●ほんまのホームページへ●


大江戸線車いす漫歩

春日駅


 春日駅周辺は、南に小石川後楽園などの文化施設、北は白山通り沿道の商業系施設やその裏側に展開する住居地域と、複合的な環境を形成している。駅上部には文京シビックセンター、文京シビックホールがあり、文京区の行政・文化の中心的地区である。歴史的には、後楽園は旧水戸藩邸であり、小禄の武家屋敷、伝通院などの重要文化施設が点在する地区でもある。以上の点から春日駅の利用者には、東京ドームや後楽園、文京シビックホールなどの娯楽施設の利用者や、文京区役所、中央大学など周辺学校の利用者、地域住民や職場への通勤者、田常的な利用者など、多様な層が予想される。(東京都地下鉄建設株式会社発行「駅デザインとパブリックアート」より)

●GIIIが来た朝
 もらったマックGIIIが動かない!
 よくあることだと覚悟していた。そのため、仕事先には「2、3日プリンターが使えないかも知れない」と、アドバルーンを上げてある。
 5月の連休にマック搬送を当て、もらい先の杉並区西荻の知人宅へは、大江戸線を経由して新宿からはJRに乗り、現地ではリフトタクシーを待った。電車で向かった際の顛末は前回書いた。今回は、その事後談を紹介したい。
 ちょうどめぐまれた好天のせいもあるが、リフトタクシーの中でも終始、遠足気分だった。それまで持っていたマックよりは数段パワーアップのGIIIが、これから仕事の面でもプライベートな原稿書き、画像加工の面でも活躍することになるのだ。
 リフトの運転手に手伝ってもらい、マック本体はともかく、21インチモニターを二人がかりで運び入れた元の持ち主、ヨシノさんは補助椅子にすわって毛布にくるんだ大きなモニターを、それではまだ心配と手でおさえて車の振動からかばおうとしていた。
 思えば、ヨシノさんこそが、マックがやがて印刷製版の主力となることを見越して、強力に勧めてくれた人でもあった。
「本間君の金の卵になること間違いなしだよ」と、ひいきのディーラーまで紹介してくれたのだった。ヨシノさんのことばは、1年か2年後には現実となった。
「わたしが上から乗って押さえた方がいいんじゃない」
 そう言って外で見送るヨシノさんの奥さんに、
「いや、つぶれたら友だちが悲しむから」
 そう返したら怖い目で睨まれた。
「あんなこと言って……。今度来たら何食べさせるかわからないからね!」
 何回か来て、そのたびに手料理の数々をご馳走になっているが、自然食派で俺の嫌いな化学調味料などほとんど使わず、それでいて昔なつかしいお袋の味というか、それとは違う料亭の味もするというか、とにかく奥さんの料理を楽しみにヨシノ宅に来るといってもいいくらいだった。そして帰るときにはお余りをパックに詰めてもらう、俺にとっては、いつもこうした二重の楽しみが用意されているのである。
「いや、大事に使ってもらえる人にあげるのが、機械にとっても一番幸せなことだからね」
 ヨシノさんは風邪っぴきのマスクをした顔でニコニコしている。
「それじゃ」
「元気でねー。また、遊びにいらっしゃい」
 手を振り合って、ワゴン車がスタートした。

●マック周辺の人々
 ヨシノさんも個人タクシーの運転手で、会社勤めも含めるとかなり経験は長い。もう25年ものつきあいで、知り合った頃にもタクシードライバーだった。当時は写真に凝っており、仕事にはしていなかったものの、写真の腕はプロ級だった。
 その頃にはカメラ道具は肌身離さず持ち歩き、気に入った被写体に遭うや車を止め、客そっちのけで降りてシャッターを切るなどという話を聞いたときは唖然となったものだ。
 ほとんどミニコミ新聞創刊と同時期くらいから手伝ってもらい、最初にたのんだ写真取材が身障者スキーの大会だった。今の奥さんはその身障者スキーの事務局で知り合い、やがて親しくなって結ばれた。
「かんじんなときに風邪になってね。朝から奥さんに叱られどおしなんだよ」
 そう言いながらも、頭を掻いた。
 ヨシノさんが最新鋭のマックGIVを今度買うことになり、それを機に古くなったマック共々周辺機器を整理することになった。それを頂く栄誉に浴したのが、俺と、養護学校時代からのポン友となったのだ。
 その日のコースは俺宅で俺のマックとヨシノさんのマックを交換して友人宅に持って行き、友人宅からはダブついた友人の古くからのマックを、俺のお得意さんの社長にあげるため俺宅に持ち帰るという段取りだった。
「本間君。俺、だいぶぐあい悪いよ。早く帰りたいから、コース変更しないかい?」
 こうして俺宅と友人宅を往復するのはやめ、直接友人宅に向かうことにした。
「運転手さん、じゃ予定を変えて、駒込に直行です」
 やがて緑が多く目につくようになり、リフト付きワゴン車は閑静な住宅街に入った。
「このあたりはタクシードライバーのたまり場があるんですよ。近くに公衆トイレがあってね。……ほらほら、あそこにもここにも停まってるでしょ?」
 到着間際になって、タクシードライバー同士の会話が
はずんだ。
 都立駒込病院の友人宅に着き、また、二人がかりで大型モニターを運ぶと、代わりに17インチのいかにも使い古したというモニターが運ばれた。
「21インチのモニターを置くと、さすが場所取るもんでね。邪魔だろうと思って持って来ちゃった」
 さすがなにかと気の利くヨシノさんだ。
 江戸通り沿いの弁当屋の前にワゴン車を横づけし、降りて行くと弁当屋の社長が出てきた。
「どこか行って来たの?」
「友だちからマックもらっちゃった。今度のは凄いんだぜ」
「へぇー。さっそく見せてもらいに行かなくちゃ」
「いいよ」
 気軽に答えたものの、最新式のタワー型GIIIと違い、今まで通り横長のディスクタイプでは外見的にはどこが違うわけでもない。
 そうして、またマンション10階の自宅にもどり、新しくきたGIIIと交換した
「じゃあ、あとは自分でいろいろやってみて。俺はこれで帰るから……」と、風邪がぶり返したヨシノさんは、あたふたと帰ってしまった。
 一人になってGIII立ち上げに挑んだものの、モニターの反応も変だし、立ち上げの状態も変。実は、ヨシノさんが入れてきたシステムのバージョンと、今まで使っていたソフトの互換が合わなくなったためだった。おまけに付属のCD−ROMをヨシノさんが忘れてきたため、それより低いバージョンのROMでは初期化という、システムをまっさら状態にする作業ができないようなのだ。
 コースを変更したことが幸いした。
 連休とはいえ、月刊誌の仕事が残りの休みいっぱいある見込み。また、休みが明けると別の定期モノも控えている。これは元のマックにつなぎかえた方がいいと判断、ただ、下へ降ろした本体を持ち上げることが自分ではできない。
「弁当屋のマスターがいたよなあ」
 それを思い出して電話した。出たのは、そこではアルバイトではなく、本雇いの女の子だった。小柄で色白とくれば俺の好みぴったり、笑顔が可愛いい、そこの弁当屋いちばんの美人だった。
「あいにく出かけちゃって、帰るのは夜ですよ」
「困ったなあ……」
 わけを話した。
「誰でもできることですか?」
「うん。ケーブルの付け替えだけだから。ただ、本体を持ち上げることが俺にはできないから……」
「じゃあ、一人貸しますよ」
「そうしてもらえるとありがたい!」
 電動車いすのうっかり運転から、1階に並ぶ自転車を蹴倒し、弁当屋の若い子には何度も世話になっている。「どうせなら君に来て欲しいナ」と、バチ当たりなことばがノドの先まで出かかった。
「じゃ、すぐに寄越して」
「はい」
 心に浮かんだ笑顔だけでがまんしよう。

●南北線と大江戸線
 まだ、仕事の原稿が出る前だったので、友人宅に行って17インチモニター接続のケーブル等、積み残してきた物を取ってきてGIII立ち上げに奮闘した。
 その夜は、連休に仕事をもらえることになっている古くからのお得意さん、月刊誌発行のトクダさんがマック立ち上げの助っ人に駆けつけた。
「今日はもう、大変だったのよ。GIII提供者のヨシノさんに、リフトの運転手、弁当屋のネエちゃんからその店のアルバイトのニイちゃん、さっきは駒込の俺の友だちまでが関わったんだから……」
「本間さんの話には、いつもいろんな人が登場しますよね」
 そう言って笑っているトクダさんまで、俺のマックに関わった登場人物の一人になったわけだ。
 ヨシノさんが俺のマック導入の後押しをした人なら、トクダさんはそもそも和文タイプからマックDTPへの転換に踏み切らせた張本人なのだ。それまでタイプ製版できた月刊誌を、一部データベース化したいのでパソコン製版に切り替えたいと申し出たのである。
 それを聞いて俺は焦った。新しいことへの転換など大の苦手、勉強しないですむなら現状のままでいたいのがやまやまだった。それが1994年という時期までタイプ製版を引きずった元凶だった。
 マックはトクダさんといっしょに買った。というより、トクダさんの車に乗せてもらって、ヨシノさん紹介の店まで見に行ったくらいのものだった。
 先にトクダさんがマスターしてしまった。
「こっちはもう大分覚えたよ。マックに切り替えても大丈夫ですかね」と、電話が来るたびそのことではないかとどきどきしていたのに、そうやって来るべきときが来たのであった。外圧である。
 それから7年。今から思えば泣きの涙でDTP技術習得に苦戦したあの頃が夢のようだ。
「ほんとうだ。いろんな人間が登場したよ、これまで」
 そう思って、トクダさんを迎える数時間前の経験を同じ感慨で振り返っていた。
 その夜本駒込の友人宅に、初めて南北線乗車を経験して行った。GIIIの自力立ち上げもあったが、
「この際、南北線とやらを見てやろう」
 ちょっと気軽に行く気になるのも、大江戸線やその他の路線のバリアフリー化のおかげ。中でも、「ホームドア」方式といわれる南北線には、ずっと以前から一度乗ってみたいと思っていた。
 蔵前駅へは自宅マンションを出て1、2分。蔵前から春日へはあいだに3駅。実に近い。そこから南北線の後楽園駅へと連絡し、友人宅そばの本駒込駅は間に東大前駅があるのみ。
 春日で降りて南北線へ。
 改札で「乗車券を」と言われ、他県から来た障害者と間違えられたと思い、サイフを開いて無料パスを見せる。しかし、とたんに駅員の顔が少しむっとしたようになったので「あっ」と思った。
 うかつにも南北線を都営地下鉄と勘違いしていた。
「すみません。てっきり勘違いして……」
「いやいや、かえってどうも」
 営団の駅員はかえって恐縮し、そのあと、「ちょっとお待ちください、今、係員を呼びますから」と言った。
「おや」っと思う。大江戸線とはだいぶようすがちがうぞ、と。
 やがて、改札に別の駅員がかけつけ、エレベーターへと案内した。どうやら、自分で乗って自分でホームへと上がるという仕組みではないようだ。これではJRやなにかと変わりない。
 エレベーターを降り、初めて「ホームドア」と呼ばれる方式を一見した。最近の新幹線には乗ったことがないので知らなかった。ホーム全体がガラス張りの建物状態で、車両のドア部分にホーム側のドアもあり、電車が停まると両方のドアが開き、そこから乗客が乗り降りする仕組みになっているらしい。
「これなら100パーセント安全。いくら線路に落ちたくても落ちようがない!」
 周りの乗客のいるのもかまわずはしゃいだ。これでは大江戸線は、はるかに負けていると思った。
「ちょっと待ってください。本駒込駅と連絡を取りますから……」
 駅員が電話しているあいだに電車が1本入ってきた。そして広めにつくられたホームドア部分に電車のドア部分が合わさり、電車が停まって両方のドアがいっせいに開いた。
「この後のに乗ってもらいますから」
 そう言われては、素直にうなずくほかない。
 1本電車を空しく見送ったあと、さらに指定された何両目かに歩かされた。そして、2本目を待つあいだ、連絡を済ませた駅員は、とある箇所の壁に取り付けられた格納庫をカギで開け、電車とホームに差し渡す折り畳み式の板を持って電車の着くのを待ちかまえた。
「やっぱり段差があるんですかねえ。なんとかないように作れなかったんですかねえ」
「さあ、私らにはくわしいことはわかりません」
 満足な答えは返ってこなかった。
 南北線といえば、大江戸線の次くらいに新しい路線のはずだ。車いすのバリアフリー化は検討の対象にはなっていたはずである。
 電車が到着した。
「ではどうぞ」と板が渡され、、まず車いすが優先して電車へとうながされた。段差は思ったほど高くはなく、自力で上がれないこともないのではとさえ思った。
「では、お気をつけて。本駒込には連絡しましたから」
 駅員と頭を下げ合ったとき、電車のドアがホームドアといっしょに閉じて電車が走り出した。
 安全はこのうえもない。しかし、駅員の付き添いが前提では、勝手に途中の駅に降りるというわがままも許されない。いやがおうにも大江戸線と比べてしまった。
 ちょっと気軽に、いつでもどこでも、その自由さ、アバウトさが大江戸線のたまらない取り柄である。それは何十年間自由に交通機関を利用することを許されて来なかった車いす利用者への、あまりにも長すぎた春が今度こそやってきたという喜びでもあった。
 春日から後楽園へ、南北線を使って感じたことは、「自己責任」の重みと意味だった。大江戸線ができて初めて、車いすの障害者が健常者と同じ地平に立てたのだ。不幸にして事故に遭ったとして、それは個人の責任に委ねられるべきだ。しかし、世間はそうは見ないだろう。今、そのことがいちばん気がかりだ。「安全」と引き替えに「保護」という元の不自由な状態に戻される、それを思うと息が詰まる。

車イス漫歩・TOP

コメントは掲示板へ

TOPへ