私は強迫性障害です・・・★あよまさん★ 
| あれは、1999年4月31日だった。ちょうど会社が休みだった為、一日中寝ていた。昼頃から胸の動悸が始 まる。たまになるからほっといて寝ていた。夕食時、動悸がおさまらない。胸を押さえながらご飯を食べ終え 、自室にこもる。いつものようにビールを飲もうとしたらさらに動悸がはげしくなり、あわてた。いつもとは、 違う。おかしい。寝たら忘れるだろうと私は、床についた。動悸の激しさは止まらない。それどころか息苦し くすらなってくる。もうだめだと思い、家族に「心臓がおかしい。病院に連れて行って」と言う。病院に着き、 医師に症状を告げる。医師はまず「家族に心臓の悪い方おられませんか」と何度も聞いていた。しかし、そ んな者は誰一人としていない。そのうち呼吸が乱れ、私ははぁはぁいいながら「先生助けて下さい」と泣き ながら言った。そのうち「過呼吸でしょう」と言われ「帰ってもいいですよ」と言われた。私は納得がいかず 「でも、心臓がおかしいんです。ちゃんと調べて下さい」と言う。「不安が強いみたいですから今日は一泊入 院して下さい。明日、心臓の検査をします」と医師に言われ、私は病室の個室に入れられた。次の日心臓 も異常なし、ただの過呼吸だと言われ自宅に戻る。その日は弟としゃべりながらもらった安定剤を飲んで 寝た。そして、次の日家族が仕事に行き、一人になったその時また過呼吸が起こる。父に連絡をとり、別 の病院に行く。そこでも過呼吸と診断され、また安定剤をもらう。そして、休みも終わり仕事に戻った。不安 でたまらない。また、あの発作が起きたら・・・。私は、会議にでるたびに発作を起こすようになった。また、 人の多い社員食堂でも発作を起こすようになった。初めて会社の保健室にお世話になり、母に迎えにきて もらうようになった。そんな事が続いたある日、私はふと母に「心療内科に行きたい」と提案する。母も「私 もそう思っていた」と同意する。近所に精神科と心療内科の病院があった為見てもらう。ストレス性の過呼 吸だと言われ安定剤等をもらう。薬を飲みながら会社に行くがやはり発作は止まらない。もう、限界だと思 い会社の保健婦さんと相談して会社を一ヶ月休む事にした。休んでも発作は止まってくれない。このままで は、一ヶ月後に会社に行くことができないと思い、医師と相談し大学病院の心身医療科に行き自律神経を コントロールできるようになるというテープを買った。早速行動に移すが、眠くなるだけで何もならない。そ して、ある日ニュースで飛行機のハイジャックのニュースを見た。すると犯人が鬱病だというコメントが聞こ えた。その瞬間「私もこのまま頭がおかしくなって犯罪を犯したらどうしよう」という考えが頭をよぎり怖くて たまらなくなった。その日は布団の中で自分が人を殺したらどうしようなどと考え、部屋からでられなくなっ た。またもや限界が来た。私は家族の前で「とにかく怖いから入院させて」と泣きながら懇願した。次の日 大学病院の心身医療科に行き事情を説明した。すると「その状態だと心身医療科では対処できないから 精神科に行って下さい」と言われる。早速精神科に行き診察を受ける事になった。「入院しなさい」と言わ れた。しかし、大学病院は順番まちが多い為仕方なくその日に近所の精神科に入院する。診断は、加害 性恐怖症との事だった。その病院は設備が汚かった。くみ取り式のトイレでドアも真ん中しかなく、上から も下からも見えるようになっていた。そして、病室は牢屋の様で干すところも荷物を置くところすらなかっ た。ただベッドがならべられているというだけの大部屋だった。私は、ただひたすら布団にもぐって寝てい た。何も考えずにひたすら眠った。医者は診察には一度しかこなかった。私は、一ヶ月で「退院します」と 言って出てきた。その後、発作もでなくなり仕事へも復帰した。すべてが順調に進む事のように思えた。し かし、仕事の行き帰りちょっとした音が運転中するたびに誰もいないのに人をひいたのではないかと思う ようになってきた。怖くて怖くて仕事から帰ってきた後必ず何度も両親に状況を説明し「私、人をひいてい ないよね」と聞くようになった。そして、仕事では何でも完璧に疑問が解けるまでしつこく同僚に説明を求 めるようになった。そのうち自分でもやはり、これはおかしいと思いはじめた。ふたたび、大学病院の精神 科に行き診察を受ける。入院との事になったがやはり大学病院は空きがなく、別の病院を探す事となる。 優しそうな医者が私に問いかけた。「あなたの望む病院とは何ですか」私は答えた。「とても綺麗な病院 でテレビがついているところです」と。そこで一件の精神科を紹介された。そして入院する。たしかに綺麗 だった。広い個室。テレビ、エアコン、ロッカー二つ、机、椅子、タンス。そして私は診察の結果、強迫神経 症との判断をくだされる。そして幸運な事にそこの院長は、強迫神経症の研究をしている人だった。私は、 あまりにも綺麗な設備の為だんだんと確認をするようになった。看護婦さんを深夜問わずに呼び出し、今 触ったものが壊れてないか何度も繰り返し聞いた。それがひどくなるにつれ、両親は病院に不信感をつの らせたのだろう。どうにか無理を言って、大学病院に転院させてもらった。偉い医師がやってきて「行動療 法をやってみようと思う。きついができるか」と私に聞いた。私が「治るなら」と答えると「治る」と返事がか えってきた。次の日、主治医になる先生に会わされた。眼鏡をかけた神経質そうな先生だった。そして、 まず気になる事をノートに書いてその対処法を書くようにとノートを渡された。大学病院とはいえ古ぼけて いた。私は安心した。病気も治ったものと思った。ところがである。同じ部屋に潔癖症の子がいた。彼女は 、共同の洗面台にハンドソープを置いていた。私はなるべく彼女の気にさわらないように慎重にそのハン ドソープをよけて手を洗ったりしていた。私はそのうちどんどん彼女にバイ菌をとばすのではないかと考え はじめ、ついには、自分もハンドソープを購入し手がすり切れて血がにじむまで手を洗うようになった。そ んな私の姿を見て責任を感じたのだろう。彼女は部屋替えしてもらった。しかし、もう遅かった。私は、不 潔恐怖という症状も持つ事になる。行動療法が続いていた。手を洗わないよう少しずつ我慢をしなければ ならない。とても、苦しく私は何度も夜中に手を洗いに行き、何度も同室の人に止められた。大学病院は、 治ろうが治るまいが三ヶ月で退院しなければならなかった。私は、ほとんど治らないまま退院した。実家 に戻る。私の確認行為はひどいものになった。ありとあらゆる物を拭き、夜中に何十回と手を洗い、何十 回も親に清潔かそうでないかを確認した。父は激怒し、母は泣いた。弟は私の事を無視し「身体障害者」 とののしった。そのうち、味方だったはずの母までが私を叱り、たたいた。そして、大学病院に二回も入 院する事となる。そして、主治医のすすめで援護寮のある病院に入院した。そこでも相変わらず手を洗い 確認をし、ありとあらゆる物を拭いた。そして、2002年5月20日、私の最愛の祖父が死んだ。末期癌だっ た。私が入院するたびに「かわいそうだ」と泣いてくれた祖父。私は涙にくれた。もう人生どうでもいいよ うな気がした。しかし、私は今までの自分を恥じた。何の努力もしていない。治す気すらない。祖父の期 待に応えられなかった。私は、最低な人間だ。そこで私の闘病生活は始まった。まず、絶対に何があっ ても拭かない事を自分に誓った。気になる時は祖父の死に顔を思い出してやりすごした。次に確認をや める事を自分に誓った。気になる時は、病院のロビーに行きジュースを飲みながらたばこを吸った。そし て、私は病気を克服する事ができた。その後援護寮に入れられたがわずか二ヶ月で家に帰ることとなる。 現在は、前の会社を辞め新しい職を探している。元気でもない。手首を切ったり、わめいたりしている。 強迫神経症は治ったが、すっかり感情をむきだしにしている状態になっている。これからも戦いだろうか。 新たな病気と。しかし、私は頑張るつもりでいる。祖父に天国で会ったとき胸をはって「頑張ったよ」と言 える日まで・・・。 |