コスタリカの大地震

ロスアンゼルス(米国)→サンホセ(San José・コスタリカ) 1991年4月28日(土)


遠きサンホセへの道

 飛行機に乗り込む。私は一番後ろのほうの席に一人ぽつんと座っている。200人程度しか乗れない小さな飛行機である。スチュワーデスは大柄で、白人だが米国人ではないようだ。動作の大雑把さと声の大きさにラテンを感じる。出発すると後でいきなりジュースを飲み始める。食事も大雑把なサンドイッチ。

 メキシコシティで乗換え。今は8時30分頃だが、9時15分頃に何か(出発?)があるらしいことが、英語でおぼろげにつかめる。周囲にいる外国人(メキシコ人には見えない人)だけが頼りである。女子学生が教科書を読んでいる。経済学の教科書の最初にあるような需要・供給曲線がある。これはきっと教育国家(義務教育の学費無料)で、私の行き先でもあるコスタリカの人に違いないと決めつけ、心を落ち着かせる。

 分らないまでに待っていると、「ゴーサイン」が出る。メキシコシティを飛び立つと、右手にきれいな山が見える。次にグアテマラシティへ。上からの眺めがよかった。外へ出たかったが、ここではトランジットはない。

 グアテマラシティから約1時間、1時間遅れでサンホセに着く。途中、地図の通りの形をした半島が見える。


サンホセ

 サンホセの入国はあっけなく終わり、すぐに出口へ来てしまう。何もない日本の田舎の駅のような国際空港である。厳密にいうと、ここはサンホセではなく、近郊のアラフェラである。サンホセ行きのバスが出そうなので、慌てて乗り込む。両替を忘れていたが、ドルでOKである。Yaohan,Toyota,Nissan,Toshibaといった看板が目につく。日本車のシェアは40%程度に見える。

 バスを降りてホテルを探す。適当に歩いて駅近くの「Avenida」という安ホテル(?)とする。約1,000円。外出するためには荷物が軽くなるが、銀行が休みで両替ができない。ホテルで換えて貰う。シャワーは「かろうじてぬるい温度がある水」という感じ。宿には日本人が泊っていて、宿の人が紹介してくれる。日本で失業した後、南米へ行き、3か月かかってここまで移動して来たそうだ。リモンへ行きたかったそうだが、地震直後で暴動でも起きていないか心配とのこと。バーで一杯やりに行く。英語は通じず、飲み客の書く文字は、崩れていて読めない。これから、コミュニケーションが大変そうだ。英和・和英・西和辞典は持ってきたが、和西がないんだよなあ・・・


コスタリカの大地震

 1991年4月22日、13時58分に、リモンを中心とした地域で大地震があった。僅か6日前(出発の5日前)のことである。ここに来る前に新聞を見て驚いたとともに、友人にも心配されたのだが、旅をキャンセルする気は起こらなかった(今ならインターネットでいろいろなことを調べるのであろう。)。楽しみにしていたサンホセ・リモン間の「ジャングル・トレイン」は当時も一部しか動いていなかった(シキレス・リモン間?)ようだが、この地震で完全に止ってしまったようだ。明日は、新聞でも買って情報収集をし、計画を練ろう。無謀かもしれないが、「怖いもの見たさ」も手伝い、リモンへ行きたくなってくる。ちなみにコスタリカは四国と九州とを足したぐらいの大きさだそうで、首都サンホセから大抵のところは陸路でも日帰りが可能である。

 地震の状況は、「Yukihiro Watoh's Home Pageの「災害医学における遷延死の重要性〈第一報〉−1991年コスタリカ地震剖検例における証明−」に書かれている。医学のページのようだが・・・

 当時の日本の新聞の切り抜きが見つかったが、50人以上が死に、500人以上が負傷したそうである。


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