02.05.01新規

(3)放送室新旧

 筆者が校内放送を送る側としてやっていたのは小学五年のわずか1年間であるが、前後あわせて6年間は校内放送のヘビーなリスナー(?)として過ごしていた。
 当時の放送室は木造校舎の中三階というか、階段の踊り場の上の小部屋であった。小部屋とはいえ二階建ての校舎の二階より若干高いところにあるので学校で一番高い場所にあるといえなくもない。
 関係者以外は立ち入りの出来ないこの場所で校内放送は行われる。
 まずは各教室の時計の整正のために朝8時にラジオの時報を鳴らす。当時の放送機器はナショナルパナアンプ30Rというものでマイク1系統(2系統あったかもしれないが)、ピック(レコード)1系統とラジオのきわめてシンプルな構成であった。スピーカの切り替えが南校舎、北校舎、講堂、運動場と放送室のみのモニタの5つあり、基本的には全部のボタンをオンにして放送する。本当は「一斉」のボタンもあるのだがなぜかこれには「押すな」と書いてあり、使われていなかった。これを押すと消防署につながるという全くのガセネタが伝承されていたのはいかにも小学校らしい。
 木造校舎の小部屋の放送室なので防音などはなく、流している音声が部屋の外からも聞こえるので安心である。
 放送の担当のため、当番の時は朝礼などは免除になり、給食もクラスの誰かが(率先して)運んでくれ、いただきますを待たずに食べられるので、ある種特権階級の趣がある。先述の通り一応高い場所で南面に運動場が広がり、見晴らしは最高で、下々のものがこちらの号令(?)一下活動しているのを見下ろすのは大変気分の良いものである。まだしがないリスナーの時代にもこの高い場所に立つお姉さん方を見て〜どういうわけかお兄さん方は記憶にない(笑)〜、いつかここに立ってやると思ったものである。後にも先にも"何かになろう"と思ったのはこのときしか無いようである。
 当番は一回三名の四班構成になっていた。慣行で当番以外は立ち入りしないようになっていた。放送をしていないときはモニタのみにしておけばラジオを聴こうがレコードをかけようが自由自在の完全学習(?)である。おかげで暇さえあれば古いレコードを出してきては聴いていた。自分が担当の時期以外に使っていた曲にも詳しいのはこのためである。たぶんレコードの貯蔵については一番詳しかったに違いない。
 年度の途中で鉄筋の新校舎が出来、放送室もそこに移転になった。今度は四階建ての二階。職員室などが出来る予定の隣の場所となった。まだ旧校舎が壊されてなく、展望は悪い。よくなったのは機械で、本格的な調整卓である。マイクは4系統、レコードも2系統、テープ(オープンだけど)もある。が、ほとんど使われていない。
 部屋は調整室とアナウンスの部屋と分かれていたが、今まで通り、調整卓でしゃべっていたのでもうひとつの部屋は遊び場と化していた。南面の日当たり良好のうえカーペット敷きで冬などポカポカである。今度は完全防音なのでこちらの音がホントに外に流れているのかわからない。
 ハプニングは数知れずあるが、よくありがちなのは、モニタでレコードを聴いていたのが外に流れていたりするものである。放送室が新しくなり、外の音が聞こえなくなってよく発生した。
 当番も終わりの土曜日の下校前にまだ時間が5分くらいあったので大好きな「マドリガル」を堪能していた。さてそろそろ下校の放送だと思ってスイッチを見ると既にオンになっていて先の「マドリガル」は全校に流れていた。特に苦情はなかったが。当時ラジオでやっていた「イルカ(師匠)のバカヤローコーナー」のまねをしていたときでなくてよかったと思ったものである。全校に向けて「バカヤロ〜〜!!」などとやったらそれこそただではすまなかったろう。学校にはエコーの設備はなかったが、、。
 新校舎になってなぜかチャイムの数十秒前から放送が蹴られるという状況になった。ハプニングは雨の日におこった。
 雨の日の朝礼は放送室から校長がしゃべり、それを各教室で(立って)聴くというスタイルになっていた。校長がしゃべっている間にチャイムがかぶり、音声が止まってしまった。筆者はとっさに「緊急」(割込放送)ボタンを押したのだが、別マイクを使っていた校長の声は届かず、筆者の「やばい!!」のみが全校に流れてしまった。「緊急」ボタンはマイク1系統のみ有効となることがこのときわかった。(これを押せば電源も入れなくてもしゃべることが出来るようである)
 当時はカセットテープというものが学校でやっと普及しはじめた頃で、日々の放送では使っておらず、すべていちいちレコードをかけていたものである。このため、LPレコードの途中の溝に落とすくらいはオンエア中でも慣れたものである。
 年度末に来年度もここに来られるかわからないのでということで、学校のレコードをテープに落としておくことを思いついた。当時放送室にカセットデッキがなくラジカセのラジオのないようなもので、それもケーブルにつながず「シーシー録音」(つまりは生録)である。放課後では時間が足りず、数枚をうちに持ってかえって録ったものもある。モノラルの鑑賞教材EPなどは裸でごろごろしていたので、今のような録音設備があれば大変なお宝ライブラリになったに違いない。
 翌年度は委員選出の時に突発休で休んでしまい、競争率の高い放送委員になることはなかった。それ以降もその種の業務は一切やっていない。筆者的には校内放送とはあのかちっとした構成と独特のしゃべり(笑)のイメージしかない。
 中古レコード店とインターネットの普及により、当時使っていた音源のかなりの部分を入手することが出来た。なかでもインターネットの普及は大きな力となっている。ある掲示板に出した記事がもとで、学校流出品を大量にいただくことが出来たことは大きな収穫である。世話をしてくれた人はなんにも儲けにならないのにレコードをかき集め、梱包(かなり重い)と発送をしていただいた。長野県の方だが今でも足を向けて寝られないほどである。
 また、ほかにもこの種のレコードを集めている方がいることも大変励みになっている。非常にニッチな(笑)ジャンルなので究めれば資料館ものだと個人的には思っている。
 
    

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