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近代伊勢参宮名所図絵 宇 治 周辺 2011年1月1日 大日本帝国陸地測量部 昭和5年実測及仲図修正の地図の一部を拡大し着色、 古い絵葉書に出てくる名所について、あった(と思われる)場所について年代無視で示しています。 間違っている所や追加しなければならない所もあると思いますので、 現地に行って確認し更に精度を上げたいと思っていますし、ご指摘いただければ幸甚です。 |
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町名 |
浦田町 |
うらたちょう |
A2 |
宇治浦田町 |
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町名 |
在家町 |
ざいけちょう |
B3 |
宇治今在家町 |
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町名 |
舘町 |
たてまち |
C2 |
宇治館町
明治5年旧宇治中館下館を館町と改称 |
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公共 |
如雪園 |
じょせつえん |
A3 |
宇治中之切町
養護施設だった 毎年3月に奉納大相撲 |
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公共 |
林崎文庫 |
はやしざきぶんこ |
B4 |
宇治今在家町
1690山田奉行岡部駿河守建立 |
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学校 |
進修小学校 |
しんしゅうしょうがっこう |
B2 |
宇治中之切町
現 五十鈴川小学校 |
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如雪園碑
林崎文庫
進修小学校停車場跡 史跡 旧林崎文庫説明文:当文庫は外宮の豊宮崎文庫とともにわが国調査研究図書館の先駆をなすものであり、貞享3年(1686)宇治会合所の大年寄等が山田奉行岡部勝重に請い、幕府の下賜金を得て翌年丸山に内宮文庫を建設したのに創まる。然るにこの地湿潤の故に元禄3年(1690)北隣の林崎に移し林崎文庫と改称する。天明2年(1782)荒木田尚賢等が講堂・塾舎を増築する。文政4年(1821)後方の高地に再建して石階を築き同6年?に移転し今日に至る。この間、林
信篤・伊藤東涯・竹内式部等の碩学大儒が書を講じ、或いは水戸光圀・大塩平八郎・ 村井敬義等の諸侯・学者が著述や蔵書を寄進し、その蔵書は11,978冊に及ぶ。明治6年(1873)土地・建物・図書一切を神宮に納める。同39年神宮文庫の開設により全蔵書を同文庫に移管する。昭和29年(1954)国史跡に指定される。 |
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山 |
神路山 |
かみじやま |
D2 |
宇治館町 |
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谷 |
西行谷 |
さいぎょうだに |
D1 |
宇治館町 |
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河川 |
五十鈴川 |
いすずがわ |
C4 |
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橋 |
宇治橋 |
うじばし |
C3 |
宇治今在家町 |
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橋 |
浦田橋 |
うらたはし |
B1 |
宇治浦田町 |
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橋 |
新橋 |
しんばし |
B2 |
宇治中之切町 |
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電車 |
ごうどうでんきせん |
AB |
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駅 |
ていしゃじょう
うらたちょう |
B1 |
宇治浦田町 |
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駅 |
ていしゃじょう
さるたひこじんじゃまえ |
A1 |
宇治浦田町 |
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駅 |
ていしゃじょう
しんしゅうしょうがっこうまえ |
B2 |
宇治中之切町 |
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駅 |
ていしゃじょう
ないくうまえ |
B3 |
宇治今在家町 |
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西行谷(現在) と 神照寺跡説明の中の伊勢参宮名所絵図
新橋 西行谷神照寺跡説明文:この谷の奥には平安時代末期の歌人で有名な西行法師(1118〜90)が一時住んだといわれるところがあります。ここは西行が二見の安養寺(二見町溝口・平成4年の発掘調査で平安時代〜鎌倉時代にかけての建物跡・各種の土器・その他多くの木製品は出土)に住んだのち、この西行谷へ移ったと伝えられる場所です。西行が住んだ庵はどこかはっきりしませんが、谷に接して庵が営まれたような平坦地やその奥には小さな滝が落ちており、その雰囲気がしのばれます。 |
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神社 |
皇大神宮 |
あまてらすこうたいじんぐう |
D4 |
宇治館町
内宮 唯一神明造 |
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神社 |
神楽殿 |
かぐらでん |
CD4 |
宇治館町 |
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神社 |
祭主宮官舎 |
さいしゅのみやかんしゃ |
B2 |
宇治浦田町
元慶光院 現 祭主職舎 太郎館大夫の門 |
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神社 |
斉館 |
さいかん |
C4 |
宇治館町 |
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神社 |
猿田彦神社 |
さるたひこじんじゃ |
A1 |
宇治浦田町 |
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乗合自動車内宮前驛 猿田彦神社 猿田彦神社説明文: 猿田彦大神は天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)をこの国に御案内された後、伊勢の地を中心に国土の開拓・経営につくされた地主守と伝えられています。また大神の御裔の大田命は皇女倭姫命が神宮御鎮座の地を求めて巡歴されたときに五十鈴の川上の地を献り、伊勢の神宮が創建されました。当社はその子孫が祖先を祭ってきた神社であります。大神は全てのことに先駆け、人々を善い方に導き、世の中の行方を開く「みちひらき」の神として祀られています。その信仰は全国的な広がりをもち、方位除・災除・地鎮・事業繁栄・交通安全・開運などの御祈祷が連日行なわれています。毎年5月5日に祭り行されている御田祭(おみた)も古い伝統にもとづいています。 |
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神社 |
神宮司庁 |
じんぐうしちょう |
B2 |
宇治浦田町
現 神宮道場 |
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神社 |
神宮会館 |
じんぐうかいかん |
A3 |
宇治浦田町
宇治中之切町 |
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神社 |
神宮奉斎会 |
じんぐうほうさいかい |
B2 |
宇治浦田町
この建物が後、神都公会堂に |
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神社 |
造神宮宇治工作所 |
ぞうじんぐうこうさくじょ |
B1 |
宇治館町
現 神宮司庁頒布部 |
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墓地 |
慶光院墓地 |
けいこういんぼち |
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1500年後半
慶光院清順と周養が式年遷宮復活 |
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神宮司庁(現神宮道場) 神宮会館 浦田太夫邸門(現神宮少宮司職舎門) 太郎館太夫邸門
(現神宮祭主職舎門 元慶光院) |
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慶光院墓地門 慶光院墓地 (駐車場が作られ隅に追いやられていた・・・恩を忘れたか?) 同墓地はその後、隅っこで綺麗に整備はされていた。 |
役目を果たし終えた石橋 |
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慶光院墓地説明文: 慶光院は臨済宗の尼寺で創始の年代は不詳です。江戸期の知行612石。朝廷や幕府のために祈祷に任じ、京都や江戸に屋敷を賜るなどそれぞれから厚い知遇を得ていました。神宮の衰退期に初代守悦尼(〜1539)が永正2年(1505)諸国を勧進し、宇治橋架橋を行なってから神宮との深いかかわりができました。以下3世清順尼(〜1566)、4世周善尼(〜1611)、5世周清尼(1569〜1648)などいずれも苦心の末、宇治大橋や両宮の正遷宮を執り行いました。この墓地は初代守悦から15代盈子にいたる上人たちをはじめ、一族の墓塔が整然と並んでいます。太い竹薮のかこまれた、きわめて閑静な聖域となっています。 |
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百五銀行先の長ノ世古を入って暫く歩くと右手に 俳祖 荒木田守武翁遺跡碑がある。 薗田神主(長官)の家があったことから長ノ世古と呼ばれていたが、御師・蓬莱大夫の門があったことから蓬莱世古ともいった。 |
すし久前先の会所世古を暫く歩くと左手の駐車場の 中に宇治年寄会合所遺跡碑がある。 磯部百鱗邸碑を探したが、同地は岩戸屋百鱗房となって碑を片付けてしまったらしい |
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碑 |
ふじなみのまつ |
B1 |
宇治浦田町 |
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商店 |
赤福 |
あかふく |
B2 |
宇治中之切町 |
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商店 |
風宮商店 |
かぜのみやしょうてん |
C3 |
宇治今在家町 |
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商店 |
鈴七商店 |
すずしちしょうてん |
BC3 |
宇治今在家町 |
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御師 |
岡田七郎大夫邸 |
おかだしちろうたゆうてい |
C3 |
宇治今在家町 |
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御師 |
澤瀉大夫邸 |
おもだかたゆうてい |
C3 |
宇治今在家町 |
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御師 |
中川采女大夫邸 |
なががわうねめたゆうてい |
C3 |
宇治今在家町 |
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御師 |
正木大夫 |
まさきたゆう |
BC3 |
宇治今在家町 |
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旅館 |
大橋館 |
おおはしかん |
C3 |
宇治今在家町 |
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旅館 |
神洲館 |
しんしゅうかん |
BC3 |
宇治今在家町 |
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旅館 |
水月楼
すし久 |
すいげつろう
すしきゅう |
B2 |
宇治中之切町
元友人経営 現だんらん亭 |
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旅館 |
別館対泉閣 |
べっかん
たいせんかく |
B3 |
宇治今在家町
大橋館移転後改名 現修養団神都国民道場 |
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水月楼 すし久 別館対泉閣時代の階段か? 現修養団神都国民道場 宇治法楽舎跡碑 |
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法楽舎:。法楽とは読経や芸能を奉納して神仏を慰めること。神仏習合信仰が盛んだった鎌倉時代に、1275年「異国降伏」(元寇:一度目1274年文永の役、二度目1281年弘安の役)のために建てられた密教系の祈祷所。 外宮の法楽舎は世義寺の中にあった。 |
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出典:写真集 明治大正昭和 伊勢二見小俣 目で見る伊勢・志摩の100年
図説 伊勢・志摩の歴史 下巻 |
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