残 像
型崩れしかけたスーツの男が光秀を注文する。まだ若い声だ。マスターは微かに眉をひそめる。うちには置いていないのです、あれは強すぎますのでね。
グラスを磨きながら訊ねてみる。ナポレオンはいかがですか? 戴冠式1804。自信がみなぎり、飲むほどに輝きを増すという、名にしおう逸品。それでも男は札束を突き出して光秀にこだわる。仕方なく一枚抜き取り、ラベルのない小瓶をカウンターに置く。男はのっそり立ち上がり、封を切って一息にあおると空瓶を残して出てゆく。
上司と喧嘩か、馘にでもなったのだろうか。マスターは吐息をついて店仕舞にかかる。本能寺1582は迂闊に出せる品ではない。世界は今も無意味な辛辣にあふれているけれど。あの炎は放った者の魂をも焼き尽くし、ほどなくその命まで奪ったのだ。だからさっきは熟成前の若い光秀を出した。放浪の青年を包みこんだ夕焼けが飲む者の網膜に蘇るはずだ。腹が減ってせつなくて、頑張っていつか一旗揚げようと思う、知られざる佳品。
本物の残像が飲めるささやかなバーに休息が訪れる。今夜の一杯はベートーヴェンの第九初演1824。耳がぼぉんと霞み、彼方から喝采が潮のように押し寄せてくる。