☆ 日本の中の南北問題 竹佐古真希 今日はこのような場を与えられました事を、心から感謝しています。私は学生YMCAのスタッフをして、この春で満4年、4月からは5年目に入ります。 学生時代も学生YMCAに関わっていたけれど、私自身としてはむしろ大学を卒業して結婚し、スタッフをしてからの方が、学Yの本質や醍醐味を知り、そして今なお「日々育てられている」という実感があります。 学生YMCAでは「育つ/(とか)育てられる」という言葉をよく聞きます。とってもステキな言葉だけれど、噛み砕いてみるとどういう意味だろうか? 私なりの理解では、「育つこと=私が育てられること・変えられること」だと思っています。 スタッフとして学生を育てるのに関わっているようで、「自分は何者だろう? 私にとって学生YMCAとは?」といつも問われています。 そして学生が育つ現場にまさに立ち会える、本当に嬉しくて光栄な瞬間があります。その時きっと、同時に私も「育てられている」のだと思います。自分が変わることなしに、相手の変化を求めるのは、すごく難しいんじゃないかな? 話しは少し変わりますが、現在の共働スタッフの中で、たまたま私だけがインドにそしてアンブマナイ・ボーイズホーム(貧しい家庭の子どものための施設)に行っていません。これはスタッフを始めた時から現在まで、自分でひっかかっていたことでした。学Yでは「アジアの視点・南北問題」とよく言われていたけれど、海外にあまり行ったことのない私にとって、それはとっても分かりにくいことでした。 私の性格は意外と地味で積み上げ型の方だと思います。何でも理解して自分のものにするまでに、とっても時間がかかります。 学生YMCAの皆さんが感性豊かな学生の時に気づいたことを、私はスタッフになって今ごろゆっくりと気が付いていっているような状態です。 そんなのんびり屋の私が問われたのは、「私にとって学Yとは何だろう? どうして、関わり続けるのだろう?」ということでした。それを考えることなしにこれまでスタッフを続けるのは、ある意味で困難でさえありました。 スタッフをして1年目のとき、都市YMCAやYMCA同盟と合同のワークショップがありました。阪神大震災の直後でした。 内容的にはインプットばかりではなく、むしろアウトプットを求められました。そのプログラムに参加して、自分が何も持っていない・考えていないことにイヤでも気付かされ、本当に愕然とさせられたし、ショックでした。 それでも最終日には、自分なりのプランを発表しなければいけなかった・・。 それまで「何もない」と思っていた私。でも無いなりに、自分を取り巻く環境やこれまでの歩みなどをふりかえってみました。自己紹介のゲームで「自分のことをアピールして下さい」と言われ、私がようやく思いついたこと・・それは「今私は青森に住んでいる」ということでした。 それまでうまく言葉化は出来なかったけれど、結婚して仙台から青森に移り住んで、以前には経験したことがないような違和感や、びっくりすることにたくさん出会いました。 それはある意味で、インドやフィリピンに行った人が受けたような衝撃にも似たものと言っていいと思います。 例えば学Yの会議で、東京へ行きます。飛行機ではたった1時間ぐらい、しかも青森と東京は同じ本州と言う島の中で、距離にしても800キロほどです。 しかし羽田空港で降り立つとき、いつも軽いカルチャーショックのような、明らかに流れている空気の違いを感じます。これは何だろう?? 私にとって、まさにこれこそが「日本の中での南北問題」の出発点でした。言葉にするのにすごく時間がかかるタチなので、そのもやもやも、うまく伝えられないと「それは青森が田舎なんじゃない!」と笑い話にされて終わってしまいます。 思えばこれまで学Yの中で「アジア」と言われる時に、いつも私には違和感がありました。外国のことに目を向けるのはとっても必要。でも同じ日本なのに、青森と東京のこの落差は何だろう?? 日本がアジアの他の国で行なっているようなひどいことが、よくよく気を付けてみると日本のローカルでもたくさんあるじゃないか! 外国にあまり行けない私は、とことん日本の中のことに目を向けてみることにしました! 例えば本当にささいなことだけれど、毎日TVから垂れ流される東京中心の報道には、全くうんざりさせられます。東京に台風が直撃するときだけ大騒ぎするニュース。天気予報でさえ、東京中心。青森や北海道の人が冬場どんなに雪が多くて、雪かきが大変で苦労しているかなど、まるで関係ないかのようです。 ニュースで「今日は暖かくて、桜が満開です」という時、九州では既に桜は散っているし、青森ではまだまだ咲いていません。 私たちは下手をすると「日本はどこも一緒だ」と思っていないでしょうか?日本は狭いようで、天気や気候でさえ本当に千差万別です。 また例えば何気ないお店の内装や外見、駅の建物、交通の便利さ・・ひとつひとつローカルと大都市圏を比べると、あまりにも違いすぎます。豊かな地域はますます栄えて便利になり、貧しい地域はどんどん奪われていく・・。 それは、ローカルに力がない/貧しいからなのだろうか? WSCF(世界学生キリスト教連盟)で昨年「移住労働者」の問題を取り上げたそうです。京都大学YMCAの金津くんの報告を読みましたが、大都市圏に出稼ぎに行く地方の人の状況とあまりにも似ていて、私はとても驚きました。 どうしても青森の話しばかりになってしまって申し訳ないのですが、1つのケーススタディーとして聞いてください。きっと皆さんの周りにも似たようなことがあると思います。思い起こしてみてください。私も青森に来るまで、気づかなかったことがほとんどです。 青森では目立った産業がないので、職が無かったり収入が少ないために、今でも大都市圏に出稼ぎに行く人がいます。そのために家族は離れ離れになり、年中空き家状態になっているウチもあります。冬に人気のない家が雪の中に埋もれている情景は、本当にわびしいです。 しかも出稼ぎは季節労働者なので、日本に来る移民労働者の人と同じように、あまり身分の保証がされていません。 お金になる仕事は、どうしても体を使う危険な仕事が多いので、出稼ぎ先の事故でなくなる方も少なくありません。年齢も50歳を過ぎると、出稼ぎに行きたくてもなかなか仕事がみつからないようです。 日本の中でも貧しい方の県だと思われる青森の中でも(具体的には、沖縄に次いで低所得の県と言われています)、地域によってやはり格差があります。私が住んでいるのは浪岡町と言って、りんごやお米など農業が主な生産物です。目立った仕事や経済はありません。 浪岡に住んで間もない頃、以前住んでいた同じ宮城県の農村に比べても、「何とここは貧しい地域だろう」と思っていました。しかし必ずしもそうではなかった。 これは私の勝手な解釈なのですが、日本が貨幣経済になる前までは、お米を年貢に納めていましたよね? だから「お米が取れる」というのは、ある意味で安定した生活が出来るということなんですよね。 ある時、青森県内の本州のはずれ竜飛岬のある津軽半島や、六ヶ所村のある下北半島を訪れる機会がありました。そこのわびしい物悲しい風景を見て、私はそれまでの「津軽は貧しい」という感覚を、改めざるを得ませんでした。 漁業中心の町の様子は、住んでいる家、街の様子・・・それを見ただけで、農業中心の街よりもさらに厳しい生活が容易に想像出来ました。共同体としても農村よりもいわゆる漁村の方が、ずっと連帯意識が強く、あまり変わったこと・目立ったことが出来ないそうです。 その点まだ農業の方が、例えば有機農法やインターネットのホームページを利用した産直販売など、その農家の裁量やアイデアで自由な農業や経営が出来るそうです。 いわゆる「漁村」に比べると、浪岡は弘前や青森市など文化圏にも近いので、孤立感や貧しさはずっと薄いです。 青森だけを特殊化するつもりはありません。本当にこのような問題は、アジアの他の国に行っていくらでも見聞きできるぐらい、同じように日本の中でも見えにくくはあったとしても、たくさんある問題だと思います。 東北や青森、沖縄、北海道などその他の地域で見られる過疎化・日本の歴史の中でずっと追いやられ痛めつけられてきた人々のさまを見ると、今までは「アジアの国で行なわれているひどい出来事が日本でも行なわれている!」と思っていたけれど、最近では逆かなと思っています。 「同じ日本国内でさえ、こんなにひどい開発や人々を痛めつけるようなことが平然と行なわれている。だから哀しいけれど、他の国の人に対してはさらにひどいことが平然と行なわれているのかもしれない・・。」 2月に出張で名古屋に行きました。その帰りに長倉くんの案内で、初めて大阪の釜ヶ崎を訪れました。あの時の衝撃は、未だに忘れられません。 新今宮と言う駅で、降り立った私の前に広がった風景は・・。男性ばかりのグレーのモノクロの街でした。以前にWSCFのワークショップでフィリピンに行く機会がありましたが、まるでマニラの街にタイムスリップしたかのような錯覚に陥りました。駅から横断歩道をわたり、男性ばかりがいっぱいいる釜ヶ崎の街を長倉くんや李さんと歩きました。私はほとんど言葉を発することも出来ませんでした。 「釜ヶ崎に行くなら、あまり派手な格好をしない方がいいよ。女性が行くだけでも目立つよ」という言葉の意味が、ようやく理解できました。 その時の衝撃は、地方の貧しさや理不尽さは理解しつつあった私ですが、きっと「関西という都会の隙間に、このような光景が繰り広げられている」ということだったのかなと思います。 最後に、少しだけ私の住まいの話をさせてください。 今私が住んでいるのは、小さな教会です。連れ合いが牧師で、礼拝の出席者数は普段は5−8名ほどです。経済的にも自立をしておらず、日本キリスト教団の教区や地区と言うところから援助を受け、さらに牧師夫婦はアルバイトをする必要があります。 教会に集うメンバーは、どちらかというと「社会的にも弱い立場の人」が多く集っています。 そんな浪岡が、学生YMCAの中で「ガンダーラ」と言われるほど、いろんな人が訪れ、「場」として用いてくれるようになりました。本当に何もない(それが魅力でもあるのかもしれませんが)浪岡に多くの人が訪れ、疲れを癒し元気になって帰ってくれます。 「不思議だなあ。ありがたいなあ」と思いつつも、誤解を恐れずにあえて自分が日本の中の南北問題の「南側」に住んでいると仮定するとしたら、次のような願い・思いがあります。 「どうか浪岡や私たちを理想化しないで欲しい。ガンダーラやユートピアにしないで欲しい。一方的な思いを託さないで! あなたは浪岡と、これからどう言う関わりをしてくれるの?」。 2−3日滞在するのとはまた違った、日常としての浪岡やこの地での生活があります。それは「雪がきれいだ!」と見とれる間もなく、朝車で出て帰ってきたら、雪かきをしないと家の中に入れない日々だったり、気持ちまでもが雪と冬にうもれ半年間の冬期うつ病になる人が出るほどの気候。 春が来ると大げさでなく、「ああ、この冬も乗り切れた! 生きている!」と心底思います。 これは「共に生きる」という話題にもつながるのでしょうか。必ずしもその地で生活することだけが「共に生きる」ことではないでしょう。その人なりのこだわりや関わり方があると思います。 六ヶ所村で「闘う農民」と言われる、小泉金吾さんという方にお会いしました。その地域の人は開発の波にのまれて全部土地を売り払って村を出てしまったのに、ただ1軒だけその地でとどまり、今なお闘いつづけている方です。 彼に会った時にその生きざまと迫力に、圧倒されました。そして以前沖縄の伊江島でお会いした、反戦地主の阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんと同じ空気・思いを感じ取り、「ああ、沖縄と六ヶ所はここでつながっている!」と本当に胸が熱くなり、励ましと慰めを受けました。 釜ヶ崎では金井愛明さんと言う牧師にお会いしました。彼の存在を思い起こしただけで、今でも涙が出そうになってしまいます。 「金井さんを通して、イエスがおられる!」本当に素直にそう思えました。彼の詳しいこれまでの働きはわからなくても、釜ヶ崎で彼に対面しただけでこれまでの働きやその存在意義が、本当に体からにじみ出ていました。 きっと私たちの近くに、あなたの近くにスレッシュさんやボーイズたち、金井さんのような人がいるのだと思います。ちょっぴりアンテナを立てて、まわりを探してみてください。 私もこれからまた皆さんと一緒に、見つけて・出会って行きたいと心から願っています。 (学生YMCAなんぼく問題出会い塾発題) 1999年3月23日 |