PREMIERE 1993年1月号(US版)・6月号(日本版)

The Kid Does 'CHAPLIN' 「チャーリー」:困難な製作状況に打ち勝った男たち
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監督のリチャード・アッテンボローにとって、『チャーリー』を監督作品にすることは容易なことであったが、それに対して製作費を与えてくれるスタジオはなかった。
しかし、持ち前の礼儀正しさでアッテンボローは、見事に『チャーリー』を完成させた。

BY CYNDY STIVERS(シンディ・スティバース)


「トーキーだ!トーキーの時代がやってきた」

1991年12月のとある風の強い朝、ロバート・ダウニーJr.とケビン・クラインは、有名なハリウッドの文字の看板の複製のそばでふざけていた。ここはバーバンクから1時間ほど北に広がる丘陵也帯。リチャード・アッテンボロー監督の新作は、サイレント映画のパイオニアの生涯を描いた、製作費3700万ドルの『チャーリー』である。ベレー帽を被り、ダグラス・フェアバンクス役のクラインは、アスコット・タイと乗馬服でキメている。

「放浪紳士が喋るなんて、想像できるかい?」とチャップリンがおどける。「そんなこと、夢にも思わなかったよ」

当時、この有名な看板は、新興の不動産会社の社名である"HOLLYWOODLAND"と綴られていた。だが『チャーリー』のセットではHとOの下半分しか再現していない。残りはポストプロダクションで付け加えるのだ。

「なあ、ロバート」と、アッテンボローは、主演俳優に話しかける。「このシーンだけど、ホントにタバコをくわえて、演じたいのかい?」

「実は迷っているんです」とダウニーは答える。

「私もいいアイデアじゃないと思っている」 アッテンボローは、信じられないほどの礼儀正しさ、このうえない高貴なオーラ、それにユーモアを組み合わせながら監督する。この日のずっと後、チャップリンが茂みで立ち小便する場面で、彼はダウニーにこう演技指導した。「だけど君のバナナは隠してくれよ」

69歳のプロデューサー兼監督は、陽が沈む前に撮り上げようと焦っている。そのため、昼休みなしで撮影を続けているが、スタッフは不平をこぼさない。アカテミー賞8部門に輝く『ガンジー』を監督した人物と仕事ができて光栄だと考えているのだ。それにスタッフは時問が限られていることをよく承知している。アッテンボローがこの映画の資金繰りで大変苦労し、結局ふたつのスタジオと3社の外国企業(日本衛星放送も含まれている)を説得したことも。そして彼しか知らないが、苦闘はまだ終わっていない。カロルコ・ピクチャーズは経営難で、全職員の4分の1が解雇された。

「資金は銀行の口座に入金されている」とアッテンボローはスタッフを安心させる。「この作品がボツになることは100%ないよ。たとえカロルコがどうなろうと、我々に影響はないんだ」 チャップリンカ映画史に偉大な足跡を残した人物であることに疑問の余地はない。だがアッテンボローが1年近く走り回っても、ハリウッドでは誰もこの映画に金を出そうとしなかった。アッテンボローは、ユニバーサルの3本契約のうちの1本として、『チャーー』の準備に2年を費やしていた。だがクランク・インする数週問前、突然ユニバーサルは手を引くと通告してきた。1年前のデータブックが古文書扱いされる映画界では、チャップリンは大昔の偶像だ。また素顔のチャップリンは、アッテンボローが扱った映画のガンジーやスティーブン・ビコのような偉大な人物ではなかったので、ヒットするとは限らないと考えたようだ。

しかし11歳の時、父親に連れられて『黄金狂時代』を観て以来、チャップリンの大ファンになったアッテンボローに言わせれば、チャップリンは文化におけるガンジー・クラスの偉人である。「チャーリーは、私の世界観に誰よりも大きな衝撃を与えた」と彼は言う。


ユニバーサル映画とアッテンボローの大きな衝突とは……
THE IDEA FOR THE FILM――
『チャーリー』のアイテアが浮かんだのは'87年半ばだった。つまりユニバーサルがアッテンボローに、彼が作りたがっていたトマス・ペインの伝記映画は製作費がかさみすぎると告げた直後だった。ヒントを与えたのは、30年に亘ってアッテンボローの映画宣伝をしているダイアナ・ホーキンスだったので、彼はお礼に彼女をこの企画のアソシエート・プロデューサーに任命した。そして遂にユニバーサルは、チャップリンの人生と彼が作り出した映画のシーンとの問に多くの類似点を見つけ出し、ウィリアム・ボイドの脚本にOKを出した(トム・ストッパードも脚本に目を通し、セリフを手直しした)。

物語は、チャップリンのロンドンでのどん底生活を送った少年時代から始まり、83歳にいたるまでの私生活と仕事を描いている。精神に異常をきたしてしまう母親を演じるのは、チャップリンの実の娘ジェラルディンだ。ハリウッドにやってきたチャップリンは、キーストン喜劇のプロデューサー、マック・セネット(扮するはダン・エイクロイド)のもとで映画に出演するようになり、メイベル・ノーマンド(マリサ・トメイ)やエドナ・パービアンス(ペネロープ・アン・ミラー)らと共演する。人気が沸騰してからは、チャップリンは持ち前の政治観で、FBI長官J・エドガー・フーバーを苛立たせ、若い女性に弱いという性癖を露呈する(ミラ・ジョボビッチが最初の妻を、ダイアン・レインが3番目の妻ポーレット・ゴダードを演じる)。女優ジョーン・バリー(ナンシー・トラビス)から偽りの父権認知訴訟を起こされた後、チャップリンはアメリカから追われる。だが1972年、チャップリンと彼の4番目の妻ウーナ(モイラ・ケリー)は、ロスに戻ってアカデミー特別賞を受賞する。また『チャーリー』は彼の人生を語るだけでなく、『キッド』『黄金狂時代』『モダン・タイムス』といったチャップリンの名作のオリジナル映像をちりばめながら、ハリウッド式映画製作の歴史をも再現している。

ダスティン・ホフマン、ビリー・クリスタル、ロビン・ウィリムズを含む、少なくとも6人の大スターがチャップリンを演じたいと監督にアプローチした。監督は30人の候補と会ったが、ロバート・ダウニーJr.がダントツの先頭ランナーというわけではなかった。オーディションが始まる半年ほど前に、初めてダウニーと顔を合わせた時、アッテンボローは感銘を受けたというより、あっけにとられた。

「半ズボン姿にイヤリングで現れたんだ」とダウニーは苦笑しながら思い出す。「昔風に見えると思ったんだ。何を考えていたんだか」 アッテンボローは、「是非、この役をやりたいんです」とまくしたてるダウニーをじっと静かに見ていた。アッテンボローは、「彼の若さ、物真似の巧みさ、老人になりきれる才能、身の軽さ、耳の形、背の高さ、それにチャップリンに似ていることを考え合わせて」結局ダウニーを選んだのである。

撮影準備の時点では、アッテンボローは自信満々だった。ちょうど彼の映画活動50周年にあたっていたし、『ガンジー』以来ずっと組んでいる百戦錬磨のメイン・スタッフに囲まれていたからだ。

クランク・インは1991年3月半ばのため、それ以前から大きなセットの製作は始まっていた。北ロンドンに作られたビクトリア朝時代の通りと、ロスの北西約60マイルにあるフィルモアの田園地帯に、マック・セネットとチャップリンのそれぞれのスタジオを建設した(チャップリンの実際のスタジオは、今もノース・ブレア1416番地にあるが、現在はA&Mレコードの本社として使われている。だが当時の風景の再現に不可欠なオレンジ果樹園は今はない)。ところが「何週問たっても、ユニバーサルがGOサインを出さないのよ」とホーキンス。新しい条件が出され、ダウニーとの契約についての交渉が繰り返されたが、ユニバーサルはサインをしなかった。

遂に1月31日、つまり撮影開始のわずか6週間前、アッテンボローはいつもの礼儀正しさを捨て、ユニバーサルに最後通告を突きつけた。「言いたくはなかったが、'午後4時までにロバートに決めないなら、私はロンドンに帰国するよ'ってね」 ユニバーサルは引くに引けないだろう、というのがアッテンボローの読みだった。幾つかの大きなセットは半ば完成し、ユニバーサルはこの映画に850万ドルを使っていた。どうしてユニバーサルは手を引いたのか? アッテンボローは慣った口調で言う。「何百万ドルも使った後で、少しの意見の食い違いのために映画を投げ出すなんて、理解に苦しむね」

もっとも、あと何百万ドルも使いたくないと思っているなら話は別だ。「原因は脚本じゃなかった。問題はコストだけだった」とユニバーサルのトム・ポロック会長は言う。そしてダウニーの起用について、「超大作でなかったら、ダウニーでOKしたさ」と説明する。


撮影の再開と共に、ダウニー"チャップリン"の誕生!

KNOWING THE PROJECT――
この企画は他の資金源を至急に必要としていた。ポロック自身も、今までかかった製作費をいくらかでも取り戻せればと考えていた。そこで彼はアッテンボローに、当初から『チャーリー』の製作に関わりたいと申し出ていたカロルコのマリオ・カサール会長に連絡してみてはどうかと提案した(ハリウッドが実際いかに狭いところか実証した一例だ。ポロツクは、ユニバーサルに入社する前、カサールの弁護士だった)。2日後、カロルコのボスは、アッテンボローに1週間待ってくれれば、資金を調達すると語った。なぜこの映画に懸けてみようと思ったのかと問われたカサールは、"当代随一の名監督"と"ハリウッドで最も輝かしく、最も魅惑的な伝説"という組み合わせにはとても逆らえなかった、とあらかじめ用意していた答えを述べた。一方アッテンボローは、監督料の60%の前払いを据え置きにしてもいいと申し出た。「皆、いくらギャラが安くたって、この映画をやりたいと思ってるんだ」とダウニーは言う。

カロルコのこの取引に対しての条件は、脚本の手直しだった。アッテンボローは『遠すぎた橋』で組んだ名脚本家ウイリアム・ゴールドマンに依頼した。彼は、チャップリンと自伝の編集者(アンソニー・ホプキンス)が、人生について話し合うシーンを加えた。

撮影の中断は、数週間から数カ月に及ぶことが明らかになった。海外の会社との契約には予想以上に時間がかかったし、ユニバーサルがこの企画に関する権利とそれまでの投資に対する見返りを求めてきたからだ。目減りした資金を埋め合わせするため、アッテンボローはかつてないほどのスピードで撮影しなければならなかった。

『チャーリー』に関する請求額を巡る駆け引きの未、ユニバーサルにまず前払いで400万ドル、公開時に450万ドル支払うことで合意した(3700万ドルの製作費にはこの450万ドルは含まれていない。もっとも、その後の交渉の結果、250万ドルまで減額された)。そして7月24日、カロルコはようやく『チャーリー』のスタッフに撮影開始を指示した。その頃には、幼いチャーリー役にキャストされていた少年が、目に見えて成長していたため、別の子役を探さなければならなかったし、(外された男の子は端役が与えられた)、主要キャストのスケジュール調整にも支障が生じてしまっていた。

ロンドン郊外に建つシェパートン・スタジオのCステージは、1972年のオスカー授賞式が行われたドロシー・チャンドラー・パビリオンに変貌しており、通路にはヒッピー・スタイルのエキストラがひしめいている。金ラメ入りのタキシード・ジャケットを着たアフロヘアの男たち、大きなガウンを羽織った女たち。そして最もイカしているのは、ヨークのあるシャツに赤のベルボトム、パテント・レザーの黒いカウボーイ・ハツトという男性ダンサーの一団だ。このシーンで、車椅子に腰かけたチャップリンが動揺し、ウーナが彼を落ち着かせようとする。

メイクアップ・チェアーに7時問座り続けた後、ダウニ一が初めて83歳のチャップリンになって現れる。白髪になり、しかも頭頂が薄くなっている。顔面はすっかりラバーで覆われ、皺だらけになっている。ほとんど口を開けることができない。タバコを喫う時は、アシスタントの助けを借りなければならないし、ストローがないと何も飲めない。

チャップリンの伝記作家で、老人となったチャップリンに何度か会っているというコンサルタントのデビッド・ロビンソンが、変身は完壁だと請け合う。「素晴らしい。チャーリーに瓜ふたつだよ」と感嘆する。

午後5時15分にカメラが回る。セリフがある最初のテイクで技術的な問題が生じる。次のテイクでも、同じ不調でつまずく。更に次のテイクでも。アッテンボローは平静を保っている。「おいおい、しっかりしてくれよ」と第1助監督のデビッド・トンブリンがハッパをかける。「早くしないと死後硬直が始まっちまうぞ」 チャップリンを紹介するジャック・レモンが映し出されるビデオ・モニターを、カメラ・クルーが大慌てで調整。その合問に、アシスタントがダウニーにパスタを食べさせている。

テイク5も、テイク6も機器の不調のせいで台無しになる。「カメラのシャッターとビデオを同調させるブラック・ボックスがうまく働かないんだ」とアッテンボローは嘆く。「彼に申し訳ないよ。7時間も辛抱させたあげく、こんなことで遅くなってしまって」 だがダウニーは、気を悪くしていないように見える。不思議なことに両手の自由を取り戻して、ピアノをポロンポロンやっている(「ひとりでは何も食べられないのに、あんなことはできるんだ」とアシスタントは苦笑する)。

後に撮影監督のスベン・ニクビストは、その夜、アッテンボローの冷静さに感心したと語る。なにしろ故障のせいで、初めて予定より1日遅れてしまったのだ。「そら、癇癪玉が破裂するぞって思ったよ」とニクビスト。「機械がうまく動かないと、監督は決まって感情的になるものだからね。だけど彼は怒ったりしないんだ」

ダウニーによれば、現場の雰囲気は、「そうだな、紳士が集合して超大作を撮る、みたいな感じだったね」 アッテンボローが親愛の情を表すために言う表現の中で、ダウニーのお気に入りは、"いい子ちゃん"だ。「そんな風に呼ばれるなんて絶対ないような、いかつい男たちにもそう呼びかけるんだよ」 小柄で丸々としていて血色のいいアッテンボローは、1976年(つまりチャップリンの翌年)に芸術への貢献が讃えられ、女王からナイトの称号を受けた。イギリス映画界の"大御所"でなかったら、彼は子守の達人になっていたことだろう。

ダウニーは監督に心から感謝していると語る。「なにしろ不安に陥って、午前2時に電話をしてもちゃんと相手をしてくれるんだ。'まあ落ち着きなさい。その件については、朝話し合おう。こっちに寄るかい?'っていつもと変わらぬ、沈着冷静な声でなだめてくれるのさ」

監督はダウニーの賛辞にお返しをする。「天才を演じるのは、並大低じゃない。ポール・ムニも、アンソニー・ホプキンスも素晴らしかった。ロバートもその域に達しているよ」

アッテンボローは撮影がロンドンで行われている時、自宅にダウニーを招待した。「衝撃的な体験だったね」とダウニーが思い返す。「彼のベッドルームは簡素で趣味が良く、チャップリンの寝室にそっくりだった。不思議だろう? ふたりとも同じ調度を置いていたんだ」


伝説的人物を演じるダウニーの努力と苦悩
DOWNEY HIMSELF WAS ――
ダウニー自身は、17歳以降のチャップリンを演じるにあたって、身振りのコーチ、なまりのコーチ、そしてテニスのインストラクター(チャップリンは左手でプレーした)についた。これほど念入りに役作りするのは初めてだった。7ヵ月後、ニューヨークのプラザ・ホテルで、ダウニーがタバコをくゆらせくつろいでいた。『チャーリー』の批評が出始め、賛否は分かれていたが、誰もが彼の演技を絶賛しているのだ。「神経衰弱にもならず、皆をガッカリさせることもなく仕事を終え、ホッとしている」とダウニーは言う。「こんなエネルギーと時間を必要とする役は初めてだよ。それに、これほど結果が気になる役もね」

彼はアッテンボローが、自分を主演させるために、懸命な努力をしてくれたので余計にプレッシャーがかかったという。「監督に感謝してたさ。だけど同時に、僕は後押しに値するような役者なんだろうかって、不安になったよ。あらゆる自己評価が、頭の中で渦巻いたんだ」

そのうえレッスンは、「ホントに苦しかった。30分もフォークの動かし方を練習したら、嫌になるよ」 ダウニーはいつも、自分は物真似が得意だと思っていた。だが、彼がマスターするのは、アメリカ人には難物のビクトリア朝時代のロンドンなまりと、クイーンズ・イングリッシュだ。またチャップリンの映画を観るうちに、ダウニーは「椅子に深く腰掛けないことに気がついた。怠け者の僕にはつらかったね」

彼は続ける。「この映画の全てが勉強になったね。なまりは鍛錬を、身振りは自分を改造することを、メイクアップは僕が全く知らなかった効果と忍耐についてね」 時には1日で3種類の年齢を演じなければならないこともあった。「(出番前に)尋ねる最後の質問は、'今、僕は何歳なんだい?'だったよ」

彼は気分を盛り上げるため、「こうして苦労するのは、これが僕にとって最大のチャレンジだし、最大のチャンスだからなんだぞ」と語り続けていたという。彼はラッシュの試写に参加し、自分の上達ぶりを確認した。「未編集のフィルムを観て、自殺する気分にならなかったのは、あれが初めてだった。今回は'やった!'っていう感じだった。撮影が終わる頃は、なんでもできるような気分だったね」

『チャーリー』はヒットするかい?と、ダウニーに質問すると、「一番大切なのは、皆がチャップリンの映画を観たいと思うことなのさ。土曜の夜、パーティなんかに招待されていても、やっぱり僕は家で『キッド』を観るだろうな」

少なくともひとつは吉兆がある。アッテンボローが、ロスにあるチャップリンの古いオフィスに案内されると、そこにドジャースの帽子を被せられたガンジーの胸像があった。アッテンボローは思い返す。「奇遇ってやつだね


記事提供:ウーラさん