強迫神経症と心の軌跡・・・★つるちゃんさん★ 

私は,重症の強迫神経症にかかり、森田療法と薬物療法を受けました。現在,奇跡的に症状が回復し,アルバイトをするぐらいになりました。症状は、例えば寝る前に、次の朝までの心構えを何回も頭の中で想定し,完全に納得できるまで確認を繰り返す,等の儀式をする、といった強迫行為でした。要は,ある行動をするときに,完全に納得できるまできりをつけないと次の行動ができない、といったものでした。これが日常生活の全てを支配するようになり,にっちもさっちもいかず,廃人同然にまで地獄に落ちました。以前から知っていた森田療法を行うある診療所に入院しましたが、講話は聞けましたが,その他周りについて行けないほど症状が強くて,他の病院で薬物療法を受けることになりました。これが自分にマッチしていて,その効果がめきめきと現れ,症状が奇跡的に回復しました。
 薬物療法を受けながらも,森田療法の教訓を生かすよう努めました。思い返してみると,例えば寝る前の儀式的行動も”こんなことはばからしいことだ、もうやめよう”と決心して思いきって床に飛び込んだことがありました。そう、あんなに悩んだことが、やればできたのです。その次の朝,無事に起きれた時の気持ち良さは,今でも忘れません。その事がきっかけとなって,その他の強迫行為も,雪解けのごとくどんどんなくなっていったように思います。
 森田療法を行うある先生の中心論点は、”動き”です。神経症の不安は、この”動き”の中で,”不安は不安でそれっきり”となる心の内的展開がある、とするのです。掃除や洗濯など作業を通して,その”現在になりきる”態度を修練します。嫌でよいから、その嫌なことのなかにすっと入る、よたよたでも良いからちょろっと入る,その”動き”を重視します。柳は緑,花は紅・・・、不安がなくなるのではない,不安はあってよい、不安があってそれっきり・・・,その時心臓が踊るなら踊るだけ,人前で緊張するなら緊張するだけ,繰り返したいなら繰り返したいだけ,そういう心的態度があるのです。その時頭が勝手に動き,手が勝手に動き,いわゆる”分別”を超えた態度が展開します。
 また,森田療法は,禅の思想の影響をその背景に強く持っています。神経症からその治癒に向かう心の転回の軌跡と,禅の悟りへむかう心の軌跡が良く似ているとします。道元はそこを”身心脱落”の経験とします。また親鸞はそこを”自然法爾”といっています。道元は”仏性は誰にでも備わっている”といいます。しかしそれは,修練によってその輝きをあらわす、のです。神経症の場合,生まれもって、禅で言う“公案”,すなわち解かざるを得ない命題を与えられ,それを修練によって解決してゆき、やがて“仏性”の輝きをあらわすものではないかと私は考えています。
 松原氏は、”自己の中にもう一人の自己がいる”といいます。そのもう一人の自己が、無意識に勝手に手を動かす、勝手に足を動かす,勝手に食事をさせる、のです。この”もう一人の自己”に出会うこと・・・、このことが、神経質の修練においても大切であると思います。
 修練とは、日常の一挙手一投足であると私は考えます。朝,すっと起きる,顔を洗う,会話する,思わず電話に出る,雨が降ってきて洗濯物をとりこむ,スリッパの向きをそろえる・・・,等々何気ない日常生活がイコール修行であると思うのです。
 神経症とは、禅の公案を生まれもって与えられており,そしてそれを乗り越える使命をも与えられてると思えば,神経症になったことは、むしろ幸せなことであったと今では思います。ですから,今現在神経症で悩まれてる方々も,決して悲観するに及ばないと思います。むしろプラス思考で、その事をラッキーと思い,いつかそれを乗り越え,すばらしい境地にめぐりあえるんだ、ということを信じてがんばってほしいと思います。
 以上,長くなりましたが,私も今社会復帰へ向けて奮闘中です。このメールを見て少しでも多くの方が励まされるのを期待しております。お気軽にメールでもください。いつでもOKです。それでは、希望に満ちた明日へ向かって共にがんばりましょう・・・・・。

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