自分の強迫神経症について・・・★ジェイドさん★ 
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強迫神経症という病名を知る前から、私はおそらく不自然な考察を考えていた気がします。私は幼少の頃 は、至って普通に育てられてきたと自覚しています。ただ、幼稚園時から集団生活が苦手な傾向がありま した。自宅や身内の存在こそが心地良く、あまり他人の介在する環境を好みませんでした。私はいわゆる 秘密基地や自分の部屋を気に入っていました。また、小学生時から当時流行っていたテレビゲームの影響 で、自分が考え出した世界や架空の人物を設定して、文書やデータを作成していました。丁度、その頃か ら私は意味のない口癖を会話の最後に心の中で呟いています。当時は気を病むものではなく、チックなど と同じで無意識に癖となっていたのでしょう。あたかも、自分の発言を丁寧にパッケージングするようなこの 癖は、私の絶対不可侵な秘密基地を守ろうとする心の表れだったようです。「完璧主義」とも似ている部分 もあります。要するに家族や特に親しい友人、自分のお気に入りのおもちゃなどを自分と関係する一つの 事項と捉え、気持ち的にキレイなままを保ちたい訳です。言うなれば、不潔恐怖の精神版と言うところでし ょうか。不潔恐怖の方が自分の実生活空間を清潔に保とうとするのに対し、私の場合は自分に関係するす べての事象や人物が、自己の中で明確な定義付けがなされていないと気が済まないのです。つまり、自分 が当たり前に見ている事に少しでも疑いや相違を感じてしまうと、自分の中ではその存在が曖昧な物、不 明瞭な物となってしまいます。そのままの状態では、答えがキチンと出ていないので、それらに接する機会 がある時に「正しく感じ取れていないのではないか?」という不安が生じます。それは日常にあまり関係の ない事でも、将来に渡って関係する可能性がある、と解釈され結局のところ、些細な事や無縁な事、当然 ある事など疑えばキリがないにも関わらず、逐次納得しなければ落ち着かないというものでした。この納得 というのがまた厄介で、○○は○○だ!と口に出すだけでは当然効果はなく、頭の中で色々なシーケンス を想定し、鍵が合うようにピタリと“確認”出来なければ納得・解決にはなりません。その兆候が強くなって きたのが、高校1年の時です。私はある事項について強く疑念を煩うようになりました。1日中その事が頭 から離れず、学校でも授業中でも家路についてホッと出来る時間でさえもその事に対する解決法を模索す る時間が続きました。また、一度納得してもそのときの自分の体調や周りの風景、いる場所・時間にさえ不 穏な要因を見付けた場合は、その問題は解決した事にならず、やり直しをしなければなりません。当時、私 は自分以外存在しない完璧に真っ白な空間を求めて止まなかったものです。より完璧に、より完全に解決 を求めていると、そんな空間など最初からない事に苦しみ、最悪のときは、問題を解決させる場所を探して 彷徨っていた時期もありました。頭の中は締め付けられるように苦しくなり、自分の不甲斐なさを呪うように 悔やみました。「なぜ、自分は他の人のように普通に生きられないのか?」そういった思いを日常的に考え るようになり、常に不安と焦りを感じる生活が続きました。しかし、疑念の解決を繰り返しながらも、私は高 校を卒業できました。高校3年間で、疑念が気にならない時期と強く気にする時期が何回も訪れました。そ の間、病院に行こうとも考えましたが、疑念を感じていない時がある事で、「もう、二度と疑わない!」という 決意が自分を支えていたのかも知れません。今に思えば、その決意もすぐに破られてきたわけだし、疑惑 状態に陥る事への拒否こそ意味がないと気付く由もなかった自分でした。高校卒業後、アルバイトや就職 も幾度か繰り返しました。疑惑の方は、気にならない時間が積み重なっていくにつれ、嘘のように消えてい た時期も自覚しています。やっぱり、これは悪習なのだと思います。どこかで強引に振り切っていけば、忘 れ去るまで辛くても自然に人間の忘却や治癒力が働いているのだと。当たり前の事を当たり前と思えなか った自分は、疑念を解決する事だけを当たり前と信じてしまっていたのです。皮肉でかつ理不尽なもので す。私の原因は高校に入って、予想していたはずの結果を得られなかった事です。それは主に人間関係 です。それから自分の将来像と現実の姿に大きな差を感じていた事です。いつまで経っても満たされない 欲望や境遇を憂う気持ちが日に日に増大していき、欲しいもの、なりたい姿を仮定・想像していく内に、ち ょっとの差異で自分の考えを極端に覆された気分になってしまったのです。最初から体当たりでぶつかっ ていければ、おのずと答えは出てくるはずなのに、それが出来ないゆえのシミュレーション型人間になって しまっていたんですね。あれこれ考えても出てくる結果は一つ、勇気を持って他の邪推を無視することで、 少しは前進できたと今は感じています。まだ現実との差異に悩まされる事はありますが、この先様々な人 生経験や時間の経過を体感する事で、いつの日かシミュレーション人生から脱却できている事を今後の支えにして生きたいですね。疑念を煩って、ただ一つの良かった事は、世の中に完璧に清く正しいものなど なく、それぞれがそれぞれに価値や特徴を備えている事への認識だと思えます。自分自身をしっかりと持 って、自分の中だけで全てを消化しようと考えず、周りの色んな人たちに寄りかかりぶつかり、そして他人 に肩を貸せる人生に向かう気持ちを忘れないでいたいです。 |