


1996年にトライトンの輸入を開始してからずっとお世話になっている同社のゲリーさん。 Dale Earnhardtのそっくりさんだ。
左から二人目が創業者のEarl Bentz氏。 ディーラーミーティングのパーティでは
様々な人たちが彼を囲むのでなかなか割り込んでお話しができません。
Xシリーズの試乗風景。 トライトン社のディーラーミーティングでのヒトコマ。
これがスプリングを組み込んだシート。 大きなアメリカ人ガ使っても壊れない耐久性。
純正装備されるTHマリン社製のジャックプレートには2004年度よりこのようなスキッドプレートが取り付けられる。 ドラッグレースでは昔から加速性能が向上するのでは、との願いから様々な形状の物が取り付けられていた。
↑ラダーを格納したときの状態。
これが収納可能なラダー。 レイ・スコット氏が安全対策のために一生懸命広めようとしているシステムだ。
トライトン社の沿革
トライトン社の研究開発部門長はRoarke Summerford氏である。 彼は北米のドラッグレースを現在も席巻しているSTV (Summerford Tunnel Vee)を開発したボートデザイナーである。 大学生であった1970年代からレースボート艇の開発に取り組みベンツ氏にスカウトされるまではSTVの製造会社(STV社)を経営していた。 彼のトライトン入社に際してSTV社はトライアッド社に売却され、現在はそこでSTVが製造されている。
創業者であるアール・ベンツ氏、サマーフォード氏共にパワーボートレース界では確固たる地位を築いた人物だが、トライトン社は以外にもボートの走破性だけを追求せず、釣りのし易さ、快適性、強度、耐食性、メンテナンス性など総合的な観点からボート開発に取り組んでいる。 同社は毎年のようにモデルチェンジを繰り返しているが、これは顧客からの意見に耳を傾け絶えず改善を行っていることの証である。

↑一番水辺で映えるボートだと個人的には思う。

チャインウオークの対処法□
トライトンは一般的にチャインウオーク(走行中艇が左右にシーソーのように大きくゆれること)がひどくて乗りづらいといわれている。 一部のバスボート経験が豊富な方からも「60マイル位から暴れてしまうので乗りこなせない」といった意見が聞かれることがある。 だがこれには大きな誤解がある。 まず波に強くて(=Vがきつい)かつ200馬力で実測70マイル以上出せる船は必ずチャインウオークが発生する。
仮に熟練のバスボーターでもチャインウオークを経験したことがない方がいるとすればその方が操縦されている艇は重すぎてエンジンの馬力のみでスピードを出しているのか、もしくはV角度が浅すぎて波に対する走破性が著しく劣る船ではないだろうか。
簡単に言えば以下の方程式が成り立つ:
(チャインウオークが出る)= (波に強い船)+(スピードが出る船)
= (操船技術でどうにでも対処できる)
・・・ということ
補助輪がない自転車に乗れるようになるまで多少の練習が必要なのと同じようにチャインウオークを乗りこなすには若干の練習が必要だ。
これは口で表現するのは難しく体で覚えるしかないのだが、まず1)ハンドルは左舷に少し重めに持つこと、2)船の動きにあわせて小刻みにハンドルを右、左に動かして船のバランスを保ち、そして3)絶対に大袈裟で頻繁な動作を行わない、という点がコツとして挙げられる。 人によって様々なコツのつかみ方があるようだが、一番効果的なのはとにかく一日中艇に乗ること。 様々なアドバイスよりseat timeが最も効果的なのである。
ところで皮肉に聞こえるかもしれないが、トライトンで発生するチャインウオークごときで大騒ぎしておられる方はまだまだバスボートの操船技術が未熟な方だと言える。 アリソンなど超高速艇で発生するチャインウオークははるかに次元を超える乗りづらさがあるので・・・
北米のトーナメントで必ず参上するトライトン社の大型トレーラ。
そしてこれがトレーラ内部の密談室。

そして、その信頼性の高さから、2003年には、B.A.S.S.バスマスタークラシックのオフィシャルボートとして採用され、名実ともに不動の地位を獲得した。
トライトン・バスボートの商圏はアメリカ合衆国とカナダ全域に拡がる。その総面積は日本の約51倍だ。この広い国土でボートに求められるのは、多様な気候と環境に対応できる高い品質である。亜熱帯気候のフロリダ、延々と砂漠が続く灼熱のアリゾナ、そして1年の半分は雪に覆われているカナダの山地の気候にも耐える必要があるのだ。また、ミシガン湖やエリー湖では荒波をものともしない走波性と強度が、スポーニングシーズンでは、超シャローでも船底を傷つけないために喫水線の浅いボート形状が求められる。このような地域での顧客の欲求を(そして一部は相反する要望もあるが)すべて満たさなければ、北米のバスボート市場を制覇することはできないのである。
また、これは筆者の主観なのだが、北米のバスボート市場は自動車市場などに比べて保守的な市場のように見受けられる。筆者の個人的な経験だが、1950年代に祖父が初めて購入したボートと船外機に愛着を持ち、それと同じメーカーが投入するバスボートと船外機しか購入しない、というユーザーに出会ったことが幾度もある。バスフィッシングのメッカである合衆国南部では、とくにブランド・ロイヤルティーが代々引き継がれる傾向が強いと感じられる。
このような広大で保守的な市場においてトライトンはどのようにしてバスボート業界を短期間で席捲するまでに成長することができたのであろうか。これについては、トライトンの創業者で現在もCEO(最高経営者)を務めるアール・ベンツ氏抜きにして語ることはできないであろう。
著者が初めてベンツ氏にお会いしたのは、1998年の冬である。日本の輸入元であるTBJ,Inc.の代表者(当時)に同行してトライトンの本社事務所を訪問したときだ。
同社はすでにバスボートメーカーとして確固たる地位を築いており、ベンツ氏はバスボート業界の寵児として注目されていた。
社長室に招かれ、握手を交わすなり、彼はポツリと言った。
「僕はOMCをクビになった人間だから」
当時のOMC(Outboard Marine Corporation)は、マーキュリーと肩を並べる規模の大手船外機メーカーであり、その傘下にはストラトス、ジャベリン、ハイドラスポーツといったメジャーなバスボートメーカーを持つ巨大グループ企業であった。
トライトンを創業するまでOMCの経営幹部を務めていたベンツ氏は、従来より製造コストがかかる付加価値の高いバスボートの開発を提案し続けたが、1996年、ベンツ氏の提案が採用されるどころか、彼はOMCから退職せざるを得ない状況になってしまったのである。そして退社から数ヵ月後、ベンツ氏は私財を投入してトライトンを立ち上げたのだ。
このような経緯を知っていただけに、相当なやり手で能弁な経営者像を描いていたのだが、ベンツ氏は私の勝手な想像とは裏腹に、寡黙で少しシャイな人間であった。
とりあえず、日本のバスフィッシング動向について説明をするすることにしたのだが、ベンツ氏はとくに語らず、終始ニコニコしながら静かに耳を傾けてくれた。
そんな出会いを皮切りに、毎年開催されるトライトン社の販売店を対象としたディーラー・ミーティングなどを通じて、何回かベンツ氏にお会いする機会に恵まれたのだが、回を重ねるごとに、ベンツ氏のあることに気づいたのである。それは、人との出会い、とくに顧客との触れ合いをとても大切にしているということ。とことん顧客のお話を聴く。これこそがベンツ氏が成功したもっとも最たる要因なのだ、と。
ベンツ氏は1951年12月8日生まれで、現在57歳である。バスボート業界の仕事に従事してすでに40年以上が過ぎ、バスボートの歴史とともに人生を歩んできたといっても過言ではないだろう。
ベンツ氏はジョージア州コロンバス市で産声を上げ、生後間もなく両親の故郷であるサウス・カロライナ州チャールストン市に移り住んだ。サウス・カロライナ州は亜熱帯気候の非常に温暖な地域で、バスフィッシングも非常に盛んなことで知られる。ちなみに、バスアングラーなら誰もが知っているキャロライナリグは、この州のロコアングラーが考え出したことはあまりにも有名な話だ。
1966年、ベンツ氏は叔父が運営する小さなボート修理工場でこの業界での仕事を始めた。まだ14歳だったベンツ氏は、当時としては”新”素材であった強化プラスチック(FRP)の生成技術と補修方法や船外機の修理とチューニングを学んだ。また、出入りする顧客との対話を通じてアングラーが求めるニーズを聞き出し、それを自分のできる範囲内で具現化することに努めた。バスボートの市場はまだ草創期にあり、さすがのベンツ氏も今日の規模にまでこの市場が成長するとは思っていなかったであろう。

<マーキュリーレーシングに所属していた頃のアール・ベンツ>
なお、当時、彼の叔父の工場が扱っていたバスボートのほとんどは、レンジャーやスキーターであったという。現在でもトライトンと市場シェアを競う大手バスボート・メーカーである。ベンツ氏は修理作業を通じて、そういった大手メーカーのバスボートを隅々まで知り尽くすことになる。そして、油と強化プラスチックの樹脂にまみれながら、バスボートだけではなく、ハイパフォーマンス・ボート全般についての修理方法、そして操船テクニックも体得していった。
1968年、修理工場に勤務する一方、パワーボートレースにも参戦するようになり、北米でもトップクラスのレーサーとなる。そして、その類まれなセンスが認められ、船外機の最大手メーカーであるブランズウィック社傘下の、当時も現在もマリン用エンジンメーカーとして世界最大手の企業であるマーキュリー・レーシングに所属することなった。 ベンツ氏は、北米やヨーロッパのパワーボートレースを転戦し、マーキュリー・ブランドの船外機の開発にも携ることになる。
1960年代当時のバスボートの船底形状は、ほとんどが平面で、湖面が少しでも荒れると、木の葉のように船が暴れてしまい、とても操船できる代物ではなかった。換装される船外機が、最大でも50〜60馬力と現在主流になっている200馬力前後であることを考えると、船体には大した強度は求められていなかった。しかし、1970年代に入り、150馬力以上の船外機が流通し始めると、一部のアングラーたちはよりスピードを競うようになり、当時としては標準サイズであった全長15フィート前後のバスボートにマーキュリーの150馬力のエンジンを積み始めたのである。そんなスピード狂のアングラーたちがバスフィッシングのメッカである合衆国南部で増えてきたのだ。バスボートの高馬力へのニーズは高まっている。ベンツ氏は修理工場の現場で、そしてパワーボートレーサーとして北米各地を転戦するなかで、そう実感していた。

<ストラトス創業期のアール・ベンツ>
1975年、ベンツ氏は叔父の工場を退社し、テネシー州ナッシュビル市に居を構えた。当時、大手バスボート・メーカーの一角を担っていたハイドラスポーツ社で働くことになったのである。そこでベンツ氏は、のちにトライトンの設計を総括することになるローク・サマーフォード氏と出会う。
バスボート・デザイナーとしてベンツ氏とサマーフォード氏はベストセラーであったハイドラスポーツの17ftモデルを大幅に改良。バスボートの高馬力化、すなわち高速化が進むなかで、ベンツ氏とサマーフォード氏は波切りのよさ、そして釣りをする際の静止安定性を重視したハルの開発に尽力し、斬新的なデザインのモデルを市場に投入して大成功を収めた。
新生ハイドラスポーツの主な改良点としては、波切り性能を向上させるためにVハルをより鋭角にする一方、高速時での安定性を高めるためにパッド(船底にある平らな部分。高速走行時に唯一水面と接触している箇所)の面積を大きめにしたことがあげられる。そして、釣りをする際の静止安定性を向上するためにビーム(ハルの幅)を全体的に幅広くした。つまり、1970年代には現在のトライトン・バスボートの原型ができあがっていたわけである。
また、マーキュリー・レーシングの一員としても活躍していたベンツ氏は、のちに世界標準仕様となる、V6エンジンを搭載した船外機の開発に携ることになる。当時マーキュリーは、海用のパワーボートを対象に開発を進めていた。だが、ベンツ氏はそのような大排気量のエンジンはバスボートにも換装されるはずだと強く主張し、当時のマーキュリー社の幹部を相当困らせた、というエピソードがある。実際、V6エンジンが市場に投入されると、その販売台数の約8割がバスボートに換装されたという。
ベンツ氏は、三十路を迎えるころには北米のマリン業界で彼の名を知らない者はほとんどいないほど、パワーボートレーサー、バスボート・デザイナー、そして船外機の開発において多大な功績をあげていた。そんな彼が自身のボートメーカーを立ち上げることは自然の流れであったのだろう。1983年、ベンツ氏はストラトス社を創業し、若くしてバスボート・メーカーの社長としての責務を担うことになる。
ちなみに、ストラトス社の名前は、ストラトスフェア(Stratosphere=高層)に由来している、とのこと。より高い次元を追求することを目指してベンツ氏が名づけたという。ストラトスは短期間で北米を代表するバスボートに育ち、設立からわずか4年後にはOMCに会社ごと売却することになる。
OMC(Outboard Marine Corp.)は、ジョンソンやエビンルードといった船外機部門、そしてバスボートや海用のパワーボートなど複数のボートメーカーを傘下におさめる巨大企業であった。1987年、ストラトス社をOMCに売却すると同時に、ベンツ氏は同社フィッシング・ボート部門の経営幹部として採用され、バスボートの設計だけではなく、製造ラインを構築する業務も総括した。
経営幹部として当初は充実した日々を過ごしていたベンツ氏であるが、根っからの起業家である彼が、大企業の一員として安泰な日々に身をゆだね続けるわけがない。「あのような大企業はお客さんのことよりウオール街の顔色ばかり気にするんだよね」と、ベンツ氏は当時を振り返る(注:OMCは当時ニューヨーク証券取引所に上場する企業グループだった)。
ベンツ氏の頭の中には、新しいバスボートの構想が芽生えていた。それまでのバスボートは船体のほとんどがFRPで作られているにも関わらず、トランサムやバルクヘッド、リブなど強度が求められるパーツには必ず耐水処理を施した合板(木材)が使用されていた。ベンツ氏はそういった木材の代わりに、強度が求められるパーツには硬質発泡プラスチック芯材を使用した、いわゆる100%コンポジット・ボート(バスボート業界ではプラスチックなど高分子化合物のみで製造で製造されたボートを意味する)の開発に乗りだしたのだ。
さっそく社内でこのような付加価値の高いバスボートの開発を提案するが、従来よりもコストが10%以上高くなることが障壁となった。コストを重視する大企業にはそのアイディアを採用する余裕が一切なかったのである。時は1990年台初頭であった
1990年代の経済指標を見る限り、アメリカの市場は1987年のブラックマンデー(ニューヨーク市場の大暴落)からは立ち直り、好景気を迎えていた。
しかしその一方、ドルの為替レートが70円台と史上安値になるなどドル安傾向が続き、アメリカの一般消費者には好景気の実感はなく、ジョブレス・リカバリー(雇用なき成長)などと揶揄されていた時代である。「バスボートのようなラグジュリー製品は市場から消えてしまっても仕方がないだろう」と言い残し、ボート業界から去っていった関係者も多かった。
「OMCではコスト・カット、コスト・カットと言われ続け、辟易した」とベンツ氏は振り返る。

こうなったら新しいバスボートは自分で造るしかない。ベンツ氏はまずOMCのボート部門をそっくりそのまま売ってもらえないかOMCの経営幹部と協議に入った。いわゆるMBO(マネジメント・バイアウト=経営幹部による企業買収)である。しかし、OMCの経営幹部たちは交渉のテーブルにはついたものの、その対価で折り合いがつかなかった。交渉が決裂すると、今度は自身がデザインしたバスボートをOMCに製造してもらえないか(いわゆるOEM製造を)打診したが、これも交渉は決裂。そして1996年、ベンツ氏は44歳でOMCを去ることになった。
その後、OMCの業績は低迷を続け、2000年12月には破産法の適用を受けて従業員約7000名が解雇されることになる。さらに破綻から1年後、傘下の大手船外機ブランドであるジョンソンとエビンルードがカナダの輸送機器メーカー大手であるボンバルディア社に、ストラトスやハイドラスポーツなどのボート部門をボート関連企業の大手持ち株企業であるジェンマー社にそれぞれ売却された。
一方ベンツ氏は、1996年に私財だけでなく知人などからかき集めた約600万ドル(約6億円)を資本にトライトン・ボート社を設立。ナッシュビル市内で閉鎖した靴工場を見つけ、そこでボートの開発と製造に着手した。
創業当時の社員はわずか25名。ほとんどがベンツ氏を追いかけるようにしてOMCを退職してきた人々である。その後、数年間で従業員が300名に膨れ上がろうとは、このとき誰も知る由はない。また、ベンツ氏が業界でいかに信頼されているかを裏付けるエピソードだが、トライトン創業からわずか数ヵ月の間に600にも及ぶボート販売店から正規販売契約についての打診があったという。
話を戻そう。1996年9月、OMCを退職してからわずか5ヵ月後、ベンツ氏は16〜21ftのバスボートのフルラインアップを市場に投入した。洗練されたダッシュボード、20cm以上の厚さを誇る豪華なシートなど、ベンツ氏はラグジュアリー・バスボートを具現化し、その豪華な装備を備えたバスボートで北米全土のアングラーの度肝を抜いた。
また、トライトンを創業する際、ベンツ氏は1970年代にハイドラスポーツに勤務していたときに知り合ったローク・サマーフォード氏を設計部門の責任者として採用した。サマーフォード氏はトライトンで任務に就くまでの20年間、自ら立ち上げたSTV社(Summerford Tunnel Veeの略)においてレースボートの開発に従事し、彼が投入するパワーボートは北米のレース市場を席捲し、スピードの世界記録を塗り替えていた。
そんな「走り」を知り尽くしたサマーフォードは、トライトンを開発するうえでも当然ながら走る楽しみをふんだんに取り入れることによって、ボートに精通したハイエンド・ユーザーからも高い支持を受けた。そのほかにも、創業からわずか2〜3年の間にアルミボート、ブルーウォーターボート(海用のセンターコンソール艇)を市場に投入した。
まったくの偶然であるが、筆者は1996年12月にトライトン社を訪問したことがある。ベンツ氏は不在であったが、創業期から副社長を務めるポール・リーガー氏が工場内を案内してくれた。ナッシュビル市内の仮設工場はすでに手狭になっており、製造中のバスボートが所狭しと並んでいた。リーガー氏は「すでに受注は月間100艇を越えている」と誇らしげに語っていた。
余談だが、そのなかには50年代のアメリカの自動車を彷彿とさせるようなテールフィンを携えたバスボートやカタマラン・タイプの試作艇もあった(市場には投入されなかったが)。
このように、OMCの失速をよそにトライトン・ボート社は、好景気に踊る北米経済を追い風に快進撃を続けた。後に好景気の波に上手く乗れたことがトライトンの飛躍の理由のひとつとして頻繁に指摘されるが、「それはまったくの偶然であり、2000年を境に北米のバスボート市場がこれだけ盛り上がることはまったく想定していなかった」とベンツ氏自身は振り返る。とはいえ、ラグジュアリーボートの需要について先見の目があったことは誰も否定しないであろう。
創業1年目にしてトライトン・ボートの名は瞬く間に北米全土に広まり、創業当時の仮設工場では生産がまったく追いつかなくなっていたが、1997年7月、ナッシュビル郊外のアシュランドシティーに念願の新工場が建設され、本格的な生産体制が整った。ちなみに、この工場は現在もトライトン・ボートの唯一の工場であると同時に、その高い品質と信頼性が買われ、2009年からはブランズウイック社からの要請でトライトン以外のボート製造も請け負うことになっている。
さて、設立から3年後、トライトン・ボート社の年間売上高は1億ドル(約100億円)を超え、レンジャー、スキーターと並んで北米市場でナンバーワンのシェアを競うまでに急成長した。
1999年、バストーナメントを主催するB.A.S.S.を1967年に設立し、現在のバスフィッシング市場を作り上げた張本人といっても過言ではない、レイ・スコット氏がトライトン・ボート社のスポークスマンとして着任した。
「OMCも含めてたくさんの企業からオファーをいただいた。契約金は他社のほうがよかったが、アール君と一緒に歌ったり踊ったりするほうが楽しいと思った」と、スコット氏は彼独特の表現でコメントしている。
トライトン・ボートの希望小売価格は、当時の一般的なバスボートの売価より10%以上高く、21ftのバスボートでは初となる4万ドル台を提示。また、2000年を過ぎたころには大手バスボートメーカーとして初めて5万ドル台の売価を提示した。つまり、トライトンはバスボートの高付加価値化を率先して進めてきた企業なのである。
一方、OMC(※ベンツ氏がトライトン・ボート社を立ち上げる直前にいた会社)はトライトン・ボート社への対抗策としてボート販売店への卸値を大幅に引き下げるなど、低価格戦略を推し進めていった。その結果、ジャベリンなどOMCが製造するバスボートとトライトン・ボートとの価格差は3割以上にもなった。OMCのボート部門にとってはとてつもないライバルが現われたわけだが、エビンルードなどOMCの船外機は多くのトライトン・ボートに搭載され、結果としてトライトン・ボート社はOMCの最重要顧客となった。
2005年5月、ベンツ氏はトライトン・ボート社をマリン業界最大手企業でマーキュリーマリンなどを傘下に持つブランズウイック社に売却する。その対価は約6000万ドル(約60億円)であった。ベンツ氏は約6億円の出資金で創業した企業をわずか9年でその10倍以上の価値にまで育てあげたことになる。だが、トライトン・ボート社売却に伴う第一条件はその膨大な買収価格ではなかった。ベンツ氏が引き続きトライトン・ボート社のCEO(最高責任者)として経営の舵取りを続けることがブランズウイック社の強い要望だったのだ。当然ながらベンツ氏がその提案を断るわけはなかった。そして、現在もベンツ氏のもとでトライトン・ボートは躍進を続けているのである。
いいボートは長年の経験と実績がなければ作れない。仮に品質の高いボートを作ることができたとしても、そのよさを日本の50倍もの国土を持つアメリカ合衆国とカナダ全域に広めることは並大抵の努力では実現できない。トライトン・ボート社は設立からわずか数年で全米を代表するボートメーカーになったが、ベンツ氏は一夜大尽ではないのだ。
保守的で広大な北米全土に広がるバスボート市場をわずか数年で席捲したベンツ氏は、トライトン・ボート社を設立するまでに30年近くにも及び、ボート業界での信用と実績を築きあげてきたからこそ、トライトン・ボートで大成功を収めることができたのである。
ベンツ氏は全米の販売店、プロアングラー、そして一般のアングラーとのコミュニケーションを大切にしている。ストラトスを創設した時代からOMCの幹部を務めていた時代も、ベンツ氏は顧客やアングラーを自宅に招き、全米各地の固有なニーズに耳を傾けてきた。ベンツは述懐する。
「OMCに勤務していたときはこういった(顧客を接待するための)予算がまったく下りなかった。仕方がないから自腹で顧客を招待していたんだ」
筆者は1996年から今日まで累積で数十名以上のトライトン・ボートにかかわる従業員と接してきた。そのなかで、意気投合し、トライトン・ボートで一緒に湖に繰り出した人数は10名を下らない。

<アール・ベンツ>
また、トライトン・ボートには、家族で勤務している人も多い。従業員の名簿を見せてもらうとラスト・ネームが同じ社員が多いことに気づく。父親と息子、そして夫婦共々がトライトン・ボートの製造ラインに従事しているケースが多い。この点からも、ベンツ氏の人柄をうかがえるのではないだろうか。
17ft以上、100馬力以上の船外機を搭載するバスボートが市場に現われてから約40年が経過した。その間に北米ではおそらく200社以上のバスボートメーカーが誕生し、米国の景気が後退局面を向かえるたびにその多くが消えていった。今回のサブプライムローン問題を発端とした景気後退局面においてもバスボートメーカーの淘汰は進むことが予想される。
しかし、ブランズウイック社という年間売上高が5000億円を超える大企業の資本力、そしてベンツ氏のバスフィッシング業界で培ってきた信頼と実績により、トライトン・ボートは今後もバスボート市場のけん引役として発展を続け、若いバスアングラーたちの憧れの対象としてさらに強い企業に成長していくだろう。
ベンツ氏は現状に甘んじるような人間ではない。これからも我々の度肝を抜くようなすばらしいバスボートを市場に投入し続けてくれるだろう。彼のますますの活躍に期待したい。
Triton Boats
"world's biggest boat company"
トライトンのバスボートに関するお問い合わせはトライトンボートジャパン(TBJ)までお願いします。
住所: 茨城県神栖市息栖153
トライトン・ボート・ジャパン(TBJ)
TBJ は1996年にトライトンの正規輸入を始め、2009年7月時点で120隻以上の輸入実績があります。 トライトンに特化した永年の実績でメンテナンス&修理サポートを提供しております。 尚、TBJ(Triton
Boat Japan)の称号の使用許諾は米トライトン社から正式に認められています。

an authorized dealer for Triton Boats
ラップドボートと特注オレンジジェルコート艇がならんでパチリ かっちょえぇ〜