ようやく「離床の促進」が「常識」となりつつある今、このような形で「寝かせきり」が「復活」するのはたまったものではありません。

 そこで私自身は当苑スタッフに対して、以下のように対応しようと提案するつもりです。


 実地指導で「車椅子安全帯の使用は好ましくない」との指導がなされた場合、当苑の見解として、以下の通り行政側に伝える。

『当苑における車椅子安全帯(等)の使用は、安全確保のための「最小限」の「拘束手段」を、ご家族のご了解と医師の判断・指示の上に用いているものであって、あくまで「ご本人様のため」の使用である。「好ましくない」のは確かであるが、だからといって安全確保のためとしていわゆる「寝かせきり」とするのは、むしろ社会的に責めを負うべき事態と考える。従って、「使用してはいけない」という指導がない限りはこれまで通り当苑の責任において、必要な方には車椅子安全帯を使用していく。』

 そのようにしっかり伝えた上で、行政の態度を見極める。


 これは現時点での私個人の感慨であって、当苑スタッフ・施設長の賛成が得られるかどうかは分かりません。しかしまずは「身内」に対してから、働きかけようと思っています。私に実地指導の内容を伝えてくれた老健さんのようにはしたくありません。これでは「仕事で楽をしたい職員」だけが喜んで、「前向きな職員」はやる気を失っていくばかりになってしまいます。

 そこで、この一文を読んで下さっている皆様へ、ご質問とご提案です。

ご質問:皆様の施設の中で、文頭の事件報道(晩夏)後、実地指導を受けた施設さんでは、この「車椅子安全帯の使用」について、何か指導がなされましたか?上記行政指導は、「事件の地元」であるが故の「いささか過敏な反応」という面もあるのかもしれません。あるいは、全国的に「横並び対応」なのかもしれません。その辺りは実際どうなのでしょうか?ぜひとも皆様の地域の情報をお寄せください。

ご提案:もしも皆様の施設に対する「実地指導」で、ご紹介したのと同じような指導がなされた場合、上記「対応」を「施設の方針」として貫きませんか?もちろん、「最低限の拘束方法であること」「ご家族の了解を得ていること」「医師が判断し指示していること」ということは満たしていなければいけません。

 また、この一文全体に対して異論反論のある方がいらっしゃいましたら、それもぜひ聞かせてください。例え意見が異なっていても「建設的な議論」は大いにすべきだと思います。

 もしも私の皆様への質問に対してある程度のご返答がいただけたら、時期を見てその結果もご報告します。また、当県内でこれまでに行なわれた実地指導の内容も個人的に調べようと思っていますし、その結果もご報告いたします。最後に、(例年であれば)1月に行なわれる当苑への実地指導の結果についてもご報告するつもりです。

 以上、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

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中間報告(平成10年10月30日)

 「車椅子安全帯使用への行政指導」の件で、お手紙やコメントをお寄せいただいた多くの皆様、ありがとうございました。今回は同じ問いかけを、@ニフティサーブの在宅ケアフォーラム、A自身のHP、BHP『50を過ぎたらパソコンで遊ぼう〜介護にまつわる掲示板「あったかひだまり待合所」』(http://www.mahoroba.ne.jp/~tani/matiai.html)にて、呼びかけさせていただきました。まずは中間報告として、以下の通り報告いたします。

  1. 北は北海道から南は九州福岡まで、老人施設における「車椅子安全帯」の使用について否定的な指導がなされたという報告は一件もありませんでした。(もしも経験された方がいらっしゃいましたら、今からでもお知らせいただけるとありがたいです)
  2. 「ベッド拘束による窒息死事件」の地元である当県内の状況について電話などで聞きまわったところ、(1)昨年度(拘束窒息事件前)から「好ましくない」との指導を受けた。(2)今年度の指導において、「好ましくない」との指導を受けた。という施設さんが複数あることが分かりました。(喧嘩腰になった、という施設さんもありました。(^_^; )
  3. 指導は「監査作業中のやり取りの中」でのみ指摘された、というところがほとんどでしたが、ごく最近実地指導監査があったところでは「文書指導内容」として記載もされた、とのことです。

 当県内において昨年度のうちから指導があったとなると、直接的に事件の影響で指導がされ始めたというのとはちょっと違うようです。ただし昨年度は指導が無かったのに今年度はあったというところもありましたし、文書指導も最近になって行なわれているので、やはり事件の影響で指導が強まっている、とは言えるようです。

 事件前から「安全ベルトであっても“拘束”するものは好ましくない」という指導がされていたということについては、当県担当官さんの「先見性・先進性」として、むしろ評価すべきことなのかもしれません。また、はじめから「安全帯は一切使用していない。」という施設さんもありました。起立転倒や転落の恐れのある方は職員の側にいてもらう、畳上で過ごしてもらうなどの対応をしているそうです。ただし、それは施設構造やそのような入所者さんの人数割合にもよると思います。(もちろん、施設全体や個々の職員の問題意識によるところが最大の要因かもしれません)

 行政指導としても「絶対使用してはいけない」と言っているわけではありませんし、やはり「できる限りは使用しない」努力をしてそこを見てもらいつつ、どうしようもない方にはご家族・医師の了解指示のもとに使う、そして監査の時には遠慮なく意見を述べ合う、というようにしていくしかないようです。(監査当日だけは使わずに“隠す”という有効、かつ姑息な手段はありますが…(-_-;) )

 ただし、この問題は単に「指導があったか無かった?」という問題ではありません。時によっては安全帯を使用せざるを得ないような人員配置基準になっている国の施策の問題でもありますし、反対に現場の問題として長時間テーブル前に車椅子のままで“放置?”したり、電波発信器で徘徊老人の行動を管理したり、そもそもドアが“施錠”されていたりするのは(マスコミや行政が問題視するしないはさておいて)どう考えればよいのか?というお手紙もいただきました。目の前の「実地指導監査」だけを意識するのではなくて、そういうより深い所から問題を捉え考えていこうという姿勢は大切だと思います。

 「行政側と現場側での徹底した話し合いの場は持てないでしょうか?」とのご提案・お手紙もいただきました。上記のような姿勢で、指導する立場の行政さんと対立関係に陥るのではなく、あくまでよりよいケアの実現のための「建設的な関係」でいたいものだとつくづく感じています。

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中間報告2(平成11年2月8日)

 さて、実は当苑での指導監査時は一切この「抑制」についてのことは触れられず、やぶ蛇になるのが嫌でこちらから問い合わせもしなかったので「さて、HPはどうしましょ?」と思っていたのですが、2月8日になって新聞に以下のような記事が掲載されました。長文になりますが、掲載します。


■痴ほう老人の身体拘束禁止──介護保険で有料ホームなど運営基準に条項──厚生省方針

 痴ほう症などで介護の必要なお年寄りに対して、事故防止などを理由に広く行われている「身体的拘束」について、厚生省は7日、「人権侵害」と位置づけて禁止する方針を固めた。お年寄りの手足や腰をベッドや車いすに縛りつけることについては、人権侵害であるとの批判がある一方で、医療者側は治療上必要だと主張し、国も明確な位置づけをしてこなかった。同省は2000年に導入される介護保険制度での共同生活介護(グループホーム)や有料老人ホームなどの運営基準に禁止規定を設けることを8日に開かれる医療保険福祉審議会の部会で提示する。今後、老人病院や老人保健施設などの施設へも適用を広げる意向だが、医療者側からの反発も予想される。

 お年寄りの手足や体をひもなどで縛る身体的拘束は「抑制」ともいわれ、医療現場や老人ホームでは、(1)転倒や徘徊(はいかい)を防ぐ(2)点滴のチューブなどの引き抜きを防ぐ(3)汚物をいじらせない(4)問題行動や迷惑行為の心配がある――などを理由に続けられている。

 正確な統計はないが、夜間にお年寄りを縛って拘束している老人病院や老人保健施設は珍しくない。また、最近では、寝かせきりはよくないという認識が広まったために、ベッドに体を縛りつける拘束は減りつつあるが、一方で座らせきりにする拘束が多くの施設で行われている。

 立ち上がると転んでけがをするとして、ベルトなどでお年寄りの体を車いすに固定させ、座らせたままにしている。中には、お年寄りを座らせたままの車いすを、柱に結びつけているケースもある。

 しかし、身体的拘束は患者の自尊心を傷つけ、問題行動を増幅させるだけでなく、関節のまひや床ずれ、全身衰弱を起こしやすく、痴ほうも進行するとされる。

 医療現場には、人手不足や施設の問題などから「必要」との意見もある。しかし、専門家によると、ベッドからの転倒はベッドを低くして床にマットを敷くことで防げるほか、点滴や栄養を注入するチューブの引き抜きも、お年寄りの目につかないようにそでの下に通したり、スタッフが見守ったりすることで防止できるとしている。

 全国的にはまだわずかではあるが、「拘束」をやめた病院や施設もあり、お年寄りが明るくなったほか、問題行動が減るなど痴ほうが軽くなったという結果も出ている。

 全国老人保健施設協会の山口昇会長は、「患者や老人の人権という面から考えると当然のことだ」とする一方で、点滴をする場合に、針がはずれるのを防ぐために腕を縛ることもあることを例にあげ、「医療行為を行う場合、どこまでが拘束なのか、例外をどこまで考えるかということが議論になるだろう」としている。


 う〜ん、縛りたくて抑えつけたくてやってることではない。禁止するなら縛らなくても良いような人員配置を保証して欲しい。

 皆さんは、

 @「転んで頭を打ったり骨を折ったりされるかもしれないけど、抑制しません。(できる限り職員がついて安全確保します)」 

orA「できるかぎり苦痛の少ない方法で安全確保のための抑制を必要に応じて最小限に行ないます」(拙HP機器のコーナー(7)のよう   に(^_^; )

orB「抑制もせずに安全も確保するために、薬を使ったり意図的にベッド上に閉じ込めて、寝たきりになってもらいます」

 どれを選択しますか?(施設職員・ご家族・ご本人それぞれの立場だとしたら・・)上記新聞記事が現実となりAが不可能となるならば、せめてできる限りの努力とともに@を選択する施設さんが多いことを祈りたいのですが・・。稀にでもそのために「施設を訴える」なんてことも想定され、Bに流れてしまうということにもなるかもしれません。


一応の中締め(平成11年4月24日)

 さて、「介護保険施設における一切の抑制禁止」という“厚生省方針”は、予想通り大きな波紋を社会に投げかけました。報道から2ヶ月半たって、そろそろ私なりの“意見・見解”をまとめておこうか?と思います。実に様々な思いが頭の中で交錯しますし、その範囲も実に広くなってしまいますから、少しでも読みやすいように箇条書きふうにまとめておきます。箇条書きの上で、それぞれについて改めてコメントを加えていきます。以下の文章では、「国・マスコミ・医療・介護」全てが「悪者」であるかのような表現になっています。しかしそれは私の本意ではありません。私は自分だけが正しいと思っているわけではありません。私自身も含め、要介護の高齢者を取り巻く社会情勢・社会システムの一つ一つの問題を具体的に指摘しているだけのつもりです。

@「抑制は是か非か?」というような「抑制問題」だけに問題を限るのは、何の問題解決にもならない。「抑制問題」は、介護の現場が抱える「根本的問題」の表れの一つでしかありません。

 これは、最後のEでまとめてあります。

A「抑制問題」も、以下に例示するような「その他の問題」も、「人権」だけからの問題としてとりあつかっても問題の解決にはならない。

 そもそも、「人権」ってなんですか?言葉を変えて「QOLって何?」とか「人間の尊厳って何?」と言い換えても構いません。これらは理念であって決して数値化できるものではありません。それからこれは大切なことですが、その理念は各自一人一人違うもので共通の判定基準や価値レベルがある訳ではない、ということです。

 人はなぜ「基本的人権」を有しており、それはなぜ保証されているのか?単に憲法にそう書いてあるから、とか、国連がそう宣言したから、ではなくて、なぜ憲法にそう規定され国連が宣言しているのか?その根本的な所の理解見解がないと、「人権問題」に触れることはできないし、触れても底の浅いものにしかなりません。私自身はそれはあくまで「宗教(キリスト教)の問題である」と思っていますが、この点についてはここではこれ以上深入りしません。(ただ、同じパラダイムで“脳死〜臓器移植”“インフォームドコンセント”“日本における親子心中問題”“ソーシャルワークにおける自己決定権”“自衛隊と憲法9条問題”など、実に多くの問題が「見えてくる」ということは指摘しておきます。)

 で、話を具体的にしてみます。

 この件についての厚生省見解もマスコミの論調も「抑制は人権侵害である」というものでした。ですが、そもそも痴呆患者に同意を求めず一定の方針を持った治療投薬やケアが一方的に行なわれるのは「人権侵害」ではないのでしょうか?(昔、寝たきり老人を離床させるのは“人権侵害だ”という意見がありましたね。)病棟や療養棟が「施錠」してあるのは「人権侵害」ではないのでしょうか?(中間報告のお手紙の通りです。施錠されたドアをガチャガチャやっている、あのストレスは大変なものでしょう。)老人病院にしろ老人施設にしろ、きちんと本人の同意のもとに入院・入所しているのでしょうか?(→ 思索のコーナー(15)騙さないでください、隠さないでください)本人の同意なし入院入所できるのは、救命救急以外では「精神病院入院に医療保護入院する」以外には、法的に認められていないはずです。(そしてその場合は、県知事への届出が必要です)そうなれば、ほとんどの入院・入所者は「人権侵害の結果としての入院・入所がほとんどである」ということではないでしょうか?もう一つついでに、「抑制を無くす具体的方法」として広く報道された「ベッドから落ちないようにベッドを2つつなげ並べて寝かせる」って、単なる「ベッド上への閉じ込め」であって「転落する自由も奪う人権侵害じゃないの?」と皮肉りたくなります。

 かように「人権」だけを論拠にすると、ドツボにはまる、と私は考えています。抑制だけを人権問題扱いして、例えば↑のようなこと(他にもいくらでも上げられる)を問題としない、その神経が私には理解できません。それは「人権問題に取り組んでいる」のはなくて、単なる「ご都合主義」ではないのでしょうか?

(くれぐれも、私はだから「施錠反対」とか「一方的治療・ケア反対」とか「ベッド2つ並べるのは人権侵害」と言いたいのではありません。「人権」だけを論拠にするのなら、そうならなければおかしい、と言っています。)

 だから、人権だけを声高に叫ぶ人は、世間じゃなんとなく疎ましく思われるじゃないですか?それで当然、だと思いますよ。いったい何が大切なのでしょう?「人権を守った」という実績・自らの実感が大切なのでしょうか?それで実際に生じる不利益はどうでも良いのでしょうか?(まぁ○○新聞さんはそうだよなぁ、それだけがウリだもんなぁ。)

Bこの2ヶ月半の間の、この問題についてのマスコミの扱い方はほとんどが、「現場」を萎縮させ、やる気を失わせるだけのものにしかなっていません。

 マスコミの(代表的な)扱いも、まさに「ご都合主義」としか言いようのないものでした。(・・でした。というのは、早くも大手マスコミは、取り上げなくなってきているから。無責任!)現場を知らない知ろうともしないレポーターが、実際に腕を縛られ「人間としての尊厳を傷つけられました!」と絶叫したり、「介護の貧困の象徴!」という表現をしたり、いつもは「国・厚生省」を悪者扱いする大手マスコミが、今回ばかりは「お国・厚生省万歳!」と「現場」を悪者にしてくれました。

 良くないことということくらいは、多くの現場の人間は感じています。なぜ、良くないと分かりつつも無くならないのか?そこを突っ込まずに、ただひたすら現場を悪者扱いしてくれたものだから、現場で「心ある人ほど」黙り込み首をうなだれてしまいました。「そんなんどうでもいいやん!」という方は、今でも元気に抑制して回っていることでしょう。

 それにしてもマスコミが大合唱した「日本の介護の貧困」というのは、「介護技術の貧困」?「介護に対する国の施策の貧困」?それとも「介護についてのマスコミの認識・取り上げ方の貧困」のことでしょうか?

C「介護保険施設における一切の抑制禁止」という“厚生省方針”は、私には「介護保険料徴収」という一般国民への「ムチ」に対する「アメ玉」としか感じられません。きちんとした現状把握も分析も行なわず、具体的な解決のための指針・方法も示さず、単に「発表」だけで「ウケ」を狙うだけの安易な方法のように思えます。(多くのマスコミは、それに見事に乗っかり踊ってくれました。その結果がBですね。)

 まぁ、お上に具体的な解決方法を教えてもらおうとは思いませんし、ふりかえってみれば「法人保健法改正に伴う老人医療費有料化」(昭和59年)というムチの代わりにアメ玉として与えられた「老人保健事業」(市町村での機能訓練事業など)が、今や介護保険法をせめて「つくろう」重要な制度になりつつあります。(ほとんど無料で重障度に関係なく参加でき、介護保険で欠落している“悪化予防効果”が大きい)

 せめてそういうふうに、制度を真に意義あるものにしていく力を秘めているのが現場です。

 これは、「またか・・」という嘆きでもあると同時に、「またどうにかやっていくさ・・」というシタタカサを思い起こそうという檄でもあります。(^_^;

Dただし、私自身は介護現場における抑制を全廃することは不可能ではないと思います。同時に、社会システムなど現状のままで今すぐには無理、としか言いようがありません。結果として一見実現できたようでも、必ず別のひずみ・無理をしての上、ということです。

 確かに抑制を全廃することは可能だと思います。ただし、それには今現在行なわれている「抑制の実態」を見つめ、その目的理由を明らかにして、抑制以外の手段で解決していかなければいけません。そのためには施設構造も含め、現状からみれば根本的な発想の転換が必要でしょう。このあたりはEにつながります。

 ただし、それは夢にしか過ぎません。現実1年後に突然抑制が全廃できるとしたら、これはよく指摘される「薬による抑制」やAの最後で述べた「徹底したベッド上閉じ込め」などによる実現でしかないでしょう。(まさか一部で囁かれる“アブなそうな人への入所拒否”はないと思いたいですが・・)

E「抑制問題」の本質は、おそらく既に拙HP内で別の形で触れています。それは、「思索のコーナー(5)“ぐちゃぐちゃ混ぜこみ食事介助”の投げかける問題〜介護と医療との関係(医療を介護のモデルにしてはいけない!)」です。

 抑制問題の本質は、私は以下のように考えています。(つまり、ここまでは全て前フリ・・(^_^; )

 思索のコーナー(5)でも述べた通り、介護は医療をモデルとしてきました。抑制という手段もその具体例の一つです。しかし、介護が介護としての独自性を確立していく途上で、明らかに医療とは異なる価値観や目的を持つようになってきました。それは「主体性の確立・尊重」ということであり、「快適な生活の提供」ということです。理念が先行して手段は(救急)医療現場で用いられてきた方法がそのまま用いられ、独自の価値観や目的に即した方法論を作ってこなかったこと、あるいはそのことへの無自覚、それが「問題の本質」だと思います。

 なんで未だに介護は、(組織図上では大抵の場合)医師の下で看護の下なんでしょう?「そりゃ学歴の順番さ!」というのがその答えですが、組織管理はそれでよいでしょう。介護の現場・介護の仕事でまで、つまり業務管理までがその通りなのは、介護の理念が未だに(総体としては)「空念仏」でしかない、何よりの証拠だと思います。

 もちろん、医師も看護もリハも介護も、個人ごとに見れば熱心に心砕いている方は沢山います。しかし例えば介護保険における要介護度判定において、「かかりつけ医の意見書」が重視されるのに、以前から訪問している「訪問介護者の意見」が重視されるというルールがないことに、「危惧」を感じているのは私だけではないでしょう。あくまで総体として、ですが、医師にどれだけ「家族の介護負担」が分かるというのでしょう?医師(それに看護やリハビリ者)にとって、「介護」なんて単なる「医療の後始末」の「やりがいのない仕事」というのが「一般認識」なのではないでしょうか?

 改めて「思索のコーナー(5)“ぐちゃぐちゃ混ぜこみ食事介助”の投げかける問題〜介護と医療との関係(医療を介護のモデルにしてはいけない!)」で投げかけさせていただいた趣旨を述べさせていただきます。

 組織管理上はともかく、業務の上で介護が(従来の)医師・看護・リハビリの下で動いているようでは、似たような問題はいくらでも繰り返します。医療の場から持ちこまれた方法論をそのまま介護の手段とするのは、もうやめましょう。介護を医療の後始末という位置から、全く独自の価値観と方法論を持ったものにしていかなければなりません。その際に医療や看護法やリハビリは、役立つ部分のみ「介護の一手段」として取り込んでいけばよいのです。(このHPの多くの部分はそういう内容のつもりです)しかし、「典型的な抑制」はその中には入りません。

 鼻腔栄養や点滴や浣腸処置の前に、まずはそういう「特殊」な方法を用いなくてもよいようなケアを実践しましょう。それだけで抑制の何割かは不必要になります。靴と車椅子でないとくつろげないような施設環境も考え直しませんか?必要な方は車椅子でも、寝転がりたい方やいざる方・四つ這いする方でも、抵抗なく冷たくない床材(つまり職員も裸足で抵抗ないような床材)にすることはできないでしょうか?(これは後ほど、リンクのコーナー『身体に機能障害が出た時の住環境』の建築設計士:植田さんのご提案を紹介します。)車椅子からフラフラ立ちあがって転倒する、という方なら初めからそういう床材の上でいざって貰えば、しょせん?立ち上がることはできません。それでも抑制の何割かは不必要になりますね。(もちろん、そういう方への介護法や食事環境も別に考えることが必要です。)

 夢でしょうか?甘いでしょうか?しかし、「やっていく」しかないのではないでしょうか?なに、結論を急がなくても、遠い将来の「介護」の目標として夢を描き、今日明日できることをやっていきましょう。

追記:一部マスコミさんは、あくまで「問題の本質」に迫ろう、という気を見せてくれています。わずかながら私自身もその取材に関わっています。その件についても、後ほどまとまった形でご報告できれば、と思います。上記「一応の中締め」の内容は、「電子メールに応える形の取材」として、記者さんにすでに書き送った内容でもあります。ボツだろうなぁ(^_^; 長いもんね。

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一応のまとめ(平成12年1月6日)

 もう既にかなり前なのですが、HPに“このページ”があることや、「車椅子抑制帯・安全帯についてのページ」があることについて、「こんなページの存在こそが、抑制を無くそう!という決心のなさの表れだ!なぜ、抑制は全廃しよう!と訴えないのか?このページの内容は、抑制全廃はできないという場合の言い訳の典型例の羅列だ。」というかなり辛辣なご批判をいただきました。ご存知の「福岡宣言」に賛同する施設も増えてきており、私なりの“結論?”をまとめなければいけません。

 まずは正直に申し上げなければいけません。私自身の職業歴の中で、「抑制は一切していない!」と胸をはって言えるような施設勤務をしたことはありません。限りなくゼロに近づけた瞬間はあっても、完全にゼロになったということは無かった、と思います。ですから、福岡宣言に参加し、確かに抑制は一切していませんという施設さんには深い敬意を感じます。

 また、このページを初めてアップした時期(平成10年秋)の段階で、「全廃なんてできるのか?」というか、そもそも「何が何でも全廃する」という発想が無かったことも事実です。社会情勢の変化や上記のようなご批判によって、私自身もかなり変わってきたことも間違いありません。

 そして、抑制を無くしていく努力は最大限にしていかなければいけないということ、それも間違いないと思います。

 ただ私は未だに、迷いつつもどうしても「抑制は絶対にしないと決心しよう!」とHPで皆さんに呼びかける気にはなれません。それは、私自身が実現できていないくせに…ということとは別に、どうしてもそう単純に言いきれないものを感じていたから、です。

 それは…

  1. 医療施設をモデルとした現在の施設職員配置基準のままで、医療でもできていないことを“介護”に押しつけてよいのか?
  2. 物理的な抑制(縛り付け)だけに注目して、他の問題を見落とすことにならないか?
  3. 全廃に至るまでの過程で介護職の皆さんの負担があまりに大きすぎないか?(@とも関連しますが…)
  4. 「抑制は一切しない!」という思考パターンは「教条主義」ではないのか?教条主義を介護という場面に持ちこむことへの抵抗・不安。
  5. 物理的にも人的にも環境に制限のあるご家族さまが在宅場面で何らかの「抑制」を用いざるを得ない時、よりご家族様を「追い詰める」ことにならないか?

 などにまとめることができると思います。でも、私自身の中でも多くの方々のご教示をいただきながら、上記のような事柄についてかなり整理がついてきたように思います。

  1.  @施設職員配置基準については、それでも確かに他とそんなに違わない職員体制で抑制全廃を実現している施設さんが増えてきているわけですから、とりあえず注目はしないことにしましょう。(でも、少しでも基準を増やしてほしいですね)
  2.  Aその他の問題、というのは、ヒモやベルトで縛らなくても薬や人の手で抑えれば同じことではないか?ということや、そもそも療養棟や病棟の入口に施錠がしてあること(ドアをガチャガチャやっていらっしゃる方もいますね)や、「騙さないでください、隠さないでください」のような現状、そういったことが見落とされることにならないか?という疑問です。
     このうち、薬や人による抑えつけは、物理的な抑制を全廃できるような施設におけるケアにおいては、同じように発生しない、と断言してよいようです。また、施錠されたドアに取りついている、という光景も、そういう施設さんでは見られないに違いありません。そして「抑制」を「心身機能を著しく低下させる」という点に注目し、定義づけて取り組んでいらっしゃるのが「福岡宣言」された施設さん方、と言ってよいと思います。
     抑制が無くなった!という現象にとらわれるべきではありません。抑制が全廃できたというのはあくまでも結果であって、それを裏付ける確かな介護技術が展開されていることこそに注目しなければいけません。
  3.  B介護職員さんの負担、これは確かに一時的には増えるようです。でも、すっかり抑制全廃できたような介護場面では、それほどの介護負担でもない、ということも間違いないようです。その一時の負担を介護職員さんにお願いできるか…?抑制全廃の経験のない私に、その資格があるでしょうか?
  4.  C教条主義については、単純明快に多少は無批判に教条主義的に取り組まなければ、これまでの常識は打ち破れないのではないか?という気がしてきています。
  5.  D在宅介護されているご家族への思いについて、これは確かに感じます。どう考えても、在宅と施設では環境が違いすぎます。施設介護において「抑制は悪」ということになると環境の違いから何らかの抑制的な手段を用いなければならないご家族さまは、なおさら自らの生活に「後ろめたさ」を感じさせ追い詰めることにならないでしょうか?
     施設ケアで抑制を全廃しているスタッフさんが在宅支援に関わることで、在宅場面でも抑制がなくなっていく、ということはあるそうです。でも、現状ではそれを全ての在宅場面で期待することはできないでしょう。(もちろん、そんな場面を増やす努力が必要なのは言うまでもありません)
     以下は「健康的な介護生活を営むための基本原則(9)自分の中の“魔”に向き合う、ということ」にもご登場願った、作家でもある久田恵さんの掲示板への書き込みです。

『人って、他者の「苦しみ」をわからなければいけない、とか愛さなければいけないとか、優しくなければいけない、とか思えば思うほど、自分の愛しきれない部分、優しくなりきれない部分ばかりが、自分の前に立ち現れて、苦しんじゃうんだよね。
 在宅介護の人が、「こうすべき」とか「こうあるべき」とか、正しい事を言われれば言われるほど傷ついちゃうのは、そういうことで。だから「正論」が怖いの。責められてるみたいに思えてくるのだもの。』

 私自身は職業人なのですから、あくまで正論を言っていればよいのかもしれませんが、このようなご家族の心情を知ってしまうとそうとも言いきれなく自分を感じます。甘いのでしょうか?

 「愛がなければ“抑制”、愛があれば“安全帯”」そう言ってくださった方もいらっしゃいます。ご家族さまにとってはその通りだと思います。でも、施設職員がそう言いながら抑制帯を使うことは許されないとも思います。

 また、「あんたは施設職員として施設内での工夫を披露して、家族には“ご参考に!”とだけ言う方がスッキリするよ!」と言ってくれた方もいらっしゃいます。ごめんなさい、これまた私の中でそう単純に割り切ることはできそうもありません。

 「在宅介護というのは、明らかな虐待以外は“何でもアリ”の世界なんだ。」という意見をお持ちの方もいます。また、「在宅介護している家族は、今日・明日を無事に乗り越えられるかどうか?が全てだ。(それだけご家族も切羽詰っており余裕がない)」という声も聞きます。確かにそうですね、「自分の中の“魔”と向き合う、ということ」(○ページ)のような感慨に触れさせていただくたびに、「このような自分の悩みは、実は小さなものではないのか?」という気もします。でも同時に、在宅場面であれ施設であれ、介護に何か一本通った芯のようなもの(価値観?)が欲しいような気もします。それが例えば「抑制しないで済むような介護」ということなのかもしれません。今の私には、どちらとも分かりません。

 でもやはり今後は、少なくとも施設ケアにおいては抑制を無くしていく方向に進むでしょう。それで良いのだ、と思います。ただ、その際に以下の点はしっかり踏まえておきたいものです。

  1. 一時的に介護負担は増える。ただしその結果として、「より良いケア」を実現していくことこそが目標である。
  2. 組織として取り組むべき作業であって、介護技術の問題であると同時に組織システムの問題である。従って、生じるかもしれない失敗や(転倒などの)事故を、「個人職員」の責任に帰してはならない。まずは施設トップが「決心」することが何より必要である。

 そして何年かしてこのHPを見た方が、「20世紀の終わりには、まだこんな抑制をしてたんですって!野蛮で嫌ぁねぇ!」なんてことが当たり前に言われるようになっていてほしい、施設でも、できれば在宅場面でも…、そんな風に思います。

 でも、少なくても現状では抑制を無くしていく手段を考えるきっかけとしても、やむを得ず抑制という手段を用いざるを得ない場面のためにも、「車椅子抑制帯・安全帯について」のページは(ご批判も覚悟の上で)このまま残しておきます。

 この件についてご関心のある方は、抑制全廃された上川病院さんの素晴らしい実践の報告である「縛らない看護:医学書院」を、ぜひご一読ください。この本の一節に『抑制禁止という厚生省令によって、抑制の85%は無くなっていくであろう。残りの15%をどう無くしていくかが問題だ。』というような一文があります。確かに拙HPでもご紹介しているような方法で85%は抑制せずに済むと思います。そこから先は、例えば私自身の決心や実践が足りずに、こんな私の今の存在自体が「残りの15%」なのか?何とも今はこれ以上の言葉は見つかりません。

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