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●面白新聞(1982年1月1日・新春ニュースワイド)
〈1周年迎えた愛康舎〉
古くは佐渡が島に広大な牧畜場を有し、遂には酒で呑み潰した先代牛乳店の名を引き継いだ和文タイプの「愛康舎」が設立1周年を迎えた。社主である本間康二は、「いい仕事来ないかナ」と風前の灯で手を温ため、白金カイロを背負いながらひたすら寒い冬の通過を待っている。
〈国際障害者年終わる?〉
月刊障害者問題編集長の肩書を欲しいままにマスコミの一角に君臨していた本間康二も、昨年1年は国際障害者年に反発していかなる取材も拒否する強硬な構えでいたが、心配された取材や出演交渉はどこからもなく、マスコミの国際障害者年熱も冷めた現在、本間は強硬姿勢を解除し、「今後マスコミの取材には喜んで応じる」と語っている。
〈クロサワ作品放映せよ〉
印刷会社倒産で失業した年、「野菊の如き君なりき」の録画に惹かれて衝動買いしたビデオのライブラリーが、「駅馬車」「カサブランカ」「ジョーズ」など100本の大台に近づいた。しかし黒澤作品を16本買い込んだフジTVは昨年4月の「隠し砦の三悪人」以来黒澤作品放映をプッツリやめ、「フジは黒澤明の死を待っているのではないか」と疑る黒澤教信者の本間康二は、近く同局に抗議の爆弾を投ずる模様。
〈田中裕子恋人情報に涙〉
12月×日に三十路を迎え、ミニコミ編集、和文タイプ業と多忙な毎日を送る本間康二が、またまた「田中裕子を10年ごしの恋人から奪い取る会」を結成し、現在、田中裕子が主演する映画の原作小説を執筆中であるが、同小説の完成及び映画化実現は海のものとも山のものとも分らない状況である。
[後日筆者注:「田中健との噂」と聞きかじったものによるが、実は古手川祐子のユウコ違い]
〈本間康二・抱負を語る〉
紅白歌合戦に尻を向け、ガラ空きの銭湯で身を清めた本間康二はここ台東区東上野××××松竜荘内の四畳半で、今年もひとり新年を迎えた。年頭に当って彼の抱負を現地よりお伝えします。
「みなさん、新年おめでとうございます。いい年をしていつまでも一人でいると社会的信用もなくなりますので、今年こそ身を固めます。それまで、きれいなネエちゃん夜のボランティアに来て!」
●1985年わが家の重大ニュース(1986年1月1日)
暮れに34歳になり、吾は大器晩成方と開き直り、大輪を咲かせる日を夢見ております。
恒例「わが家の一年」です。
〈「シネ間」挫折〉
若いボランティア向けに開放したばかりの「四畳半シネ間映画会」が、その「四畳半」なる言葉の淫靡なるイメージからか客足冴えず、僅か3回目の2月にしてあえなく頓挫、月例会制をやめ以後は勝手予約制に徹す。乞御使用。
〈仕事場水難〉
4月、タイプを打つ仕事場の床が水道管破損による長期の漏水で腐り落ち、押入れから荷物を運び出す作業中には壁が崩れ洗い場との境界は一挙に青函トンネル開通式の場の如く筒抜けとなり、更には崩れ落ちた床下からミミズ這い出し、吾は真っ青、手伝いのボランティア達を大いに呆れさせた。
〈買ったぜ!LD〉
6月、宿願のレーザー・ディスクを遂に購入、「ネバーエンディング・ストーリー」他続々作品を入庫、年内には早くも30タイトルを超えるが、なぜか10枚に4枚は不良品が出るという状況、85年信じられないことの多かった中に「LDを見たら不良品と思え」の格言を加える。
〈猛暑にクーラー〉
7月、連日の猛暑に汗はダラダラ仕事ははかどらず、注文のLDをせっせと配達に来る電気屋の兄ちゃんの顔がその内クーラーに見えて来て、結局誘惑に勝てず仕事場にクーラー設置、その余りの快適さに別間は寝に帰るだけの部屋となった。
〈四畳半揺れる!〉
10月、「レイダース」録画中突如震度4・5の地震に見舞われ「さては東京大地震遂に来たか!?」と、僅か15秒間ほどの揺れに周章狼狽、戦戦恐恐、顔面蒼白、緊急避難の困難なる重度障害者には地震予知技術の実現が大いに望まれるところ、敢えてそれを実現しないのは人工削減・抑制をもくろむ国際的地球規模的陰謀があるのではないか。
〈「愛康舎」5周年〉
同じく10月、古くは故郷佐渡ガ島に広大な牧畜場を有し、果ては酒で呑み潰した先代牛乳店の名を引き継いだ和文タイプ業「愛康舎」が、ワープロ台頭の影響による苦しい一時期をも乗り越え創業5周年を迎えた(因みに吾は台東区在住10年、内会社勤め2年)。
●(1987年1月1日)
お元気ですか? 北風に向かって、僕はますます元気です。実は暮れに、9年間住み慣れたアパートを火事で焼け出されました。まずは恒例となった「重大ニュース」を。
〈行動圏拡大〉
近所の福祉会館の電動車椅子に乗って用もないのに区内を歩き回り、感動、今頃になって行動の自由の素晴らしさを実感。(5月)
〈体調異常・酒禁ず〉
右手にしびれが走ったり、腹調も最悪、職業病とじめじめ環境によるものか、ともあれ革命的酒断ちを2週間励行、思考スッキリ、腹調も快復。(6月)
〈温泉で命のセンタク〉
地元の仲間らと温泉旅行、雨の露天風呂にて混浴の幻想。7年と13年乗り続けた外用・中用の車椅子を新調、その余りの軽快さに外へ外へと心が向く。(7月)
〈パーマと海焼け〉
生まれて初めてパーマをかけ、ギャル大挙のボランティア合宿に合流、甲羅干しのやり過ぎで鼻の頭が赤むけ。この愉しき夏の到来と共に手のしびれも遠のく。(8月)
〈危うし!交通事故〉
夜遅く銭湯へ行く途中、バックした乗用車にぶつけられ生まれて初めて交通事故に遭い、足の打撲で生まれて初めて12日間の入院生活。実父の命日であった。(9月)
〈聴講生の7割女生徒〉
北区の、板橋駅を降りた所にある池袋商業高校で、400人以上もの生徒の前で「愛について」講演。(11月)
〈火事と引っ越し〉
夕刻、定食屋より帰宅直後隣室より出火しアパート半焼。多くの仲間たちの善意に支えられ3週間後、区内駒形のマンション10階に新しい“城”を構える。(月)
〈4年の沈黙破り……〉
新しい気持で新しい年を迎えました。地域に生きる事の意味を仲間たちの温い絆によって思い知らされ、命の尊さを痛感。その貴重な体験を踏み台に今年こそ雄飛、“街”をテーマに雑誌発刊事業を始め、若者の孤独をいやし、年寄りも障害者も安心して生きられる台東区目指して果敢に行動を展開します。因に今年は兎年、年男なのでアリマス。皆さん、見ていて下さい。
[後日筆者注:火事により火災保険600万円が入り、超・ハイな気分になっていた。「雑誌発刊」もそこからの発想で、当然かけ声のみのこと]
●(1988年1月1日)
マンションは腰掛けと言うが、障害者がそんなこと言ってたらいつまでも地域に根づけぬ。「家は城」の考えで1987年は城作りの1年。
1月21日、内装完了、友人の表具師の手で新居同然に。
2月2日、この冬初めての降雪のこの日、電気炊飯器を買って自炊生活に突入。
2月4日、新宿の都心障センターで電動車椅子交付の判定にパスし、10日、新品の自家用電動車椅子を得る。
地元の親しい仲間と毎月9日に集まって呑み会する「九の会」の第1回目は3月9日。会費はなし、ただし一人分の酒・ツマミを持参するのが条件である。
4月12日、ワープロを買う。これまではタイプの仕事を奪った仇だったが、文章書きにこれほど強力な味方はない。
14日にはVHSのビデオデッキを買ったが、ベータを裏切ったわけではない。雨後の竹の子のように出来たレンタルショップのビデオを見るためだ。巷の主流はベータに非ず。
社会的にもいろいろあったが、5月3日の朝日新聞襲撃テロは断じて許せぬ。
旅行には2回行った。23・24日は信州上山田へ。ただ、これは区主催による障害者家族とボランティアの超団体旅行。福祉会館で顔を合わす面々がいっせいに大移動したような感さえあった。
6月6日、和室の窓ガラス4枚すべてを素通しにし、窓一面に台東区のほぼ全景が見渡せるようになった。
15日、座敷ワラシに商売道具の活字を1本イタズラされ、仕事を30分も中断させられた。時々悪さをして困る。ただ、俺を守ってくれてるのもあいつかも知れないナ。
7月4・5日は呑み友達と軽井沢旅行へ。
25日の隅田川花火は、花火の間、マンションの出入りをチェックする一律500円の特別警備料金を取られながら、11階の屋上は隣のビルの給水塔に邪魔されてみえにくく、かえって下の通りからの方がよく見えるという皮肉な結果。
そして8月2日は長岡まで足を伸ばし、市内はずれの土手から三尺玉花火を見物。帰りの渋滞を案じ、2発のうちの1発しか見られなかったが、夜空一杯に広がるド迫力。
品切れで入荷が遅れていた衛星放送受信器は27日になって入った。ビデオライブラリーがますます増えるゾ。
電動車椅子の大敵は段差だ。たった一段で入れない悔しさ解消のため、業者に特注したスロープ用のアルミ板が9月19日に完成、それを車椅子に取り付け、20日、高校・大学生ギャルと原宿ボランティア体験に参加する。
11月3日、大勢の仲間と準備してきた下町雑居祭「みんなのひろば祭」が、奇跡的な好天に恵まれ入谷南公園で盛況。
25日、車椅子の脇に跨がったりして悪戦苦闘1時間、決死の思いで菊池桃子のカレンダーを壁に掛ける。仕事場を往き来するたび、「モモコちやぁーン」呼びかける。桃子ちゃーん、か。守るべき何もないというのは一面気楽だが、さびしいねえ。
このまま俺の1987年が静かに終わるのか、と思っていた12月17日、突然物凄い揺れに襲われる。大手町の観測情報なんか信じない。千葉に近い台東区は絶対震度5の揺れだった。
●謹賀新年(1989年1月1日)
1988年は、暗い、いやーな年でした。
夏ごろ、脇腹を原因不明の筋肉痛のようなものが襲い、1週間仕事ができない状態になり、一時は、生活保護を受けて暮らすことまで、深刻に考え込みました。病院に行ってもくわしい原因は判らず、その後、2か月半ほどはまた順調な仕事に戻れたのですが、――とはいっても、じくじくとした、ちいさな痛みの“元”のようなものは遺りましたが、寒くなって、また、どうもいけないようです。患部には「ホカロン」を当て、周りを常に暖かくして、防戦のこれ努めている小泉今日このごろです。
暮れに、家賃3月分の更新料を取られて、ガックリときました。新年からは1割のアップであっぷあっぷです。仕事なんかやめ、国の保護で悠々自適の生き方でもしたらよほど人間らしいのではと思います。仕事の心配さえなければ東京なんかに固執することもなく、地方の環境のいいところで伸び伸びと生きられるのに――。
東京神話を支える一員でいるのは悔しい限りですが、街を見降ろす10階の暮らしが、やめられません。馬鹿なことですが、まだ、「頑張る障害者」と周りからおだてられていたい気もします。
一病息災――わざわい転じて自愛に努める所存です。
陰でこそこそ金儲けしている奴らとか、自粛、自粛で戦々恐々としている腰抜けどもとか、とにかくそういう輩を横目で見過ごして、新らしき1年を一日一日大切に生きて行こうと思います。
皆様の御多幸と世間の平安を祈ります。
●新春迎夢(1990年1月1日)
〈歳のはじめのモノローグ〉
いよいよ1990年代、俺も39。衛星放送は映画を連続放映し、お蔭で我が家は、毎日映画館。映画、大好き!
愛康舎を名乗り、四畳半から始めた自営も9年を経た。しかし、タイプの仕事がなくなった。12月に、印刷屋に宛て99枚DMを発送したが、反応はすこぶる鈍い。(100枚でないのは1枚宛名を書き損じたため。で、ナンだか9づいてるナ)。正月、年賀状にて第2弾発送! 第3弾は新聞折込作戦。いよいよワープロ導入だ!
♪苦ぅしさにぃー、負けたーァ……。「昭和枯れすすき」の唄が聞こえるョ。そう云えば昭和も終わったんだナ。時代に負けてワープロなんぞに頼るか。否、泣きごと言っても状況は変わらぬ。どう道を切り拓くかだ。
腹の減った侍雇うダ。バカっ、それは「七人の侍」だ。
明日には又、新しい一日が来るわ。アホ、それは「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのセリフだ。
愛とは決して後悔しないこと。何云ってんだヨー全く。
いかんなぁー、俺の頭は映画漬けだ。
年齢のせいか、飲酒の量もめっきり減った。いい事だ。その代り飯が食えるようになった。寝るのも早くなった。腹の調子が良くなった。腹調との因果関係もあったのか、この頃では神経痛も少し遠慮がち。いい事ずくめだ。
♪若ぁーく、明るい、歌ぁごえにぃー……俺も青春だ。まだまだ元気はあるぞ。ザマぁ見やがれ。年齢がなんだ。男の人生は40からとも言うじゃないか。フンドシ絞めてかかろうぜ。
♪あしたは咲こう、花咲こう。
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