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カエサルの至言と歴史 |
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人の体には正面と背中があるように、物事にはすべて“表”と“裏”があって成り立っている、といえます。人の正面は自分自身で見ることはできますが、背中は鏡に写さないと見ることはできません。そのため、私たちはつい自分の正面(表)がすなわち自分そのものだと思いがちです。同じことは人間社会を捉える場合にもいえることで、私たちはどうしても社会の表層の見えやすいことに目が向きがちとなります。 このことをかの有名なユリウス・カエサルは、次のように表現しました。すなわち「人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」と。つまり、表向きの現象にとらわれてしまって、その背後(裏)にあるものを知ろうとしない、あるいは見落としがちである、という意味にも捉えられます。言い換えれば、表の現象にだけ目を奪われて、裏の本質に目が向かないということ、したがって、表だけを見るという一面的な見方ではなく、裏をも知ろうとする多面的な見方をしないと、物事の本当の姿(本質)は捉えられない、ということができます。 それでは、世の中に起きる現象の本質をみるための鏡にあたるのは何になるのか、ということになりますが、そのひとつとしてあるのが「歴史」です。『歴史は繰り返す』という言葉があるように、人間世界の現象のドキュメントである歴史の中に物事の本質が隠れている、ということになります。その意味でも、<歴史に学ぶ>ということは大切であり、本質に迫るためにも必要不可欠のことである、ということができます。こうして思いを巡らしてくるとどうしても頭に浮かんでくることがあります。それは、明治は始まってまだ間もない頃、ドイツから招かれて来日したドイツ人医師・ベルツの日記に出てくるエピソードで、明治維新以後の国づくりを担った官僚(いわゆるエリート)のものの考え方の一端を物語るものです。 ・・・東京医学校(東大医学部の前身)で教鞭をとったドイツ人医師のベルツ氏(明治9年に来日)の日記に出てくる、当時の学生の考え方の例として、明治維新以前の日本の歴史についての捉え方が紹介されている。それは、「いや、何もかもすっかり野蛮のものでした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっとはじまるのです」等々・・・ 当時の学生のこの言葉に表れているのは、明治以前の歴史の<全否定>であります。結果として彼らは、日本という国の本質を探ることを自ら「放棄」した、ということになります。発足当初の東京大学に学ぶ人たちの考え方の根本にそのようなことが内在していたことは、その後に形成された東大を頂点とした教育体制、そこから幾多の指導的立場の人々(特に中央官庁の官僚)を生み出していったという事実、そして戦前及び戦後を通じての日本の歴史的変遷に思いを巡らすと、何か象徴的なことに私には思えてならないのです。つまり、物事の本質を理解していない多くの人々のよってこの国は先導され続けてきているのではないか、ということです。その結果として、1945年8月の破綻があり、そして今、別な意味で新たな破綻を迎えているのではないか、という気がしてなりません。
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自衛隊が発する危険信号(1) |
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田母神前空幕長の「論文問題」は、同じ懸賞論文に他にも多数(97人)の自衛官が応募していたことが判明しました。その個々の内容がいかなるものであるのかは、もちろん知る由もないのですが、田母神前空幕長の「薫陶」を受けた人が多いのではないか、ということは容易に想像できることです。 そこで、このような事態を受けて、これは一体何を意味するのか?という疑念が湧いてきます。端的にいえば、戦前の歴史についての一般的な見方に対する抵抗の意思表示であるとともに、自衛隊に対する世論の喚起がそのぬらいとしてあるのではないか、と考えています。戦前の日本は、侵略国家などではなく、アジアの国々を欧米列強の植民地支配から解放した功労者なのだ、という見方を公然と主張する人たちがいることは、以前から知られていることです。しかしながら、張作霖爆殺事件そして満州国の建設、さらには「大東亜共栄圏」という<大義名分>の名のもとに真珠湾攻撃へと暴走し、日本国民のみならずアジア諸国民に多大な犠牲を強いた歴史を、肯定的にみようとしても無理があることは、もはや明白なことです(このことの例証としては、半藤一利氏による『昭和史(1926-1945)』(平凡社)を挙げるだけで充分だと思われる)。 その戦前の反省のうえに立って成立したのが日本国憲法であり、中でも第9条(不戦条項)であります。この第9条と自衛隊との関連では、政治的には、自衛のための軍備は憲法違反とはならない、という「広義の解釈(拡大解釈)」によって正当化しています。また、自衛隊の違憲性を問う裁判もいくつかあり、一部の地裁では違憲判決も出ていますが、最高裁での判断は、法的に断ずる内容ではない(高度に政治的な判断を要するもの)、との理由で司法での判断は見送られています(長沼ナイキ事件)。 こうした自衛隊を巡る、一部の人たちにとっては「中途半端な苛立たしい状況」も、今回の件の背景にはある、とみられます。すなわち、第9条を含めての憲法改正の論議と深く関わっており、自衛のための軍備をもつということと、これまでも議論となっている「集団的自衛権」との関連を憲法に明確化させる、というようなことです。したがって、戦前の日本の正当化と第9条の不戦条項の廃止を含めた憲法改正は密接に関連している、ということがいえます。そして、今回の論文問題は、自衛隊内部で今の世論に対して公然と「反旗」を翻す動きがあることを表しており、戦前の5・15及び2・26事件を連想させるものです。こうした自衛隊のことと以前から戦前の歴史を肯定化している人たちが、これを契機にその動きを今後活発化していく可能性もあるわけで、大変憂慮されるべきことだと思っています。
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自衛隊が発する危険信号(2) |
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これに対しては、以前取り上げた『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(講談社)での記述を例にあげて、国を誤った方向に導こうとする人たちへの「啓示」としたい、と思います。それは、淵田が戦後様々な人との出会いを通して、『聖書』と巡り合いそして読み進む中で次の言葉に出合ったときのことです。すなわち、『父よ、彼らを赦(ゆる)し給へ、その為す処を知らざればなり』(ルカ伝23,24) これは、イエスが十字架にかけられたときの言葉です。この「彼ら」の中に自分も含まれているのだ、と悟った淵田は、次のように述べています。 “そうか!私は47年という長い年月を、『なにをしているのか分からず』に過して来たのか。---私は過ぐる日、軍人であったので、戦場での働きを第一と心得ていた。戦争は犯罪ではない。ふだんなら、人ひとり殺しても謀殺となれば、絞首刑はまぬがれない。けれども戦場では、沢山殺した方が勲章にありつける。それは敵の人的戦力を亡ぼして、戦勝への道を開くから、昔から人類がやって来たことである。私なんかも、真珠湾で三千人も殺して、功ニ級金鵄(きんし)勲章というほまれ高いのを約束された。しかし私は、その遺族たちを思いやって、胸のうずくのを覚えていた。けれども私は軍人として、戦争もまた正義の名において平和へ至る道だと心得ていたので、なおも体を張り命をかけて、戦いつづけていたのであった。軍人として祖国への忠誠だから、それはそれとしても、正義というはイエス・キリストの尺度ではかる以外に、人間が勝手に決めるものではないのである”(P341-2) つまり、「正義は神のみぞ知る」のであって、人間が正義を云々することはできない、ましてや「戦争に正義はない。だから絶対にしてはならない」ということです。自衛隊に携わる人たちにとって、軍人として祖国への忠誠を果たす、とうことは、すなわち諸外国からの軍事的圧力に抗しうる抑止的武力をいかに維持するか、ということにあるのであって、実際に外国と武力を交えることなどでは決してない、ということです。
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自衛隊の動きについて |
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航空自衛隊の現役空幕長だった人の懸賞論文が物議をかもしています。太平洋戦争のときの日本は「侵略国家などではなかった」と述べているようです(※)。 ※http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081031/plc0810312246013-n1.htm 私は、太平洋戦争及びそれまでの日本の道のりについて、これまでも本ブログ及びHPで取り上げてきました。ここでは、古代ローマの偉大なる英雄である、ユリウス・カエサルの次の言葉を改めて掲げたいと思います。すなわち、『人間ならば誰でも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない』と。 太平洋戦争を巡っては様々な見方があり、それはそれで自由なわけですが、しかし、それによって結果として広島・長崎での原爆を含め300万人以上の日本人が犠牲になり、中国を含めたアジアの諸国での無数の犠牲を伴っていることからしても、そのことの発端(原因)は日本の側にあった、少なくとも真珠湾奇襲がなかったならば起こりえなかった、という事実を看過して議論すべきではない、ということがいえます。太平洋戦争を「大東亜戦争」という言い方をするほとんどの人が、それは「正義の戦争」だったのであって、アジアを欧米の列強から解放する戦いであったのだ、ということをいいますが、そもそも<戦争に正義はない>のであって、ましてや<アジアの解放>などということは、とんでもない「思い上がり」であり、アジアでの盟主は日本なのであるという、裏返せばアジアの人々への蔑視の表れに他ならない、とさえいえると思います。 また現在議論となっている「集団的自衛権」についても、自衛隊が後方支援だけではなく、武器を使うこともありうる前線での活動ができるように、という思惑もあるようですが、これも現憲法の精神及び国の軍隊のあり方の基本ということからいって、危険な考え方であることはいうまでもないことです。ここでは、『淵田美津雄自叙伝』に関連して取り上げた、太平洋戦争開戦時に海軍航空本部長だった井上成美という方が、「三国同盟」及び「日米開戦」に強く反対したときの理由を掲げます。すなわち“「国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり、他国の戦いに馳せ参ずるがごときは、その本質に違反す。---海軍が同盟(三国同盟)に反対する理由は、この国軍の本質という根本理念に発する。---たとえ締結国が、他より攻撃せられたる場合に於いても、自動参戦は絶対に不賛成にして、この談は最後まで堅持して譲らざりき」”つまり、今であれば、日米安保条約に基づいて、自衛隊が出動するあるいは参戦するなどということがあってはならない、ということです。 国を外からの脅威から守る軍隊は、そのための抑止力を保持し続けるのがその目的であり、実際に武力を使う、あるいは戦争をしてしまってはいけないのであって、戦前のように「唯我独尊」的になると手に負えないものと化してしまう(つまり武器を使いたがる=戦争をしたがる)ことになるのです。今回の件は、今の自衛隊にそのような芽(唯我独尊的な考え)が出てきつつあることを物語っているのではないか、と思えてなりません。
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淵田美津雄自叙伝を読む(1) |
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私は、1冊の本を読み終えました。それは、NHKラジオ(深夜便)で取り上げられ、たまたまそれを聴いていて、大変興味を覚えたので買い求めたものでした。題名は、『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(講談社)というもので、中田整一氏が編纂・解説を行っています。 私は、それまで淵田美津雄という人のことを全く知りませんでした。真珠湾奇襲から始まって、原爆投下、そして終戦、降伏文書への調印、さらには極東国際軍事裁判という、太平洋戦争に関連する大きな出来事の真っ只中にいた、数少ないというより唯一のいわば「生き証人」の回想録であり、誠に貴重なものとなっています。その意味では、今の混沌とした時代にこの本が出たということは、何か因縁めいたものを感じますし、太平洋戦争の真実を知ることによって、私たちにとって、これからの日本の指針を探るための大いなる契機ともなりえるものと考えられます。 さて、私はこの本を2つの切り口から私なりにみてみたい、と思います。ひとつには、<なぜあのような戦争を日本はすることになったのか?>ということであり、次に、淵田自身の数奇な運命ともいえるその歩みに伴う心の変遷についてです。 まず、なぜ日本は・・・?という点についてです。これについては、本に描かれている内容に基づいて、いくつか上げたいと思います。 ▽最初に上げられるのは、これまでも取り上げてきたことになりますが、「日露戦争」の影響がやはり大きい、ということです。本の始まりの部分で、淵田が3歳のとき日露戦争が起こったことに触れ、「3歳の幼い魂は軍人にあこがれ---大きくなったら海軍大将になろうと思い立った」と描かれています。また、<日露戦争の夢をもう1度>という思いが、国民及び軍部にも強くあった、ということがいえます。 ▽次に、1920年代(大正時代)に日本海軍は、既にアメリカを「仮想敵国」としていた、ということがあります。淵田が海軍兵学校に入校したときに、「なにかにつけて映ることは『お前の敵はアメリカだ』ということであった」と書かれています。 ▽一方、アメリカにおいては、1924年(大正13年)に『排日移民法』が議会で承認されて、これは日本人への差別だ、ということで、日本国民のアメリカへの敵愾心が高まった、ということがあります。 ▽そして、1922年(大正13年)の米英を相手としたワシントン海軍軍備制限条約に始まる、日本に不利な内容の一連の軍縮会議は、昭和に入ってロンドン軍縮へと続き、日本の米英に対する敵対心を一層強めることになりました。 このような背景のもとに、「米英憎し!」の風潮は日本国内に満ち満ちていき、ついには真珠湾奇襲へとなだれ込んだ、ということになるわけです。
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淵田美津雄自叙伝を読む(2) |
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ここで私がこれまで知らなかった事実のひとつとしてあるのが、井上成美という人のことです。井上は、開戦時には海軍航空本部長だった方で、「三国同盟」及び「日米開戦」に強く反対した、ということです。終戦直後に開かれたかつての海軍首脳による「海軍戦争検討会議」に出席した際、三国同盟に反対したときの理由を、こう述べたということです。 すなわち、「国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり、他国の戦いに馳せ参ずるがごときは、その本質に違反す。---海軍が同盟(三国同盟)に反対する理由は、この国軍の本質という根本理念に発する。---たとえ締結国が、他より攻撃せられたる場合に於いても、自動参戦は絶対に不賛成にして、この談は最後まで堅持して譲らざりき」 私はここにひとつの尊厳なる「良心」あるいは「健全なる見識」をみる思いがすると同時に、そのような見識があの戦争の最中の日本人にあったことに、ささやかな救いを感じる思いがしました。 ところで、日本とアメリカとの関係で私が思うことに、その歴史的因縁ともいうべきことがあります。つまり、両国は1853年にペリー提督一行が江戸湾に姿をみせたときから、その歴史が始まるわけですが、そのとき日本はいうなれば圧倒的な近代装備のアメリカ艦隊を目の前にし、それに屈服する形で開国・開港に踏み切りました。そして、92年後に、所は同じ東京湾のミズーリ号の艦上で日本は降伏文書に調印することになったわけです。私は、ペリー来航以後の開国にいたるいわば戦わずしての<屈辱的敗北>が、後々にアメリカとの戦争に向かわせる遠因になったのではないか?、と思えてならないのです。
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淵田美津雄自叙伝を読む(3) |
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2つめの切り口としての淵田の心の変遷について触れたいと思います。既に述べましたように、淵田は3歳のときに海軍大将になりたいと思い立ったような、その当時典型的であったいわゆる「軍国少年」でした。そしてその望み通り海軍兵学校に入った淵田は、飛行機に強い魅力を感じ、飛行士の道を選択します。それが真珠湾奇襲へと通じていくわけですが、その後の数奇な運命は、広島への原爆投下との関わりの中で大きく展開していきます。
昭和20年8月当時、淵田は連合艦隊司令部に所属し、兼職として南方総軍参謀でもあり、広島の第二総軍司令部にも出向いていました。8月5日も会議で広島に滞在していて、その晩は宿舎の大和旅館に泊まる予定でしたが、司令部から急遽連絡が入り、その日のうちに大和基地まで移動する必要がでてきました。そして翌6日、広島に原爆が投下されたのです。さらに翌7日になって、淵田のところに司令部から連絡があり、東京からの調査団と合流し広島に入るよう命じられました。そして広島の惨状を直接目にすることになったのです。しかも爆心地はなんと2日前に宿泊していた旅館があった細工町の上空であったことを知った淵田は、「何という幸運であっただろうか。しかしそれを幸運として受けとめるには、あまりにも運がよ過ぎるのであった。私はこのとき、厳粛に神を仰いでいた。これは神の摂理で生かされたのだと。これが私のイエス・キリストへの信仰の始まりであった」と書いています。
終戦後、淵田は故郷の奈良県に戻りますが、その後も様々な運命的な出会いを重ねる中で、キリスト教へ帰依し、ついにはアメリカへの伝道への旅に出ることになります。この辺の詳しいことは本を実際に読んでもらいたいと思いますが、その中で一点私が非常に感慨深い思いに駆られたことがあります。それは、伝道中の淵田が1953年3月にニューヨークでマッカーサーに夕食に招かれた(マッカーサーと淵田はGHQのときに旧知の仲であった)ときのことです。その際、マッカーサーは、占領軍最高司令官であったときのことを述懐して、日本国憲法の戦争放棄条項(第9条)に触れ、当時の考えを次のように述べたということです。 すなわち、「当時自分は、原子爆弾の出現によって---敵も味方もともに滅亡する。まったく人類の破滅でしかない。そのような見地から、世界は戦争放棄の段階に近づきつつあるとの感を抱いていた。日本を軍事的に無力化する連合国の方針もあったし、また日本をして率先、世界に戦争放棄の範を垂れさせようとの意図もあった」
このマッカーサーの言葉は、今の日本人に対しても大変重要なメッセージであり、私たちは憲法の第9条の意義を改めて強く認識するとともに、これをなくしてしまおうなどということは、ゆめゆめ考えてはならい、と痛感した次第です。
本書には、この他にも私たちが知らなかったことや不正確に理解していた事実が数多く述べられており、その意味でも大変重要かつ貴重な本となっています。今後も、折に触れ取り上げたいと思っています。
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終戦の日に思う |
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「終戦の日」に関連して述べたいと思います。 1945年の終戦までの過程をどうとらえたらよいのか、ということについては、相反する二つの思いが交錯します。ひとつには、明治以来の近代化(欧米列強に追いつくための)の歩みの中では、国民の犠牲的な奉仕が必要不可欠であり、国の領土拡大を含めた発展が最優先であった、という見方です。他方は、国の発展はもちろん大事だが、国民の生命(いのち)を含めた基本的な権利の確保はそれ以上に重要であり、国家への犠牲となることは最小限に留めるのが国の役割であるべきだ、という立場です。
19世紀後半から20世紀初頭にかけての、帝国主義(植民地主義)時代において列強と肩を並べるためには、軍事力の強化が最優先であったことは否めない面があり、日清戦争、そして日露戦争と勝利を重ねたことは、日本の国際的地位を大きく高めることとなったのも事実です。 しかしながら、その後の日本の選択が戦前の歴史においての大きな分岐点でした。この点について、私は以前次のように述べました。
“日露戦争以後の時代---に、別の選択をしていたならば、日本はまったく異なった歴史を刻んでいたはずです。---日露戦争によって、当面の一番の脅威であったロシアを排除できたのだから、その後の戦略としては、『外交』を中心として、『力(軍事)』による対抗からは一線を画す道がありました。ここで言う外交という意味には、政府レベルでの主に大使館を通じてのものだけでなく、民間レベルでの「交流=コミュニケーション」をより深めることを含んでいます。---国としての「総合的なコミュニケーション」としての外交が、今から約100年前の日露戦争以後の時代からなされていれば、また相当違った国のあり方になっていた”(「日露戦争とその後」)
つまり、日露戦争の勝利により日本は、ときの政府のみならず多くの国民が、国の力は軍事力でしか世界には通用しないのだ、という意識を強く抱いてしまった、ということです。この凝り固まった観念から抜け出せないまま、その後の軍拡路線をひた走ることになったわけです。
さらに言えることは、戦前の日本の転換点であった1920年代は「大正デモクラシー」の時代でもあった時期であり、このことは13日にも触れたところです。もし、この時期に民主主義がある程度確立することができたならば、軍事に頼るのではなく、外交(対話)による国際協調の路線への道を選択できた可能性があったということであり、昭和に入ってからの戦争による国民の犠牲は少なくて済んだのではないか、約310万人ともいわれるまでの犠牲者を出すことには少なくともならなかったのではないか、と思えてなりません。
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日露戦争とその後 |
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日露戦争は、明治の日本国家にとって、「存亡を賭けた」ものでした。 日本は、ロシアと戦うに際し、当初から講和の上での勝利を目標とし、敗戦はすなわち日本が「滅びる」ことを意味していました。そして、結果は講和による勝利を収めました。 しかし、問題は、その後の日本が歩んだ道でした。日本の近代歴史上の分岐点である、この日露戦争以後の時代(明治末期から大正にかけての昭和になる前)に、別の選択をしていたならば、日本はまったく異なった歴史を刻んでいたはずです。 つまり、欧米列強への仲間入りをする、という方向ではなく、日露戦争によって、当面の一番の脅威であったロシアを排除できたのだから、その後の戦略としては、 『外交』を中心として、『力(軍事)』による対抗からは一線を画す道がありました。 ここで言う外交という意味には、政府レベルでの主に大使館を通じてのものだけでなく、民間レベルでの「交流=コミュニケーション」をより深めることを含んでいます。
太平洋戦争後62年を経た今でも、日本は世界に確固たる地位(日本国憲法前文で述べられている『平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位』)には届かない実態があります。 先に述べた国としての「総合的なコミュニケーション」としての外交が、今から約100年前の日露戦争以後の時代からなされていれば、また相当違った国のあり方になっていたと想像されます。 近隣諸国をはじめ他国の日本および日本人に対する理解と尊敬を得ることができないことの原因となっているのが、先の戦争です。 この戦争を、自衛のためのものだった、といって擁護する人たちがいます。しかし、自衛ならいいとか、侵略ならよくないとか、いうことではなく、問題は、外交戦略として、あらゆる手を尽くした結果なのか、ということです。 日本は、国際的に孤立化し、ついに「国連脱退」という暴挙を行いました(国連での脱退演説のあと松岡大使は『大変なことをしてしまった』とつぶやいた、という話が伝わっている)が、自ら解決の糸口を閉ざしてしまったやり方は、数千万の国民を有した国家がやることではありません。
日本は、明治末期から大正にかけての時代の国としての道の選択ミスから、二重にその困難を背負ってしまった、といえます。ひとつは、日本国民およびアジア諸国民の多大な犠牲であり、次に、その結果としての国家としての威厳(尊さ)の喪失です。 したがって、日本国憲法の前文に述べられている『名誉ある地位』を築くために、遅まきながらこれからでも国と国民がそのことを自覚してやっていくしかないわけです。 それが、これからの日本の生きる道である、と信じますし、今、日本と日本人はその道(選択)を100年前のように誤ってはならない、と思います。
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戦後63年目の夏を迎えて |
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今年も日本人にとっては「鎮魂の月」である8月がめぐってきました。広島(8・6)、長崎(8・9)、そして終戦(8・15)とつづく戦争の記憶は、永遠に語り継がれるべきものとなっています。
さて、「人は本来自由であり、何人もそれを侵すことはできない」という人間存在としての大原則(人理)があるとすれば、それは戦争という事態が発生したために、国により個人が徴用されて(赤紙一枚で)戦地に送られ、そして命を奪われるというようなことはあってはならない、ということでもあります。だからこそ、逆にいえば、<戦争は絶対にしてはならない>のです。
戦前、国家と個人との関係でいえば、個人が知る由もないまま、軍部の暴走により戦争の泥沼へと突き進み、その犠牲となった歴史を鑑みた場合、国民には基本的に戦争を止める術(すべ)がなかった、ということがあります。つまり、その当時の国民は「満州は日本の生命線である」というようなプロパガンダを信じこまされ、戦争に加担させられたということです。多くの国民は、国が大陸で行っていることは日本人にとっての<正義>なのだ、だから国に自らの命をささげることも臣民(戦前の国民を指す一般的な言葉)として当然なのだ、という意識をいわば強制させられていたのです。このようなことになったのは、以前から私が指摘している、明治維新以来の「国家社会」としてのあり方の帰結でもありました。
すなわち、“この国家社会という場合の意味は、それまでの「幕藩体制」といういわば群雄割拠を徳川幕府がかろうじてまとめてきた時代から、「日本国」というひとつの国家にすべく、中央集権体制をとり、西欧的な近代社会をめざした、ということです。明治以降の国家社会は、まず「殖産興業」や「富国強兵」の名のもとに、その近代化を推し進めていった中で、結果として「軍事大国化」”してしまったわけです。
<国家あってこそ個人がある>という、いわば転倒した(今の民主主義からすれば)考え方は、いつの時点かにおいて修正されなければならなかった、そして<大正デモクラシー>の時代がまさにそのきっかけとなるはずでした。大正デモクラシーは、大正時代から昭和の初めにあった日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称であり、政治面での普通選挙制度や言論・集会・結社の自由、外交面においての戦争や植民地支配の停止など、様々な方面から自主的集団による運動が展開されたものでした。
しかし、軍部の権力の拡大が始まるとともに、治安維持法の制定(1925年)などもあって、昭和に入って民主主義的な思想や運動は影をひそめ、結果として暴走を許す結果となったともいえます。 戦後63年の間、国民が戦争に関わることなく来ることができたのは、日本に民主主義が確立したことの証しでもある、ということでもあり、今後も民主主義を維持・強化していくことはもちろん、戦前の戦争による惨禍の反省のうえにたって打ちたてられた「日本国憲法」、とりわけ第9条の不戦の誓いを今後も堅持していくのが私たちの義務でもある、という思いを強くします。
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日本人が失ったもの |
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世界に誇れる「日本の文化」には何があるか?と問われた場合、何が頭に浮かぶか、というと、歌舞伎、能、禅、茶道etcなどが上げられます。 いずれも江戸時代以前のものばかりです。これからも分かるとおり、明治以降に日本は世界に冠たる文化を生まなかった、というより生み出しえなかった、ということです。 それはなぜか?前回述べたように、日本人の思考が、明治以降、<二者択一>な単一的思考になってしまったことに一因がある、と考えています。
日本人は、明治以降、それまでの民族的特徴を自ら「放棄」してしまった、ともいえるわけで、その結果として今の日本の姿がある、という気がします。 ここでいう日本の民族的特徴とは、いわば「自然と折り合いをつけながら生きる」ということができます。自然と向き合ったとき、何が正しくて、何が正しくないのか、を問うこと自体、意味がありません。この<自然と向き合う>といった場合、自然の一番身近なものは、自分自身の肉体なわけですが、「ちょっと体がきつい」とか「だるい気がする」等々のいわば<内なる声>とでもいうべき、言葉では具体的に説明しにくいような感覚をおぼえることがありますが、日々の生活の中ではそのことに囚われてはいられないのが現状です。
私たちの体は、母なる地球が育んだ数億年の進化の歴史の産物であり、その進化がもたらす様々な内なる声を秘めていてかつ発信もしている、ということの方がはるかに<重い事実>のはずなのに、日常の生活に埋没してしまっているがために軽んじられているあるいは意識されていない、ということがいえると思います。したがって、自らの体に対して、たとえば<いとおしく思う>というようなこともないわけです。 つまり、私たちは「仕事」という生きていくために大切な任務ないしは「糧」のために、そのほとんどを制約されており、朝起きてからの一日を決められたスケジュールに沿って生きています。その中で、内なる声または感覚はいわば埒外におかれており、自然と向き合うことをいわば「放棄」せざるをえないわけです。また、外部の環境としての氾濫する情報(言葉としての)の中に日々晒(さら)されている、あるいは惑わされている、ということもその背景の大きなものとしてあります。
しかし、日々生きていくうえで本来大事なのは、一瞬一瞬の連続であり、その積み重ねである、という事実です。生きることの意味を、「生きがい」というならば、それは一瞬の内にあり、また「言葉」などに表されるものでもなく、いわば「感じる」ものです。 現代の日本人が、生きがいをもてないでいる、ということがいえるとすれば、その感じるということでの<感性>が衰退してしまった結果なのだ、ということであり、その感性こそいわゆる<近代化>が始まった明治以降、日本人が失ってしまったことである、ともいえます。
二者択一的な<理屈(言葉)>ではなく、言葉ではいい表せないものを感じ取る、ということを、私たちは日々の生活の中でいかに取り戻すことができるかが、問われている気がします。
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日本人の選択 |
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戦前と戦後という切り口での様々な点について、これまでも述べてきました。 戦前・戦後といった場合、それは明治と昭和という時代で置き換えられるとともに、「日露戦争」と「太平洋戦争」という形での比較もできます。この点について、先にも取り上げましたが、半藤一利氏が『文藝春秋』に寄稿されています。 それを読んでの私なりの考えを、以下に述べたいと思います。
それぞれの戦争において、主導的な役割を担った人物像についてみた場合、その基盤となる物事の考え方に違いがあるのではないか、と考えました。 すなわち、日露戦争を率いた人々の思考法というのは、江戸期の日本的価値観に基づくのに対し、太平洋戦争に引きずり込んだ人々のそれは、明治以後の西洋的価値観に基づくものであった、とはいえまいか、ということです。
明治維新以後の日本人の価値観の転換の具体的な例として私がいつも頭に浮かぶのは、ドイツ人医師・ベルツの日記に出てくるエピソードです。 それは、明治維新以後の国づくりを担った官僚(いわゆるエリート)のものの考え方を物語るもので、次のようなものです。
・・・東京医学校(東大医学部の前身)で教鞭をとったドイツ人医師のベルツ氏(明治9年に来日)の日記に出てくる、当時の学生の考え方の例として、明治維新以前の日本の歴史についての捉え方が紹介されている。 それは、「いや、何もかもすっかり野蛮のものでした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっとはじまるのです」等々。・・・
ここに表れているのは、明治以前の日本の歴史を含めた文化のいわば<全否定的>な考え方です。 そのうえで、日本人がとった価値観は、西洋的な合理主義的といえるもので、それは「あれかこれか」というような、いわば<二者択一的>な思考法です。 これに対して、明治以前の価値観というのは、「あれもこれも」という、いうなれば<拡大選択的>な思考法であったのではないか、と考えています。
西洋的な思考法では、選択の幅を絞ることによって答えを出そうとするのに対し、日本的な思考法では、選択の幅を拡げることにより、答えをすぐ出そうとはせず、時間(手間)をかけるのです。 この違いが、すなわち日露戦争と太平洋戦争の結果の違いに直結しているのではないか、と思っています。
いうなれば、日本の明治以後のいわゆる<近代化>は、ベルツの日記に出てくるような学生を再生産する営みでもあったという意味で、東大を頂点とした西洋的な教育システムにあり、その基本は、<二者択一>という単一的な原理にもとづくものであった、ということができます。 そのことの一つの結果が、1945年8月であり、それはまた今も続いているわけで、二者択一的価値観に基づいているという意味では、社会の形態は違っても別な形での<破綻>をむかえる可能性がある、ということは容易に想像できることです。
したがって、今私たちが抱えている様々な問題や矛盾といったものの根本には、そのような価値観の問題がある、ということであり、「教育は100年の計」とかいわれるように、これまでの東大を頂点とした教育(受験)体制にメスを入れることなしに、日本の新たな国家(社会)像は描けないのではないか、と考えています。 そして、それは、明治以後連綿として続いている中央集権体制を支えるシステムとしての「官僚機構」とも密接に関連していることは、いうまでもありません。
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1930年代と今 |
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戦前のある時期と今の時代とが状況的に似通っている、ということがよくいわれます。 明治維新から太平洋戦争以前までの歴史を、簡略に辿れば、およそ次のようになります。
・・・明治維新後の日本は、欧米列強に対抗(餌食<植民地>にならないように)すべく、「富国強兵」の名のもとに近代化を急いだ時代でした。そして、日清戦争に勝ち(それで味をしめその気-軍事拡大の-になった)、さらに日露戦争に勝利し(この成功がその数十年後の破綻につながっていくことは司馬遼太郎氏が指摘したことです)、「軍事大国」の道を歩んでいきます。 1945年の破綻(崩壊)までの間に、社会的には、1923年の関東大震災やその後の金融恐慌などの社会不安があり、破綻の背景ともなっています。
こいうふうにみてくると、戦前の社会不安の時期(1920-30年代)と現代の90年代以降の「バブル崩壊」、「阪神大震災」等々は、状況的に共通するものが感じられます。 そして、戦前の日本の破綻が、1945年であったことからすると、現在の日本の本当の破綻(今はその途中の段階)は、2010-15年頃になるという見方も成り立つわけです。
明治以降の近代日本は、戦前は「軍事大国」として破綻し、そして今は「経済大国」として『2度目』の破綻に向かっているのを、もちろん座して見ているわけにはいきませんので、戦前を『教訓』にして、私たちは何を考えそして行動しなければならないか、ということが問われている、といえます。
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戦前の意味するもの(1) |
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今年も8月15日をむかえ、あの戦争は何だったのか、を様々な形で問わなければならないときがきました。 先の戦争に対しては、大きく二つの見方があります。 無謀な戦争に国民を駆り立て暴走し・破綻した日本の責任を全面的に問うものと、かたや国土の「自衛」のためやむを得ず戦争となったのであって、日本よりアメリカなどの責任の方が大きいとする見方です。 後者の見方をとるのが、最近の例でいうと安倍首相であって、「戦後レジームからの脱却」は、戦前の日本を「悪者扱い」するのではなく、日本はやむを得ず戦争に追い込まれたのであって、基本的な考え方に間違いはなかったのだ、ということを意味しています。 つまり、戦前の日本に対する見方は、アメリカを始めとする「連合国」によって流布されたのであって、我々は我々の見方で戦前の日本の正しさをいわば「再評価」しなければならない、ということをいっているわけです。 現行の憲法が、アメリカからの「お仕着せ」であったという考えから、安倍首相が「日本人の手による憲法をつくりたい」ということで、憲法改正を目論んでいることにも、そのことが表れています。
過去の歴史を語る場合、「正しかったのか、そうではないのか」を議論する意味はほとんどありません。つまり、あれこれについて正しいのは何なのか、ということは誰にも決められないことなのであって、国のあり方を議論するときにも、国にとっての「正義」は何なのか、といった方向になったとき(今のアメリカが『テロとの戦い』を正義の御旗にイラクに侵攻したのはその例である)は、すでにその時点で方向性に疑問を呈する必要があります。
戦争について考える場合、「国と国の間の戦争は、許されるのか否か」という根本かつ重大な問題があります。 1928年の『パリ不戦条約』(当時の日本も調印した)以後、基本的に「自衛戦争」以外の侵略戦争は禁止されている、ということになっています。 戦前の日本にとっての重要問題が「満州」にあったことはいうまでもありませんが、満州を自国化(併合)することは、国際的な反発もあってできないため、『満州国』として独立させ事実上、日本のいわば付属あるいは配下国とした経緯があります。 その後は終戦までまっしぐらに暴走していくわけですが、そのように日本を動かす原動力となったのは、「満州は日本が苦労して手に入れた権益がある領土なのだ(日本の生命線)」という、日露戦争以後の日本人の根強い意識がありました。
そういう国民の意識をバックグランドに当時の軍部が、「我々は日本の正義のために戦うのだ」ということで、国民を戦争に駆り立てていった構図があります。 これこそは、まさに『自国本位の論理』であって、本来それぞれの国は、他国とのいわば『共生存的関係』でお互い平和に存続するのが基本であるべきなのに、戦前の日本は、朝鮮(1910年に併合)そして中国と、隣国の主権をまったく無視した形で侵略していったわけです。
こういうふうにみてくると、戦前の日本のやり方が、世界の中の一国として、国際的な協調を基本に国策を推進すべきなのを、まったく反対に国際的に一国だけ孤立して、いわば唯我独尊的に暴走していった姿がみえます。 そのような戦前の姿が、仮にも「肯定的」にとらえられることがあるとすれば、そのような見方は、非常に危険なものを含んでいる、といわざるをえません。
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戦前の意味するもの(2) |
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戦前を考える場合、なぜ国民は戦争にズルズルと引きずり込まれてしまったのか?という素朴な疑問が消えません。 ひとつには、一旦踏み出した道を引き返すのは、「勇気」が要るし、なかなかできない、ということがあります。 また、「この戦争は日本にとっては正義の戦いなのであって、悪いのはアメリカやイギリスだ(鬼畜米英)」という軍部の宣伝を、国民が信じ込まされていた、ということです。
そして、その軍部のいわば「煽動」を、大新聞などの当時のマスコミが、大きく報道し、それに積極的に「加担」したということがあります。 半藤一利氏による『昭和史』(平凡社)の中にも書かれているように、満州事変以後、軍部の思惑もあって、大新聞はこぞって満州での「連戦連勝」を報道し、売上を大いに伸ばすとともに、国民の戦争気分を盛り上げることに役立った、という経緯があります。 その意味で、新聞の戦争に対する責任は大きいといわなければなりません。 自らの売上のために、軍部(陸軍)といわば「結託」し、戦争という非人道的な行為をまさに「売り物」にした、ということは、「不偏不党」・「公正」などが本来の使命であるはずの新聞社がとる行為であるわけがありません。
このように、本来「良識の府」であるべき新聞が、そうではなくいわば「自社本位化」し、国民にとっての良識から大きく道をはずれてしまった戦前のあり様は、今の時代にも「教訓」として通じるものであり、新聞やテレビの報道が「付和雷同」的に感じられたときは危険信号である、ということだと思います。
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戦前の無責任体制について(2) |
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そして、その妄信をいわば「正義」のように勘違いした関東軍及び陸軍やそれを煽り立てるエデオローグたち、さらにはその尻馬にのった新聞等のマスコミなども交錯しながら、『満州国建国』あるいは『2・26事件』へと続いていくわけです。
さらに、そのような「無責任な思考」が、人が本来もっているような「良心的な想像力」をも曇らせてしまった、とみています。ここで言う良心的な想像力とは、たとえば「人を殺したらどうなるか、その人に関わる人たち(家族など)の悲しみは・・・」というような、ごく当たり前のことです。 戦前の日本は、この当たり前の想像力さえも喪失し、朝鮮半島そして中国に侵攻し多くの人々を犠牲にしたわけです。 いわば国全体が「自分本位化」し、他国の痛みなどは微塵も感じないほど、想像力が「欠如あるいは麻痺」していた、ということができます。
話を最初に戻しますと、従軍慰安婦の問題も、そうした戦前の戦争という「悲惨な状況」の中で生じたことである、つまりその戦争さえなければ起こりえなかった、ということに謙虚に思いをめぐらせば、日本がこの問題に対して臨むべき態度は自ずと決まってくる、と思います。
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戦前の無責任体制について(1) |
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今いわゆる「従軍慰安婦」の問題が、日米の間で懸念が拡がっています。 ここでは、そのことに直接触れることはしませんが、これは戦前の日本の歴史に関わることで、つい最近読む機会を得た、半藤一利氏による『昭和史探索』(ちくま文庫)とも併せながら述べたいと思います。
戦前の日本については、これまでも述べてきましたが、『昭和史探索』によりますと、昭和20年8月の「破綻」に至る道筋は、昭和3年(1928年)のいわゆる「張作霖爆殺事件」から始まった、といわれています。 この事件は、いうまでもなく関東軍の謀略によるものなのですが、関東軍を含めた当時の陸軍のいわば「暴走」によって、その後の日本は奈落(地獄)の底をみることになったわけです。 「日本号」という列車が、機関車の操縦を陸軍という名の運転手に乗っ取られて、暴走し、そして転覆させられてしまった、ということもいえます。
この陸軍の暴走を許してしまったことの背景には何があるのか?ということになりますが、まず一番の要因としてあげられるのは、明治時代の「日清」及び「日露戦争」に日本が勝利したことがあります。 すなわち、その勝利(成功)によって、「神国日本」そしてその「不敗神話」が軍部はもちろん国民の間にも拡がっていった、ということです。 「成功体験」が、結果として取り返しのつかない「失敗(破綻)」となってしまうことは、個人でもあるいは企業においてもまま起こりうることですが、戦前の日本は国全体でまさにその『罠』にはまってしまった、ということだと思います。
また、戦前の「昭和の破綻」をもたらした要因として、いわば構造的なものとして考えられるのが、明治以来の「官僚機構」(※)による『無責任体制』であり、またそれと一体となっている内面においての『想像力の欠如』である、ということがあります。 まず無責任体制ですが、いうまでもなく戦前の日本は「大日本帝国憲法」のもと、天皇を頂点とした「立憲君主制」をとっていましたが、このことが結局はそのような体制に帰結した、ということがいえます。 つまり、天皇はいかなることに対しても、ご自分の意見を言うことはありませんし、そのときの政府(内閣)に形式的に「裁可」を行うだけであり、したがって「責任を負う」ということも一切ありません。
このことが、天皇を「大元帥」としていただく「皇軍」としての軍部(特に陸軍)が、いわば「我々は天皇の名のもとであれば何でも許されるのだ」という『妄信(あるいは信仰といってもよい)』を抱くことになった、ということがいえます(これがかつて司馬遼太郎氏が指摘した、いわゆる『統帥権』の問題です)。
※明治維新以後の国づくりを担った官僚(いわゆるエリート)のものの考え方を物語るエピソードが残っています。 ・・・東京医学校(東大医学部の前身)で教鞭をとったドイツ人医師のベルツ氏(明治9年に来日)の日記に出てくる、当時の学生の考え方の例として、明治維新以前の日本の歴史についての捉え方が紹介されている。 それは、「いや、何もかもすっかり野蛮のものでした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今からやっとはじまるのです」等々。・・・
ここに表れているのは、明治以前の日本の歴史を含めた文化の<全否定>であり、その後の<近代日本>が歩む道と、ある意味では密接に関連しているといえます。
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戦前の日本を思う |
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戦後の日本にとっての8月15日は、毎年終戦記念日として特別な日です。 昭和20年8月までの日本の歩みは、遡れば、明治維新まで行き着くと思われます。明治維新以後の日本のあり様は、欧米帝国列強に押しつぶされ(植民地化)ないように、それらと伍していく”強国”にいかに早く達するか、ということの一点に集中(富国強兵)していました。 その強国への仲間入りは、日清戦争に勝利したことにより突破口が開かれ、次いで、日露戦争にも勝利したことで「確信」めいたものとなりました。
この時代を描いた司馬遼太郎氏による『坂の上の雲』を読むと、日露戦争の時の日本人は、軍人も国民も「ロシアに勝つ以外日本の国家としての未来はない」ということで一体となっていたことがうかがえます。 日露戦争は、もし結果が歴史の事実と逆であった場合、その後の日本しいては世界の様相が今とは相当異なっていただろう、ということを想像すると、感慨深いものがあります(その場合日本はロシアの属国となり日本の文化そのものが維持できたかどうか等々)。 ロシアに勝ったということが、多分に”運がよかった”という面が大きかった、ということを、『坂の上の雲』の中でいえば、秋山真之が特にそのことを感じていて、このような心情がいわば『神国日本』という信念を軍人のみならず、国民にも植え付けてしまった、ということがあります。
戦争は、いうまでもなく兵士と兵器、そしてそれを行使する作戦によって行われるものです。 勝敗を決するのは、基本的に兵士・兵器の物量あるいは最新性(性能)がその大きなウエイトを占めています。 日露戦争は、陸軍(奉天会戦)においても、海軍においても(日本海海戦)物量的にはロシアが上回っていましたが、相手の官僚的(自己保身)な司令官(陸軍のクロパトキン、海軍のロジェストウエンスキー)の作戦遂行上の誤りのため、あるいは気象条件などが日本に有利に推移した(それらを『神』がなせる技だと思い込むの無理がないほどに)ために勝利することができました。 このことが、後の中国大陸への侵攻へと軍部を動かしていくことにつながっていきます。 つまり、物量的には相手よりも劣っているのに、その劣勢は『神頼み』の精神力でなんとかなるのだ、という”妄信”が特に陸軍を支配し、「日本は負けるはずがない」という確信(不敗神話)のもとに「暴走」していったのです。 物質的な破壊の強弱は、物質でしか証明されないのに、そこに精神をもってきたことに、日本的なあり様がうかがえます。
かつての欧米列強のいわゆる『帝国主義』は、弱肉強食の世界であり、それは物質的破壊の量の世界であり、そこに「精神力」などが入る余地などないのだ、ということを戦前の日本人は結局気づくことなく、原爆の洗礼を受けることになるわけです。 原爆こそ物質的破壊の究極のものです。アメリカは、日本の『特攻』に対して、原爆をもって日本人に物質的力のなんたるか、を知らしめたともいえます。 そしてこのことは、明治維新で帝国列強と弱肉強食の世界で伍していこう、と日本が選択したときにいわば「宿命化」されていたのかもしれません。
島国の資源小国・日本は、物質的な力の強弱での世界で競うことはこれからもできないのだ、ということを、戦後62年経った今、改めてはっきりと認識するとともに、物質的な競争(資本主義)とは違った価値観を確立していく必要があります。
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